1053.対決篇:村上春樹氏の迷比喩
今回は村上春樹氏の「比喩」についてです。
かなり特殊な「比喩」を書くのが村上春樹氏の特徴です。
そんな「特殊すぎる比喩」を『47のルール』からチョイスしました。
村上春樹氏の迷比喩
村上春樹氏を決定づけている要素こそ「比喩」です。
余人には書けないような「比喩」が村上春樹氏を表しています。
今回もちくま文庫・ナカムラクニオ氏『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』を引いていきます。タイトルが長いので『47のルール』と呼びます。
比喩は、文章を引き立てる魔法のような存在です。
料理にまつわる迷比喩
『風の歌を聴け』第10章
「店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと腋の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なり合って淀んでいる。」
比喩だとしても助詞「と」を使いすぎです。臭いものに「バウムクーヘンのように」と食べ物を用いるのはイメージが飛躍しすぎて、比喩になっていません。そもそも匂いの層が視覚化されているのでしょうか。そうだとしたら腋の下と下水が隣り合っていることになりますよね。このあたりも比喩として機能していません。
『ノルウェイの森』第10章
「私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」
さて「人生はビスケットの缶」とはどういう比喩なのでしょうか。辛いこと楽しいことはさまざまなビスケットである。だから人生はそれらが詰まったビスケットの缶である。ということでしょうか。でもビスケットの缶だとどこから食べてもよいわけで、「今これをやっとくと後になって楽になるって」には当てはまらないですよね。ビスケットのアソートだとしたら、嫌いなビスケットを先に食べておけば、残るのは好きなビスケットだけになる。だから「後になって楽になる」ということでしょうか。これはすぐに連想できない比喩ですね。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第23章
「まるで誰かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。」
これも意味がよくわからない比喩です。音を選ぶときに物を投げつけるのは比喩としてよくあります。これを細かく「巨大なロースト・ビーフ」を「のっぺりとした壁に」というのは発想が飛躍しすぎで、読み手がついてこれません。
『スプートニクの恋人』第4章
「ぼくは黙っていた。広々としたフライパンに新しい油を敷いたときのような沈黙がしばらくそこにあった。」
このフライパンは火にかけられているのでしょうか。それとも買ってきたばかりのフライパンなのでしょうか。テフロン加工でない鉄のフライパンなら、買ってきたらフライパンを空焼きしてから油を馴染ませ、食材がこびりつかないように下処理することもあります。その場合は油を差したらすぐにふつふつと音が聞こえてきます。となれば火にかけていないフライパンということになるのですが、それだと比喩として別にフライパンを用いなくてもよいですよね。
文学にまつわる迷比喩
さほど名の知られていない書き手を引き合いに出すことで、「僕ってこんな人の小説も知っているんだぜ」と得意満面な村上春樹氏の姿が浮かんできます。
知らない方からしたら、まったく伝わらないものは「比喩」にふさわしくないのです。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第15章
「気がつくと日はすっかり暮れて、ツルゲーネフ=スタンダール的な闇が私のまわりにたれこめていた。」
この比喩を海外文学に詳しくない私のような者が見ると「ツルゲーネフ=スタンダール」という書き手がいるように感じられます。しかし実際には『父と子』『初恋』を書いたロシアのイワン・ツルゲーネフ氏と、『赤と黒』『恋愛論』を書いたフランスのスタンダール氏の二名を引き合いに出しているのです。だから比喩として「国籍の異なる二人のような闇」はまったく機能していません。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第31章
「J・G・バラードの小説に出てくるみたいな大雨が一カ月降りつづいたって、それは私の知ったことではないのだ。」
大雨の描写でJ・G・バラード氏はどれほど印象に残っているのでしょうか。また読み手がJ・G・バラード氏の小説を知らなければ、比喩として機能しません。初見殺しもよいところです。
『ノルウェイの森』第4章
「「そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」/「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。」
『クリスマス・キャロル』『二都物語』で有名なチェールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ氏の小説を引き合いに出しています。これも小説を知らなければ機能しない比喩であり、初見殺しです。
『ダンス・ダンス・ダンス』第20章
「もう四月だ。四月の始め。トゥルーマン・カポーティの文章のように繊細で、うつろいやすく、傷つきやすく、そして美しい四月のはじめの日々。」
村上春樹氏が「早熟な天才作家」と評したトルーマン・ガルシア・カポーティ氏の文章のようにという比喩になります。これも作品を読んだことのない方には機能しない比喩であり、初見殺しです。また、英語で書かれた原文を読まないかぎり、「繊細で、うつろいやすく、傷つきやすく、そして美しい」文章かどうかはわかりません。
