1014.面白篇:笑いが不可欠(毎日連載950日目)
今回は「笑い」の効用についてです。
「泣かせたい」ならまず「笑わせる」ことです。
振り幅は大きいほど感動が増します。
笑いが不可欠
小説には「笑い」が不可欠です。
たとえ文学小説であろうとも、「笑い」がなければ読み手を惹き込めません。
「読み手を泣かせよう」と企図した小説であろうとも、対極にある「笑い」がとれなければ、振り幅が狭くなってあまり泣けないのです。
泣ける小説にも笑いが必要
「お涙頂戴」の「泣かせる話」はつねに一定以上の読み手が欲しています。
だから主人公は始終「酷い目」に遭わせられる作品が多いのです。
しかし最初から最後まで「酷い目」に遭わせられたとしたら、泣けてくるものでしょうか。
劇作家のウィリアム・シェイクスピア氏『ロミオとジュリエット』は、仇同士の家柄の息子と娘が恋に落ちるのです。そして両家に内緒で結婚します。
密かな結婚生活では「笑い」に満ちた楽しい暮らしを送るのです。
そんなさなかにロミオに試練が訪れます。決闘を持ちかけられてしまったのです。
ここからどんどんロミオは追い詰められていき、ついにジュリエットを残して一時ヴェローナを離れます。愛しのロミオがいなくなったジュリエットは、なんとか再びロミオと暮らしたい。でもヴェローナではそれが叶わない。そこで秘密の結婚に立ち会ったロレンス上人を頼り、ジュリエットは仮死の毒薬を飲みます。キャピュレット家の人たちはジュリエットが死んでしまったと思い込んで、葬式を挙げるのです。霊安室に運ばれたジュリエットのもとに、ロレンス上人の使者からジュリエットの死を聞いたロミオが駆けつけます。そして仮死の毒薬だとは聞いていなかったため、ジュリエットが本当に死んでしまったと勘違いします。そしてロミオは自死し、仮死から目覚めたジュリエットが死んだロミオの姿を見て愕然とするのです。そしてロミオの短剣で自らの胸を刺してしまいます。こうして一人息子と一人娘を失ったモンタギュー家とキャピュレット家はわだかまりを解いて仲良く暮らしていくのです。
もしロミオとジュリエットの蜜月がなければ、相手を失ったときの「寂しさ」「虚しさ」「切なさ」は、それほど大きくなりません。
幸せに暮らしていた時期があったからこそ、ロミオの追放でジュリエットは「寂しさ」「虚しさ」「切なさ」をより強く感じるのです。
だから「泣かせたけ」ればまず「楽しい」時間を書きましょう。
「笑ってしまう」ほど「楽しけ」れば、それを「失った」ときの落差は格別です。
「悲劇」をより機能させるには、「喜劇」の要素を持ち込むこと。
逆に「喜劇」をより機能させるには、「悲劇」の要素が必要です。
どちらにしても受け手を「笑わせ」なければなりません。
「笑い」の強さを今一度確認してみましょう。
幸せがあるから不幸が引き立つ
寓話『マッチ売りの少女』は、少女の不幸話を読ませますよね。とても身につまされる思いがします。
なぜ『マッチ売りの少女』読むと不幸を感じるのでしょうか。
少女が健気に働いているからかもしれません。ですがそれだけではありません。
「幸せな家庭」が描かれていて対比になっているからこそ、少女の不遇が際立つのです。
最初から最後まで不幸な境遇しか書かれていなければ、ひじょうに鬱を催す状態になります。並みの人間ではとても耐えきれません。だから途中でドロップアウトされてしまうのです。
たとえ「不幸」を書きたいとしても、「幸せ」な状態を書いてあるから、より「不幸」が引き立つのです。
それは主人公自身が「幸せ」だった時期かもしれませんし、主人公の近くにいた人が「幸せ」なのかもしれません。
いずれにせよ、「幸せ」がなければ物語に対比は生まれず、凡作止まりになる可能性が高まります。
「不幸」や「悲劇」を盛り上げるためには、「幸せ」や「喜劇」が欠かせないのです。けっして「一辺倒にならない」ようにしてください。「一辺倒」に面白みはありません。
笑わせるのは意外と難しい
あなたの書いている作品が「バッド・エンド」に決まっている場合、必ず一度は読み手を「笑わせ」ていなければなりません。
しかし、いざ「読み手を笑わせてください」と言われれば対処に苦慮しますよね。
テレビでお笑い芸人コンビ・ウッチャンナンチャン(内村光良氏と南原清隆氏)司会の『イロモネア』という番組がありました。この番組は、「笑いのプロ」である芸人に一般人を笑わせる試練が課されます。うまく笑いを引き出せたら賞金がもらえるシステムです。
ですが「笑いのプロ」ですら一般人を笑わせるのは難しかった。多くの芸人が挑戦し、最終ステージをクリアできたのはほんの数組です。「人を笑わせてください」は、ハードルがとても高いと証明されました。
それでも「読み手を笑わせ」なければならないのです。
方法論がないわけではありません。
「そんなことは起こらないだろう」という「意外性」を出すのです。
賀東招二氏『フルメタル・パニック!』では第一巻プロローグでうまく「笑わせ」て読み手の心を「ツカミ」ました。普通の高校生活を送っているだろう男子生徒と女子生徒が、教師の誤った指示により二千枚のミスプリントをしてしまったのが事の発端です。女子生徒・千鳥かなめは男子生徒で主人公の相良宗介とともに「私が先生の注意を惹くから、その間にプリント用紙四束を奪い取る」計画になってしました。しかし宗介は「作戦をより確実なもの」にするため煙幕弾を焚いてしまいます。これによりスプリンクラーが作動してしまい、宗介が奪い取ったプリント用紙四束はぐしょ濡れとなって作戦は失敗したのです。
