1044.対決篇:現実味を追求する

 今回は「現実味」についてです。

「現実味」を追求するのは悪くないのですが、やり方がおかしいのも村上春樹氏流なのでしょうか。

 視野が狭いように感じます。





現実味を追求する


 村上春樹氏の小説は日常の動作や現実にある場所などを書くことで現実味リアリティーを追求します。

 それ自体は賛成なのですが、使い方がおかしいのです。

 今回も要所でちくま文庫・ナカムラクニオ氏『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』を引いていきます。タイトルが長いので『47のルール』と呼びます。




主夫の経験

『47のルール』によると「村上さんは実際に主夫として生活していた時代があり、奥様を仕事に送り出したあとは、掃除、洗濯、買い物、料理をして帰りを待っていたのだとか。」とされています。

 これ、主夫じゃなくても皆様行なっていますよね。ひとり暮らしだと、自分で掃除も洗濯も、買い物、料理もすべてこなしているはずです。なにも村上春樹氏に限った話ではありません。

「こういった日常の退屈さこそが、妄想を飛躍させる原動力となり、その後に起きる〈出来ごと〉とのコントラストを強めているのです。」とすら書いてあります。

 日常の退屈さが妄想を飛躍させるものでしょうか。仕事や家事に忙殺されている方は、妄想を飛躍させられないとでも言うのでしょうか。私はこの結論には異を唱えます。

 忙しいときこそ「妄想」するものではありませんか。退屈していると妄想するよりも無為に時間を過ごすほうが多いはずです。ついテレビをつけて見入ってしまいませんか。今ならインターネットでSNSやネット通販サイトを眺めているでしょう。

「日常の退屈」ではなく、どんな状況にあっても「妄想を飛躍させる」隙間を見つけ出すことに注力するべきです。仕事や勉強が忙しい人は、通勤通学電車に乗っているときこそ「妄想を飛躍させら」れますよね。


 村上春樹氏の作品にはしばしば「洗濯」「アイロンがけ」行為が「浄化」の比喩としてしばしば出てくるそうです。「『ねじまき鳥クロニクル』の主人公は、頭が混乱するといつもシャツにアイロンをかけ、その工程は全部で十二に分かれています。『雑文集』に収録されているエッセイには「正しいアインのかけ方」が書かれており、村上さんは「BGMはソウルミュージックが合う」とも発言しています。」とあります。

 シャツのアイロンがけの工程を十二に分ける必要はあるのでしょうか。おそらくクリーニング・チェーン店でも、シャツのアイロンがけに十二も工程を踏むことはないはずです。アイロンをかける場所は前身頃、後ろ身頃、両腕、両袖、襟くらいですよね。前身頃をふたつに分けても、八工程で済みます。では村上春樹氏は残りの四工程でなにをするのでしょうか。


『47のルール』では「村上さんにとって、掃除は、丁寧な日常生活の象徴。主人公たちは、洗濯もテキパキとこなしています。」と書かれています。掃除の話のはずなのに洗濯をする話に変わっているという混乱さ。村上春樹氏マンセーなナカムラクニオ氏は、自分の文章に酔っているのでしょうか。

「『羊をめぐる冒険』の主人公は、山小屋を六枚もの雑巾を使って丁寧にワックスがけをし、『ノルウェイの森』の主人公ワタナベ君は、大学の寮暮らしにもかかわらず「毎日床を掃き、三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干」すという清潔な生活をしていました。」と書いてあります。

 まず山小屋のワックスがけに「たった六枚の雑巾」しか使わないことに呆れました。どれだけ狭い山小屋なのだろうか、かなりのケチなのだろうかと。それを「六枚もの」と書くのはワックスがけをした経験がないとしか言いようがない。また大学の寮暮らしであれば、掃除は生活するうえで「義務」のはずです。丁寧な生活、清潔な生活の証ではありません。やらなければ寮から追い出されるだけです。


「こうやって丁寧に暮らしている日常を描くということは、作品のリアリティを演出するために非常に重要な下地作りなのです。」という文はそのとおりだと思います。しかし「十二工程のアイロンがけ」や「六枚の雑巾でワックスがけ」程度の描写で「リアリティを演出」できるものでしょうか。甚だ疑問です。主人公たちのこだわりやケチっぷりを読み手に印象づけているだけではないのでしょうか。




