1048.対決篇:突然何かが消える、突然電話が鳴る

 今回は「なぜか突然何かが消え、なぜか突然電話が鳴る」ことについてです。

 村上春樹氏の作品ではよくあること。鉄板の展開なのですが、こうも頻発されると食傷ぎみになります。

 もっとスマートに書けないものでしょうか。





突然何かが消える、突然電話が鳴る


 村上春樹氏の作品では、よく「消える」のだそうです。

 今回も要所でちくま文庫・ナカムラクニオ氏『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』を引いていきます。タイトルが長いので『47のルール』と呼びます。




突然消える

「猫が消え、妻が消え、恋人が消え、色も消える。そうやってマジシャンのようにいろいろなものを次々と消してしまうのは、村上作品の様式美なのです。」と『47のルール』に書かれています。

「まるで、映画やアニメーションに出てくる古典的な魔法使いのように、一瞬で、人間も消してしまいます。『ねじまき鳥クロニクル』では猫が失踪した後に妻が消え、『国境の南、太陽の西』では島本さんが箱根の別荘から消え、『スプートニクの恋人』ではすみれがギリシャの島で煙みたいに消え、『騎士団長殺し』では「私」が絵を教える少女、秋川まりえが、短編「青が消える」(『村上春樹全作品1990〜2000』第一巻所収)では世界から青い色が、消えていきます。」「海が消えてしまうという物語もあります。「5月の海岸線」では、「僕」が十二年ぶりに自分の生まれ育った街に帰り、海の匂いを探して、子どもの頃に遊んだ海岸を訪れると、海が消えています。/ 埋め立てられたコンクリートの間に、ひっそりと残された小さな海岸線を「僕」は眺めるのです。」とあります。


 まず前提がおかしい。

 村上春樹氏が書いているのは小説です。小説では書き手がなんでもできます。「古典的な魔法使いのように」でなく、その人物について書かなければ消えるのです。誰が書いたって同じ効果になります。村上春樹氏だからできることではなく、誰がやってもできることなのです。

 芥川龍之介賞受賞作・黒田夏子氏『abさんご』では、ひとつずつ文字が消えていきます。村上春樹氏は「言葉あそび好き」とのことですが、このような発想はあったでしょうか。そんな作品なんて書いていませんよね。それでは「言葉あそびが好き」とは言えないのです。

「このように村上作品において、女性や猫などの「突然の失踪」や「喪失感」が重要なテーマになっているのは間違いありません。そして、しばらくすると主人公がそれを探しはじめて、やがて世界の裏側に入り込んでしまう、というのが村上文学の主な展開です。」とあります。

 とにかく愛着があるものが突然消えるのが「村上春樹氏の作品」の特徴なのだそうです。


「「どこであれそれが見つかりそうな場所で」では、ある日、マンションの二十四階と二十六階を結ぶ階段の途中で突然、夫が姿を消してしまいます。その妻から依頼された主人公「私」は、毎日その階段を調査しますが、いくら探しても夫の行方はわかりません。村上さんが、よく使うキーワード、エレベーター、パンケーキ、階段、ドーナツなどがちりばめられた、世にも奇妙な物語です。」とあります。

 これって明らかに発想力の限界を感じませんか。どんな作品にもエレベーターや階段があり、パンケーキやドーナツが出てくる。他の場所や食べ物を知らないのでしょうか。村上春樹氏は確か専業主夫をしていた時期があるんですよね。それなのにエレベーターや階段しか屋内の移動手段がなく、パンケーキやドーナツしか出てこないとなれば、どう考えても発想力を見出だせません。


「「ハナレイ・ベイ」では、ピアニストのサキの十九歳のひとり息子が、ハワイのハナレイ・ベイでサーファン中にサメに襲われ、消えてしまう。それ以来、サチは、自分の店でほとんど休みなくピアノを弾き、息子の命日が近づくと三週間の休暇をとってカウアイ島のハナレイ・ベイに行きます。そして、毎日ビーチに座りながら海とサーファーたちの姿を眺め続けているという切ない物語です。」とあります。

 この物語のどこが「切ない」のでしょうか。「ひとり息子を失ったから」という理由ではないですよね。それに未練があってひとり息子がいなくなった場所で「海とサーファーたちの姿を眺め続けている」ことが「切ない」とは思えません。

 ものすごく要約すれば「ひとり息子をサーファンで失った女性が、事故現場を訪れて海を眺めている」話です。どこに「切なさ」がありますか。ないですよね。

 それなのに「こういった喪失と再生をくり返していく中で、主人公の「僕」や「私」は、少しずつ成長していくのです。」とあります。

「喪失」は「なにかが消える」ことでわかるのですが、「再生」はしていませんよね。「ハナレイ・ベイ」のサチに「再生」はあったのでしょうか。この物語で「再生」があるとすれば、ひとり息子がサチのもとに帰ってくる以外にないのです。そんなファンタジー小説が文学小説になりえますか。よくて大衆娯楽エンターテインメント小説にカテゴライズされるだけです。




突然電話がかかってくる

『47のルール』には「村上作品において、電話というコミュニケーションツールは、つねに重要な役割を担っています。そして、いつも突然、謎の人物から電話がかかってきます。」とあります。

「『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭では、主人公、岡田享がロッシーニの「泥棒かささぎ」を聞きながらスパゲティーを茹でているときに、知らない女から電話がかかってきます。聞いたことのある声なのですが、享はその声の主が、誰なのかどうしても思い出すことができません。」ですからね。展開に詰まると電話が鳴り、勝手に謎の人物が話してくるのです。

「「女のいない男たち」(『女のいない男たち』所収)では、夜中の一時過ぎに誰かから電話がかかってきます。そして元恋人が自殺したと伝えられます。」「「納屋を焼く」の韓国映画版『バーニング』でも電話が重要な役割として全編に使われています。主人公が実家にいると、常に謎の電話が鳴り続けるのです。」などです。

「このように「電話」は、単なる会話のツールではなく、関係性を可視化してくれる魔法の装置です。映画やドラマでも冒頭に使われることが多い「飛び道具」。文章を書いていて、困ったときは、電話を鳴らしてみてはいかがでしょうか。」と結んでいます。

 まったくもって言語道断です。


 志駕晃氏『スマホを落としただけなのに』は村上春樹氏の逆を行き、電話をなくして始まるホラー映画です。「電話を鳴らしてみては」なんてすでに過去のこと。

 今は、いかにスマートフォンを話のタネとするかに工夫を凝らす時代です。

「謎の人物が謎の話をしてくる」は展開としてもまったく新しくありません。氏自らが使いまくったせいで陳腐化してしまったのです。

 冬原パトラ氏『異世界はスマートフォンとともに。』なんていう『小説家になろう』発のライトノベルも生まれましたしね。





最後に

 今回は「突然何かが消える、突然電話が鳴る」ことについてです。

 村上春樹氏は「突然なにかが起こる」ことにこだわりすぎます。

 もはやワンパターンと言ってもよいくらいです。

 物事には必ず因果があります。原因があるから結果が生じるのです。

 結果が先に出て、原因を後に書くパターンはあまり見られません。よくてホラー小説でゾンビが現れ、退治したら実は主人公たちが墓場を荒らしていたからだったとか。推理小説で倒叙ミステリーを書くときとか。せいぜいその程度です。

 なんの前触れもなく「突然なにかが起こる」のはご都合主義でしかありません。

 そんないきあたりばったりの物語づくりには賛成いたしかねます。



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