1148.鍛錬篇:結末に根拠はあるか

 どんな物語にもいつか終わりはやってきます。

 しかしそれは読み手の想定の範囲内でしょうか。

 ときには逸脱するのも悪くない。

 ですが、いつも斜め上を行くのは感心しません。





結末に根拠はあるか


 物語には必ず「結末エンディング」が存在します。

 大団円で終わるのか、バッドエンドで終わるのか、メリーバッドエンド(メリバ)で終わるのか。

 それだけで後味が変わってくるのです。

 しかしその「結末エンディング」は唐突すぎてはいませんか。




いかにオトすか

 質のよい漫談は、まず「結末」ありきです。

 冒頭のなにげない一言が「結末」につながって腑に落ちる。つまり「オチ」がつきます。

 だから寄席に来ているお客様は、ひとつの漫談で大きく笑ってしまうのです。

 小説でも「結末」ありきで書き始めるべきでしょう。

 どんな「結末」が待っているのか。あなたは「企画書」「あらすじ」の段階で「結末」を創り込みましたよね。

 冒頭から「結末」まで最短距離で突き進む物語もあります。

 しかしたいていの連載小説は、脇道に逸れながら進み、「佳境クライマックス」で事態が急変して「結末」で一気に「オチ」をつけるものです。

 だから読み手は「結末」がまったくわからないまま作品を読みます。

「最短距離」で突き進んでしまうと「結末」が丸わかりなのです。それでは読み手をワクワク・ハラハラ・ドキドキさせられません。「結末」がわからないように話を展開する話術が求められます。

 これって漫談と同じですよね。

 冒頭と「結末」はあらかじめ決まっている。その中でいかに受け手を惹きつける小さな笑い(感動)をとりにいくのか。




結末の必然性

 では冒頭と「結末」がつながってさえいれば、あとはどのように展開してもかまわないのでしょうか。

 それではじゅうぶんな物語とは言えません。

 物語は自動車やバイクなどの「片輪走行」が理想形です。

 冒頭と「結末」は両輪がしっかりと地面に着いている。

 その間は「片輪走行」をして不安定さで読み手の注意を惹くのです。

 そして「片輪走行」というのにはわけがあります。

 片輪は地面に接している。つまり冒頭と「結末」の流れに引っかかっているのです。

 どんなに内容が激しく展開していても、わずかに冒頭から「結末」へ向かう流れと接している。

 ただ読んでいるだけでは冒頭から大きく逸れていくような展開に見えながらも、実際には定められた「結末」へとつながっています。

 冒頭と「結末」はゴム紐でつながっていると思ってください。

 なにも考えなければゴム紐は冒頭と「結末」を最短距離で結びます。

 波乱の展開、怒涛の展開などでゴム紐を上下左右に動かしてはピンで留めていくのです。

 こうすれば、どんなに展開が逸れていっても、物語は必ず「結末」へと向かいます。

「結末」には、そこに至るまでの過程をすべて落とし込むべきです。そうすればすっきりとした読後感を与えられます。

 たとえば「戦いたくない」という青年がいて、戦場へ駆り出されて敵兵を殺す。贖罪の気持ちを抱いて、殺した敵兵の家族を探し出して謝罪に出向く。その家族に殺されそうになっても「戦いたくない」という思いから、されるがままになる。あわやのところで家族から「あんたを殺してもあの人は帰ってこない」と言われてその場を帰らされる。自宅へ戻っても「戦いたくない」との思いが募り、「結末」へと向かう。

 この場合「戦いたくない」というテーマが冒頭から「結末」までつながっています。

 想定される「結末」は「自殺する」「命令した上官を殺す」「次の出撃命令を無視して刑に処される」「隠遁する」「敵国へ亡命する」「昇進して戦争そのものを根絶する」です。

 この中で最も前向きなのが「昇進して戦争そのものを根絶する」で、最も後ろ向きなのが「自殺する」。

 ライトノベルなら前向きなほうが好まれますし、文学小説では後ろ向きなほうが好まれます。

 いずれにしても作品を貫くテーマから逸脱しない展開の末にたどり着いた、必然性のある「結末」です。つまり「片輪走行」をしています。どちらかの車輪が地に着いているのです。