場所を詳細に書く

『47のルール』によると「村上作品は、具体的な地名が重要な鍵となっています。いつだって、舞台設定には細かな演出が考えられています。」とあります。

「『女のいない男たち』に収録されている短編「ドライブ・マイ・カー」」を引いて「北海道出身の渡利みさきに依頼します。みさきの出身地として、雑誌「文藝春秋」の連載時には、北海道中頓別町が実際の地名として登場しましたが、この町では「たばこのポイ捨てが普通」という表現が問題となったため、単行本化の際に、『羊をめぐる冒険』に登場する架空の街「十二滝町」の北の町を連想する、「上十二滝町」と変更されたのです。」とあります。

 これが実在する地名をそのまま小説に書いてはならない理由なのです。

「中頓別町」とピンポイントで設定して、この町では「たばこのポイ捨てが普通」と書く。これで中頓別町から批判が来ることくらいわかりそうなものですよね。わからないで書いたのなら、村上春樹氏はとんでもなくモラルのない人物になります。

 また「つまり、読者は、『羊をめぐる冒険』に描かれた場所が、中頓別町の近くに実在する美深町付近であるという事実を突き止めることができたのです。こうやって、物語の中に登場する地名までもが、緻密に計算され、実際に読者が小説の舞台を訪ねても違和感がないように描かれているのです。」とあります。

 考えてもみてください。

「ドライブ・マイ・カー」で「中頓別町」とピンポイントで指定したのを「上十二滝町」へ変更した。『羊をめぐる冒険』は「十二滝町」が舞台。地名が似ているから「十二滝町」は「中頓別町」に近いに違いない。

 これは「緻密な計算」でしょうか。ただの連想ゲームです。「緻密に計算」と呼ぶほどではありません。村上春樹氏には架空の地名を考えるだけの想像力がないのです。だから実在する地名を使わざるをえない。それで批判が来たものだから、どうにか架空の地名をでっち上げなければ。そこで「そう言えば「十二滝町」という地名を使ったことがあったな。そこに絡めてしまえばいいや」という短絡的で安易な発想でしかありません。

 もし本当に「緻密な計算」で地名を決めたのなら、最初から「上十二滝町」を使っていたはずです。実在する「中頓別町」を使う必要はありません。フィクションに現実味リアリティーを出したいがために実在の地名を使ったのです。その事実を村上春樹氏に突きつけるべきでしょう。


 村上春樹氏の地名への無関心さは次の点にも見られます。

「特に、村上文学を語る上で「青山周辺」は、作品を読み解く重要な「鍵」です。村上さん自身が経営していたジャズ喫茶「ピーターキャット」が、青山から近い千駄ヶ谷にあっただけでなく、主要作品に必ず登場するのも大きなポイントです。」

 つまり村上春樹氏は「青山周辺」しか詳しく知らないし書けないのです。取材力のなさを露呈しています。

「小説家になることを決めた「神宮球場」、デビュー作『風の歌を聴け』を書いた「ピーターキャット」のキッチン、この辺りを散歩すると村上作品の謎が解けるのです。」

「「貧乏な叔母さんの話」には、村上さんの「ピーターキャット」近くにある「絵画館」と、その前の広場にある「一角獣の銅像」を見上げるシーンが登場します。主人公の「僕」は、散歩の途中で、絵画館前の一角獣を見上げます。その周りの池の底に沈んだ錆びついたいくつものコーラの空き罐に、ずっと昔に打ち捨てられた街の廃墟を連想したことから話が始まります。/ そして、この銅像は、のちの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる一角獣のモデルとなります。具体的な場所が描かれることで、読者は物語と現実をクロスし、五感で物語を楽しむことができるのです。」

 これも村上春樹氏の取材力が乏しいことを表しています。自分の生活圏内しか知らないのです。かなり内向きな性格といえます。また「池の底に沈んだ錆びついたいくつものコーラの罐」は実際に見えるのですか? おかしいですよね。缶が見えたとしても錆びついているかどうかは近づいて見なければわかりません。たとえ缶があってもそれがコーラの缶であるかどうかも池の外から見ただけではわからないはずです。つまり「想像」ででっち上げて書いただけ。その証拠に「ずっと昔に打ち捨てられた街の廃墟を連想したことから話が始まります。」とあります。そう。「錆びついたコーラの空き罐」は「打ち捨てられた街の廃墟」の比喩なのです。

