1021.面白篇:危ういものを排除しても面白くはならない
今回は「危ういもの」についてです。
暴力描写があると、すぐに問題になる世の中。
しかし暴力描写のない「剣と魔法のファンタジー」は面白いのでしょうか。
戦わずしてラスボスを倒せるのでしょうか。
やはり最後は戦って決着をつけたいところですよね。
危ういものを排除しても面白くはならない
あなたは最近の小説に「面白さ」を感じていますか。
もちろん「面白い」小説は世に満ちているはずです。しかし小説投稿サイトを眺めていると、どうにもつまらない作品が目につきます。トップ集団の作品にも「これのどこが面白いのだろう」と思うものもあるのです。
人間である以上老いていくのは避けられません。歳を重ねれば感性も衰えていきます。だから「今ウケている作品」のどこが「面白い」のかを理解できないのです。
書き手が老いると
小説の書き手が年をとってしまうと、感性も衰えます。これは絶対に避けられません。
ですからお歳を召すほど、感性ではなく経験で小説を書くしかないのです。
若い書き手であれば瑞々しい感性にあふれていて、比喩や表現もひじょうに華やぎます。
だからこそ「小説賞・新人賞」は三十代までに獲ってしまいたいところです。四十代までに経験が豊富でないと、比喩や表現は陳腐なものになります。
もしあなたが四十代以上であれば、現在人気のある若手の書き手が出版した小説をたくさん読んでください。
一読して「どこがウケているのかわからなく」てもよいのです。文体を吸収するつもりで繰り返し何度も読み返しましょう。
比喩や表現も、若手の書き手の作品から学ぶべきです。四十代ともなれば「文豪」から学べるものは多くありません。現役の若手からは多くのものが学べます。
もちろん若気の至りで及ばない点もあるのです。及ばない点はあなたの経験を加味しましょう。そうすればあなた独自の文体を作る手助けにもなります。
若手の小説が面白くないと感じたら
どうしても「この書き手の小説は面白くない」と感じるようであれば、それは「無難」な小説だからかもしれません。
「テンプレート」に従って冒険をしていないのです。
「文豪」の小説がとても「面白い」と感じるのは、彼らがつねに「挑戦して」いた、つまり「攻めて」いたからではないでしょうか。
活版印刷の普及により、小説の書き手が爆発的に増えた頃です。多くの書き手が切磋琢磨していました。
「あいつにだけは負けてたまるか」という対抗心をむき出しにしていた「文豪」もいたのです。「新しい小説の形を作ろう」と創意工夫に知恵を絞っていた「文豪」もいました。
「文豪」は文芸の「開拓者」だったのです。
近代小説を成立させたのは夏目漱石氏の功績です。吉川英治氏が歴史小説や時代小説の礎を築きましたし、江戸川乱歩氏が推理小説を開拓しました。文学小説を広めたのは、賞に名を残す芥川龍之介氏、直木三十五氏、菊池寛氏らです。
彼らはつねに「挑戦」を繰り返していました。それだけ開拓精神にあふれていたのです。
明治後期から昭和初期までの間は「文豪」がさまざまな実験を試みています。「文豪」の小説から最も学べる点は「攻める」姿勢です。
バラエティー番組に見る攻めの強さ
よく「最近のテレビはつまらなくなった」と言われます。実際バラエティー番組はつまらなくなったのです。
なぜでしょうか。
「攻めなくなった」からです。
テレビが最も面白かった頃は『8時だよ全員集合』『オレたちひょうきん族』がPTAや教育委員会などの抗議にも負けず、企画で「攻め」続けていた時期です。
今の時代、バラエティー番組で「攻めた」企画があると、PTAや教育委員会また市民団体はすぐにクレームを入れます。しかもインターネット社会になると、クレームがあふれて番組Webサイトの掲示板が大炎上するのです。
日本テレビ系列『史上最大アメリカ横断ウルトラクイズ』は、海外に出てから負けると「強制送還」としてさまざまな罰ゲームが用意されていました。しかしこれにクレームがつくようになり、番組の尖っていた部分が丸められたのです。結果として「つまらない」作品になりました。好景気の終焉とともに番組も終了したのです。
また同じく日本テレビ系列『お笑いウルトラクイズ』も、クイズに間違えると本家よりも厳しい罰ゲームが待ち構えていました。というより正解しても罰ゲームがあったのです。こちらは最初からクレームがついていたようですが、『オレたちひょうきん族』のビートたけし氏の番組でもあり、ある程度長続きしました。それでも結果的に終了したのです。
フジテレビ系列『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』では韓国人が番組企画で死亡する事故を起こして、番組そのものが打ち切りとなりました。
直近ではTBS系列『SASUKE』でたびたび出場選手が骨折などの大怪我をして番組の存続が危ぶまれているのです。
このように「攻めた」番組は「面白い」のです。「攻め」をやめたら途端に「面白さ」を失っていきました。
皆様はつねに「攻めた」「文豪」の姿勢をこそ真似するべきです。
けっして「守り」に入らないでください。
