1071.鍛錬篇:心の傷と向き合う
今回は「心の傷」についてです。
皆様が小説を書こうと思い立ったのは、「心の傷」が原因ではありませんか。
目に見えない、あなたの中にある「心の傷」は、さらけ出さないかぎり誰にもわかりません。
だから人は、小説の形で「心の傷」を多くの人に知ってもらいたがるのです。
心の傷と向き合う
「小説を書こう」と思い立った方の多くが、なんらかの「心の傷」を抱えています。
コンプレックスやトラウマ、PTSDなど「心の傷」を癒やす手段として「小説」は最も元手がかからない表現方法です。
「心の傷」をしっかりと見つめ直し、形にして心を癒やし、将来への踏み台にする。
絵心がなくても心の中にある物語を表現できる「小説」には、「心の傷」を癒やす効果があります。
心の傷は一生の重荷
小説は「心の傷」を世の中へさらけ出す表現方法です。
そもそも「心の傷」がない方は小説を書こうとはしません。
多くの方に、あなたの心の中にある物語を知ってもらいたい。だから文章を連ねて小説を書くのです。
もちろん「希望」も小説の形で発表できます。しかし「希望」だけだとどうしても深みが出ません。
書き手に「心の傷」があると、主人公も同じ「心の傷」を抱えます。読み手は小説を読むと、主人公の「心の傷」を追体験できるのです。
「心の傷」を持つ作品は多くの場合「悲劇」として描かれます。
または「悲劇」のラストでわずかな「希望」を見せて「メリーバッドエンド」略して「メリバ」にするのです。
世の中で「名作」と呼ばれる作品は、多かれ少なかれ「心の傷」が描かれています。
川端康成氏『雪国』ではなぜ主人公・島村がひとりで越後湯沢を訪れたのか。「心の傷」を癒やすためです。
水野良氏『ロードス島戦記 灰色の魔女』では主人公パーンは「心の傷」である亡き父の汚名をすすぐために村を旅立ちます。
賀東招二氏『フルメタル・パニック!』の主人公・相良宗介の「戦争ボケ」も一種の「心の傷」です。
渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の主人公・比企谷八幡は高校デビューを果たそうと張り切っていました。しかし交通事故によって入学式へ出られなくなり高校デビューが叶わなかったのです。八幡の「心の傷」を癒やす物語が始まります。
「心の傷」はその人物に一生付いてまわる重荷なのです。
「心の傷」が癒やされたとき、物語は終わりを迎えます。
癒やしたあとに物語が長々と続くのは、引き際を見誤っているのです。
本来なら「心の傷」が癒やされたところで幕を閉じます。それが最も印象に残るからです。
冴木忍氏『〈卵王子〉カイルロッドの苦難』では主人公のカイルロッドは「卵から生まれた」という「心の傷」を抱えています。最終決戦でそれが解消され、カイルロッドは新たな旅立ちを迎えるのです。これなどは「メリバ」の好例でしょう。
重荷である「心の傷」を克服するため、主人公は前へ進み続けるのです。
旅の途中、「心の傷」が増えることもあるでしょう。それらを含めてすべて解消する終わり方ができれば「ハッピーエンド」になります。
もし「心の傷」を乗り越えられなかったら「バッドエンド」へつながるのです。
主人公がたどる心の旅
「冒険もの」でなくても、小説で主人公は旅をします。
さまざまな体験を通して、主人公の心は数多くの旅を続けるのです。
旅の終着点に達したとき、物語もまた終わります。
多くの場合「心の傷」を癒やす旅を続け、癒やされたらそこで物語が終わるのです。
たとえば卑賤の主人公が、全世界の王となって善政を布いたら終わり時。ここで終わらなければ、バッドエンドへと向かいます。
中国の楚漢戦争において楚の項羽を倒して漢帝国を打ち立てた高祖・劉邦がいました。
ここで終われば劉邦が主人公のハッピーエンドです。
しかし司馬遷氏『史記』はここで終わりません。
劉邦の死後、后妃の呂太后が施政権を握って暴政を極めます。各地を治める劉一族をことごとく抹殺し、呂一族を送り込み始めたのです。そして宮廷内でも、劉邦の恩寵が厚かった戚夫人を「人豚」として見世物にしました。ここで終わればバッドエンドです。
しかし建国の忠臣・陳平らは呂太后の死後、各地の呂氏をすべて排除して劉一族による血族支配体制を取り戻します。ここまで話が続いているからこそ『史記』は漢帝国の正統性を主張できるのです。
主人公の「心の傷」を癒す旅は、ひとりだけで達成できる場合もあります。
その場合はショート・エピソードとなり、短編小説にしかなりません。
主人公が思索して、ある気づきを得るのです。そこには誰も介在しません。ただひとりでああだこうだと懊悩しているだけです。気づきが得られたら、物語は終了します。
気づきを得られないまま終了することもあるのですが、その場合読み手へなにも伝えられません。
たとえば「友情とはなにか」というテーマを語りたいとします。そこで「人間不信」に陥った主人公を出して、あれこれ自己反駁を繰り返して正解が得られるとは限りません。
やはりひとりで悩むだけではなかなか問題は解決しないのです。
「AはBか」「AはCか」「もしAがBならどうなるのだろう」「もしAがCならどうなるのだろう」どちらが有利か有効かを考えたとき、答えが出るものと出ないものがあります。
答えが出るものなら、ひとりで思索に耽っても教訓は得られます。
答えが出ないものは、ひとりで考えさせても時間の無駄です。その過程を読ませられた人は「なにもわからないのかよ」と憤るに違いありません。
前回挙げた太宰治氏『走れメロス』は、「友情」という「心の傷」をどう取り戻すのかという話です。
小説は読み手も主人公と同じ「心の傷」を抱えます。
「心の傷」を癒すためには、「傷口」に塗る薬が必要です。ひとりで努力して治る見込みのある「心の傷」であれば、それほど深刻な傷ではない。
多くの「心の傷」は「他人の力を借りて癒していき」ます。ひとりで悩むよりも、悩みの解決を体現している人物がそばにいれば、解決ははるかに楽です。問題を傍から見れば解決方法が見えてくることもあります。
「心の傷」は読み手が元々持っている場合があります。そのときはあなたの小説に答えの「傷薬」を求めて読み進めるのです。期待に沿えば、読み手は自身の「傷口」を治したあなたのファンになります。
読み手が新たに抱えた「心の傷」なら感動を覚えるのです。
これは新興宗教の勧誘手法に似ています。
まずあなたが抱いてもいない不安や恐怖を刷り込み、それがいかにたいへんなことかに気づかせるのです。そうしてからあらかじめ定められた「解決法」を提示して、あなたの不安や恐怖を取り除きます。するとあなたはその新興宗教を信じてしまうのです。
不安や恐怖を植えつけたのも新興宗教ですし、取り除いたのも新興宗教。冷静になって考えれば自作自演だとわかります。しかし新興宗教は冷静になる猶予を与えません。一気にまくしたてて信者にしてしまうのです。
小説とは一種の新興宗教である。
そう考えると、村上春樹氏の熱狂的ファンである「ハルキスト」が世界中にいる答えだと思いませんか。
彼らは教祖・村上春樹氏に盲目的に従っているだけなのです。
最後に
今回は「心の傷と向き合う」ことについて述べました。
小説は新興宗教と同じです。
あなたが読み手の不安や恐怖を煽り、あなたがそれを解決させます。
それなのに読み手はあなたを信じてしまうのです。
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