 では実際に青山は「打ち捨てられた街の廃墟」なのでしょうか。違いますよね。今の青山はファッション・ブランドがいくつも並ぶ高級感あふれる土地です。とても「打ち捨てられた街の廃墟」ではありません。これなども青山から名誉毀損で訴えられかねないのです。

「何度も同じ場所が登場したり、同じ設定を繰り返すことは、作者の個性を際立たせます。避けることはありません。読み手は「偉大なるマンネリズム」を楽しみにしているのです。」ともあります。

 これなどは『47のルール』著者ナカムラクニオ氏の村上春樹氏マンセーの代物です。

 何度も同じ場所が登場するのは、先ほどから述べているとおり取材力がないだけです。東京のことを書こうとして毎回「青山周辺」が登場するのは、他の場所について知らないから。他の場所を知っていれば、最適な地名を書けるはずです。すべて「青山周辺」にする必要などありません。

「『ダンス・ダンス・ダンス』にも渋谷や青山周辺がたくさん登場し、「僕」は、紀ノ国屋で「調教された野菜(質が高いという意味)」を買います。主人公の「僕」は、渋谷で映画を見たあと、原宿へ行き、いつものコースを散歩。原宿から神宮球場を抜けて、また渋谷方面へ向かいます。これは、実際に村上春樹さんご自身のお散歩コースでもありました。/ 作品の中に、作者のプライベートな情報が描かれるのも重要な要素です。読者は村上さんの日記を覗き見したような気分になったりもします。」

 ここでボロが出ています。つまり村上春樹氏は自分の身のまわりのことしか書けないのです。知らない土地を訪ねて取材するだけの財力も時間もあるはずなのに、自分の経験でしか書けないのですから。

 実在する地名を使いたいのなら、なにも「青山周辺」にこだわる必要などありません。村上春樹氏にとってはこだわりというより「そこしか書けない」だけなのです。

 それをさも高尚なもののように扱うからのぼせ上がってしまいます。「こんな書き方をすると読み手は喜ぶのか」と勘違いをして、「青山周辺」にこだわってしまう。たまに別の土地のことを書こうとしても、実際に訪れて取材もしていないから「中頓別町」のように批判が殺到します。

「このように実在する場所をとことん丁寧に描き込むことで、読者は作品を追体験できるのです。そしてますます現実を文学のように感じることとなり、作品の虜になっていくのです。」

 この部分は事実でしょう。村上春樹氏に限らず、実在する場所を取材して丁寧に書き込むのは重要です。物語の舞台が詳しく書かれているから、読み手はそこに現実味リアリティーを感じて作品を深く読み込んでくれます。ですが村上春樹氏は「青山周辺」にしか詳しくないのです。これでは「実在する場所をとことん丁寧に描き込む」というより「自分の知っている範囲の場所を丁寧に描き込む」だけではないですか。


 本コラムをお読みの方には「自分の知っている範囲だけで小説を書かないように」とご忠告致したいところです。

 村上春樹氏と化してしまうのは、想像力・取材力の貧困さを「小説賞・新人賞」の選考さんにアピールしているにすぎません。絶対に村上春樹氏と化してはならないのです。





最後に

 今回は「現実味を追求する」ことについで述べました。

 日常を細かく書くのはよいのです。ただし、それが物語と関係していなければなりません。物語と関係のない「細かな日常」は無意味なのです。村上春樹氏はこうやって文章を水増ししています。

 また、場所を詳細に書くのですが、あなたの知っている場所しか出てこないのは、取材力の不足をアピールしているにすぎません。「小説賞・新人賞」への応募作ならそれでもよいでしょう。しかしデビューしてからもそこにこだわり続ける必然性はありますか。村上春樹氏にとっての「青山周辺」は、彼にとってそこしか詳しく知っている場所がない証です。たまに「中頓別町」を書いてみたら、この町では「たばこのポイ捨てが普通」と書いてひんしゅくを買ってしまいます。きちんと取材して書いたのなら抗弁もできたはずです。取材せずに感覚で書いてしまうからボロが出ます。

 皆様も、日常の行為や物語の場所についてはできるだけ細かく書きましょう。しかし、それが物語と深くかかわっているのならです。物語と関係ない描写を細かく書いても、まったく評価されません。「水増し」を見抜かれて減点されるだけですよ。



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