この例では、主人公が「そんなことは起こらないだろう」という煙幕弾を焚いたところにポイントがあります。普通の男子高校生が煙幕弾など所持しているのでしょうか。そこからして「起こりえない」出来事なのです。
それまではいたって普通の男子高校生だったのに、いざ作戦が始まったら普通の高校生では考えられないことをしでかしました。
このように詳しく解説してしまうとまったく面白くないように見えます。それほど「意外性」を出すのは難しい。タネ明かしをしても「それがどうして笑えるのか」がわかりにくいのです。
だから完成された小説を実際に読むしかありません。
どんな「意外性」が起きて笑ってしまうのか。そのポイントを自らつかむのです。
お笑い番組や漫才番組、『笑点』の大喜利などを観て思わず笑った経験はありませんか。そのとき「なぜ笑ってしまったのか」を分析する人はまずいません。分析したところで「笑い」のコツはつかめないからです。
もし「意外性」に気づいたとしても、そのバリエーションは限られます。だから応用もしにくい。結果として「この芸人は面白いけど、なぜ笑ってしまったのだろうか」と理由を求めがちなのです。
予定調和という笑わせ方
実は「意外性」と同じくらい重要な「笑わせ方」があります。
「予定調和」です。
その人物が「意外性」を起こして一度「笑われた」とします。すると多くの方は他の「笑わせ方」を模索し始めるのですが、これがなかなかに難しい。そこで「一度笑われた意外性」をもう一度使うのです。すると「この状況になるとこうなるのが、この主人公の面白いところだよね」と納得しながら「笑って」くれます。これが三回も続けば「予定調和」となるのです。
『笑点』の大喜利では、水色の服を着た三遊亭小遊三氏が「予定調和」の達人と言えます。鏡を見た自分の顔を「福山雅治」「アラン・ドロン」と呼んだり、自動販売機の下をさらって小銭を拾おうとしたり、「壇蜜の袋とじ」だったり、女湯へ入ろうとしたりと、視聴者は「またやってくれた」と思わず笑いがこみ上げてくるのです。
「予定調和」で「笑わせる」には、ひたすら繰り返しましょう。最初は小さな「笑い」しか得られないかもしれません。ですが何度も繰り返せば「予定調和」が発動して「またやってくれた」と読み手は「笑い」を禁じえないのです。
『フルメタル・パニック!』は宗介の「戦争ボケ」シーンで小さな「笑い」を積み上げ、「予定調和」になるまで育てたのが「大成功」した秘訣でしょう。もし「笑える」シーンがなければ、ここまでの大ヒットにはならなかったはずです。もしシリアスなまま物語が進んでいたら、退屈な軍事小説にしかなりません。「ノンフィクション」ならそれでも「あり」ですが、皆様が書きたいのは「フィクション」のはずです。
現在読まれる作品の多くは「フィクション」で出来ています。中でも「異世界転生ファンタジー」「異世界転移ファンタジー」「現実世界ファンタジー」「異世界恋愛」がほとんどです。これらはすべて「フィクション」ですので、楽しんで読めるよう「笑い」を積極的に取り入れてください。
今の時代「笑い」のとれない作品に需要はありません。
読んでいて「楽しい」「面白い」と思えるには「笑い」が不可欠なのです。
『イロモネア』で見たように、「笑いのプロ」ですら「笑わせる」のは難しい。
ですが「予定調和」で笑わせるのであれば、素人でも実践できます。
「笑いのプロ」が『イロモネア』で笑わせられないのは「予定調和」を使えないからです。その場その場の一瞬で「笑い」をとれなければなりません。
その場だけで「笑わせる」のはプロでも難しい。であれば小説の素人である私たちは「予定調和」で「笑わせる」べきなのです。
たとえ些細な「笑い」であっても、繰り返せば「予定調和」へと変化していきます。
「笑い」のセンスがなくても「予定調和」は生み出せるのです。
とにかく繰り返し「ボケ」てください。「ボケ」倒せば、いつか必ず「笑い」へと結びついていきます。
最後に
今回は「笑いが不可欠」について述べました。
たとえ悲劇を書いても、「笑える」シーンがなければ引き立ちません。
なにごとも「振り幅を広く」する意識を持ちましょう。
「悲劇」の物語には「喜劇」シーンがあるべきです。「喜劇」シーンがあるから喪失感を強く抱けます。
しかし「人を笑わせる」のは難しいのが実情です。よほど「笑いのセンス」がなければ、文章で「人を笑わせる」なんてできません。もし文章で「人を笑わせら」れるのなら、「笑いのプロ」を目指すべきです。
おおかたの書き手にそんな「笑いのセンス」はありません。
であれば小さな「笑い」を積み上げて「予定調和」へと導きましょう。「予定調和」が生まれれば、「笑い」に困らなくなります。
くすりとするくらい小さな「笑い」でかまいません。それを繰り返せば、いつしか「予定調和」が発動して思わずニヤリと「笑って」くれるようになります。
「笑い」は小説を読む楽しみの中でも、最大の要素かもしれません。
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