「攻めた」結果、七十五歳で芥川龍之介賞を授かった黒田夏子氏がいます。彼女は高齢でありながらも「攻めた」のです。「攻め」の姿勢が栄誉をかちえました。
今の文学小説は攻めが弱い
近年、文学小説はつまらなくなりました。誰も「攻め」ていないからです。
「攻め」が目立つのは先述の黒田夏子氏の他、お笑い芸人ピースの又吉直樹氏くらいなもの。とくに又吉直樹氏は芥川龍之介賞受賞作『火花』に続き『劇場』を書き、最近『人間』を出版しました。文学小説として見れば『劇場』から『人間』までの刊行は異例の早さです。相方がアメリカへ武者修行に行きました。そのためコンビ活動ができなくなって小説に打ち込めるようになったのも大きいのかもしれません。それでも「攻め」の姿勢がなければ、このスピードにはならなかったでしょう。「小説家」としての腹が決まったようにも映ります。
それ以外の文学小説は、とにかく「攻め」が弱いように見えるのです。文学小説では今年も大ヒット作は生まれませんでした。本来なら毎年生まれているべきなのにです。
その遠因として「ランキング本がない」からと愚考します。
まず『このライトノベルがすごい』が出版され、続いて『このミステリーがすごい』も出版されました。しかし『この純文学がすごい』というランキング本を見たことがありません。
人によっては芥川龍之介賞、直木三十五賞にノミネートされ、受賞したものがランキングだと言うでしょう。しかし細かな講評は読めませんよね。実際には受賞作掲載雑誌に講評自体は載るのですが、今どき純文学雑誌を読んでいる方などほとんどいないのです。だから「どの作品が面白いのか」「どういった面白さなのか」が伝えきれていません。
これが文学小説の限界なのではないでしょうか。
もし『このライトノベルがすごい』と同じような『この純文学がすごい』というランキング本が出版されたら、少なくとも受験生にはウケるはずです。なにしろランキングに載るほど素晴らしい作品なら、入学試験で出題される可能性が高くなります。それを読めば手っ取り早く点数が稼げるのではないか。
本当は入り口なんてどうでもよいのです。『この純文学がすごい』を作って「攻め」の姿勢を打ち出せば、読み手が増えて販売部数も伸ばせます。実際『このライトノベルがすごい』が発刊されてからライトノベルは右肩上がりで成長を続けているのです。『このミステリーがすごい』もやはりミステリー小説の販売増につながりました。
先例があるのに『この純文学がすごい』を作らないのは「文学小説は高尚なものでランク付けするようなものではない」という驕りからではないですか。高飛車な姿勢だからこそ文学小説は売れなくなりました。
又吉直樹氏の作品が売れ続けているのは、読み手の側まで近づいてきているからだと思います。つまり文学小説だけど高飛車にならず、読み手に寄り添っているのです。これが又吉直樹氏流の「攻め」の姿勢と言えます。
他の文学作家はそこまで「攻め」ていません。あいからわず高飛車で唯我独尊な気質が治っていないのです。
私が嫌いな村上春樹氏はノーベル文学賞で毎年筆頭とされながらも毎年逃しています。それは村上春樹氏の作品が「文学」ではないからでしょう。村上春樹氏の作品には「哲学」がありません。どんなに世界各国で話題になっても、人々の意識を変えるだけの「哲学」がないのです。
ノーベル文学賞は「哲学」の賞だと言えます。シンガーソングライターのボブ・ディラン氏が受賞したのは、彼の歌詞には反戦という「哲学」が明確に存在していたからです。村上春樹氏の作品にどんな「哲学」があるのでしょうか。自由気ままで短絡的で退廃的。深く考えることを拒否した人物の姿がそこにあるだけです。
これは「哲学」でしょうか。違いますよね。単なる「ケ・セラ・セラ」が「哲学」であるはずがない。もし「哲学」だとするなら、相当レベルの低い「哲学」だと思います。
村上春樹氏は「攻める」方向を根本から間違えているのです。彼の作品は詰まるところ
最後に
今回は「危ういものを排除しても面白くはならない」ことについて述べました。
これを書くと批判されるかも。そういうものほど話題になります。「悪目立ち」とも言われるくらいです。
しかし批判されそうな要素をすべて排除してしまうと、あっさりしすぎて面白くもなんともなりません。箸にも棒にもかからない作品が出来上がるだけです。
小説投稿サイトで「剣と魔法のファンタジー」が大人気なのは、命を懸けて戦う姿が見られるからではないでしょうか。PTAや教育委員会などから「暴力的だ」「人命軽視だ」と呼ばれるかもしれませんが、命懸けの戦いは人間の生存本能を刺激します。
「剣と魔法のファンタジー」で命懸けの戦いがなくなったら、面白い作品になるのでしょうか。日常系の面白さは出せるかもしれませんが、それだと異世界にする必要はないですよね。
「異世界」を舞台にする以上、命懸けの戦いはあったほうがよい。
角が立たないように丸めるだけでは、誰の心にも引っかからないのです。
読み手の心に引っかかるには、あえて角を立てる必要があります。
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