 これが「大商人になって戦争屋でボロ儲け」などという「結末」になってしまったら、テーマを完全に無視しています。「片輪走行」にすらなっていません。宙に浮いてしまっているのです。

 しかし小説投稿サイトのファンタジージャンルでは、この「宙に浮いてしまっている」作品が殊のほか多い。

 終わらないよりはマシだと思いますが、脈絡のないオチをつけるのはストーリーテラーとしては失格です。

 やはり「結末」は先に決めておき、それを示唆するような前フリをしっかり入れていくことで、納得のいくオチをつけるべきでしょう。




根拠のある結末

 このように「結末」には、そうなるべくしてなったという前フリつまり「根拠」が必要です。

 根拠の積み重ねが「結末」の納得感を左右します。

 基本的に笑いが絶えないような出来事エピソードの積み重ねであれば、大団円つまりハッピーエンドを暗示させるのです。もちろん大どんでん返しでバッドエンドへ進めてしまってもかまいません。しかしバッドエンドにつながる根拠が欲しいところです。

 マンガの赤塚不二夫氏『おそ松くん』で松野家の六つ子は連載終了のときに全員フグ毒にあたって死んでしまいます。それまでそんな前フリ「根拠」がいっさいなかったので、かなり唐突な終わり方です。その納得のいかない「結末」が、のちにアニメ『おそ松さん』としてリバイバルされた理由かもしれません。

 物語が完全に決着した「結末」でなければ、読み手は「終わったんだ」という印象を抱けないのです。

「主人公たちは死にました。これで連載は終わりです」

 これでは駄目なのです。

 アニメの富野由悠季氏『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』のラストもこのパターンで終わってしまったがために「皆殺しの富野」の異名を冠されるようになりました。

 富野由悠季氏『機動戦士ガンダム』はなぜ打ち切りになりながらも人気が出たのでしょうか。

「主人公たちが生き延びた」からです。もし次々と主要人物が死んでいったら、主人公アムロ・レイと敵方のニュータイプ少女ララァ・スンとの会話「人はわかりあえる」という作品のテーマが台無しになると思いませんか。アムロとシャアの戦いも最後には「わかりあえる」ことで終了しています。

『伝説巨神イデオン』で顕著なのは「人はわかりあえない」という『機動戦士ガンダム』とは真逆のテーマを扱い「結末」に持ってきたことです。その「結末」として全銀河の「文明が滅び」ました。

 この両極端なテーマに取り組んだからこそ、富野由悠季氏は「巨匠」なのです。

 通常「人はわかりあえる」から「戦争も終結する」というテーマがあれば、これだけで一生食いっぱぐれません。しかし富野由悠季氏は「人はわかりあえない」から「文明が滅ぶ」という正反対のテーマにも挑戦しました。

 あなたは根拠のある「結末」を書いているでしょうか。

 唐突な「結末」で終わってはなりません。

 主人公の作品内での歩みをそのまま延長した先に「結末」が存在する。そうすれば読み手は「結末」に予定調和を感じます。

 意外性のある終わり方をしたいのであれば、そのような終わり方になりそうな前フリ「根拠」を必ず書いておいてください。しかも終盤へ向かうにつれて強く「根拠」を出すのです。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』は、主人公ラインハルト・フォン・ローエングラムが死ぬところで終わります。これは終盤に向かってラインハルトの体調がどんどん悪くなるという「根拠」を示していたからこそ病死となったのです。もし誰かに殺害されて終わったのであれば、長編十巻を読んだ方は憤懣ふんまんやるかたないでしょう。病死だからこそのカタルシスが『銀河英雄伝説』にはあるのです。





最後に

 今回は「結末に根拠はあるか」について述べました。

 どんな小説にも「結末」は必ず訪れます。それは根拠のある「結末」でしょうか。

 唐突すぎる「結末」は読み手を置き去りにしてしまいます。

 名作と呼ばれる小説は、必ず根拠のある「結末」で締めているのです。



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