村上春樹氏が海外文学を比喩に出してきたら「眉唾もの」だと思ってください。
映画にまつわる迷比喩
映画も初見殺しのひとつです。観たことがなければイメージが湧きません。
『1973年のピンボール』
「雨はひどく静かに降っていた。新聞紙を細かく引き裂いて厚いカーペットの上にまいたほどの音しかしなかった。クロード・ルルーシュの映画でよく降っている雨だ。」
クロード・ルルーシュ氏は『男と女』『愛と哀しみのボレロ』の監督として有名です。この比喩の前におかしなのは「雨はひどく静かに降っていた。」です。「ひどく」は「甚だしく」と同義であり、「雨がひどく降っていた」のならかなり派手な音を立てます。それを「静かに」と形容するのは自然の摂理に適いません。ここで「ひどく」を用いるのは、なんでも「ヤバい」で済ませる「若者言葉」と大差ないのです。
『ダンス・ダンス・ダンス』第6章
「『スター・ウォーズ』の秘密基地みたいなあの馬鹿気たハイテク・ホテルが建っている。」
これはわかる方が多いかもしれませんね。しかし「秘密基地みたいな」と「馬鹿気たハイテク・ホテル」は噛み合っていません。なぜなら、地下深くに建てるから「秘密基地」なのであって、「ハイテク・ホテル」は地下にはないからです。だから「なんか変だ」と読み手は思ってしまうのです。印象に残したいがため意図的に「なんか変だ」と思わせたいのかもしれません。しかしたったひとつの文だけを印象に残すために『スター・ウォーズ』を持ってくるのは反則でしょう。
『羊をめぐる冒険』第4章
「生垣があり、よく手入れされた松があり、品の良い廊下がボウリング・レーンみたいにまっすぐ続いている。とにかく、それだけの建物が予告編つきの三本立て映画みたいに丘の上に収まっている風景はちょっとした見ものだった。」
「それだけの建物」とありますが、建物は前文でひとつも説明されていませんよね。説明したのは生垣と松と廊下だけです。まぁそこは比喩ではないのでこれ以上言及しません。「予告編つきの三本立て映画みたいに」は「風景」の比喩にはなっていません。
建築にまつわる迷比喩
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第29章
「時間のことを考えると私の頭は夜明けの鶏小屋のように混乱した。」
「夜明けの鶏小屋のように」とありますが、普通鶏小屋には卵を産む雌鶏しかいません。時を告げる雄鶏はほとんどいないのです。だから「夜明けの鶏小屋のように混乱した」は比喩になっていません。食肉用の鶏舎なら雄鶏がいてもかまわないのですが、たいていの雄鶏は高々と鳴き始める頃には「若鶏」として出荷されてしまいます。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第37章
「私は受話器を置いてから、もう二度とあの娘に会えないことを思って少し淋しい気持になった。まるで閉館するホテルからソファーやシャンデリアがひとつひとつ運びだされているのを眺めているような気分だった。」
これはある程度比喩が成立しています。「二度と会えない少し淋しい気持」を「閉館するホテルから〜」に託しているのです。ただ「少し淋しい」と「閉館するホテルから〜」の規模が釣り合いません。「少し淋しい」とは書いたものの、実際はもっと大きな淋しさを味わっているのかもしれないのです。
『1973年のピンボール』第14章
「眠りは浅く、いつも短かった。暖房がききすぎた歯医者の待合室のような眠りだった。」
眠りについての比喩のはずなのですが、「暖房のききすぎた歯医者の待合室のような眠り」とはどんな眠りなのでしょうか。「眠けが漂ってきた。」と書けば、比喩として成立するのですが。噛み合わない「比喩」の一例です。
美術にまつわる迷比喩
『1Q84』2 第16章
「彼女はまるでレンブラントが衣服のひだを描くときのように、注意深く時間をかけてトーストにジャムを塗った。」
村上春樹氏はレンブラントが絵を描くところを実際に見たのでしょうか。これは実際に見ていなければ書いてはいけない比喩です。
『1973年のピンボール』
「高い窓からルーベンスの絵のようにさしこんだ日の光が、テーブルのまん中にくっきりと明と暗の境界線を引いている。」
具体的にルーベンスのどの絵を指しているのか、あなたにはわかりますか。文中で解説していればよいのですが、どうも解説されていないようです。つまり「ここはルーベンスの気分だな」というだけで比喩に使っているのです。
『ノルウェイの森』第1章
「十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板や、そんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。」
村上春樹氏が好きなのは「のっぺりとした」という表現と「BMW」という商標権です。とにかく使いまくっています。美術の話をすれば「フランドル派」の絵画を観た人は何人いるのでしょうか。日本人は知らない方のほうが多いと思います。
『ねじまき鳥クロニクル』第2部第6章
「それはムンクがカフカの小説のために挿絵を書いたらきっとこんな風になるんじゃないかと思わせるような場所だった。」
この「カフカ」は『海辺のカフカ』の主人公・田村カフカでしょうか。違いますよね。小説家のフランツ・カフカです。つまり村上春樹氏は「カフカ」と言えば「フランツ・カフカ」だと知ったうえで「田村カフカ」と名付けたわけです。相当悪質だと思いませんか。
最後に
今回は「村上春樹氏の迷比喩」についてまとめました。
とにかく「よくわからない」のが村上春樹氏の比喩です。
それをさも高尚なものと読み手が解釈するから、必要以上に評価が高くなります。
比喩は誰が読んでもわかるものが最もすぐれているのです。
ほとんどの方へ伝わらない比喩に、価値などありません。
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