1011.面白篇:小説における空間認識能力について2【回答】

 今回は前回に続き「空間認識能力」についてです。

 距離感をうまく書くためには、どうすればよいのでしょうか。

「異世界」なのに「メートル」を使っていませんか?





小説における空間認識能力について2【回答】


 今回も位置関係についてです。

 方向がわかったら、次は距離です。

 実は距離を違和感なく書くのは相当難しい。「異世界」なのに「メートル法」で書く方が多いのも、いかに距離感を伝えればよいのか理解していないからではないでしょうか。




距離感を表現するには

 小説で距離感を書くのはとても難しい。「前に男がいる。」は方向性だけしか書いていません。そこで「五メートル前に男がいる。」と書く。これで距離感は正確に表せるのです。ですが、あまりにも数字にこだわると、すべて数字で書いてしまいたくなってきます。

「十メートル先で身構える男がいる。」は正しい描写です。でも「二十歩ほど離れたところで身構える男がいる。」と書く方法もあります。

 そもそも「異世界ファンタジー」なのに「メートル」で距離を表すのには無理があるのです。

 なぜ「異世界」なのに「メートル」を知っていて使っているのか。「ほんやくコンニャク」があったとしても、距離の単位まで変換されるのはおかしいですよね。

 たとえば「百ヤード先にいる。」を「九十一.四四メートル先にいる。」と翻訳するものでしょうか。「百ヤード」は日本語に直しても「百ヤード」です。単位は変わりません。

 だから「異世界」に「メートル」は不似合いです。

 先ほど示した「何歩」ならどんな作品であってもだいたい伝わります。

 女性なら一歩五十センチメートル、男性は六十センチメートルほどです。

 ここは開き直って「メートル」で押し通すか、「歩」のような共通する単位に置き換えるか、まったく新しい単位を使うかしましょう。


「まったく新しい単位」の壁になるのが「どのくらいの長さ・距離なのかわからない」点です。たとえば「メリル」を単位にしたとして、一メリルはどれだけの長さになるのでしょうか。読み手にはわかりませんよね。だから「メートル」で押し通す作品が多いのです。

 この壁を簡単に崩すために「一メリル」イコール「一メートル」としてしまう手があります。単位は異なるけど実質同じ長さ・距離だとわかれば、「異世界」を表しながらも親しみやすい作品に仕上げられるのです。

「異世界」が舞台なら、私は「 まったく新しい単位 > 「歩」 > 「メートル」 」の順にオススメします。

 短編小説なら「メートル」で押し切ってもよいですし、あまり長さや距離が出てこないのなら「歩」で表してもかまいません。

 しかし長編小説や連載小説なら「まったく新しい単位」を用いてください。「メートル」に逃げるのはただの怠慢です。

「まったく新しい単位」を使うときは、何回か「グリフィンが百ヤード(約九十一.四四メートル)先に見えた。」のように注釈を付ける方法もあります。読み手が慣れてくれば、いちいち注釈を入れなくてもある程度長さや距離の見当はつけられるはずです。要は「普段使っている単位と異なれば距離感がつかめなくなる」から難しいと思ってしまいます。


 もちろん「メートル」で表現してしまってよい場合もあるのです。たとえば「異世界転移ファンタジー」なら、主人公は現実世界の人間ですから一人称視点は「メートル」で表現してもかまいません。しかし現地人が「メートル」で話すのは明らかに間違いです。

 もし現地で「メートル」を使っていたのなら、なにがしかの理由が必要になります。たとえば「以前異世界転移してきた現実世界人たちがいて、その人たちから広まった」という理由。これなら現地人が「メートル」を使っていても不思議はありません。

 そうなると「異世界転移」が常態化した異世界ということになり、主人公の「特別感」がなくなってしまいます。

 主人公が「異世界転移」したのは「特別な存在だから」というのがおおかたの設定ですよね。「特別感」がなければありがたみもないですし、読み手も「なんだ、よくあることなのか」と主人公に憧れを抱けません。




手前と奥

 距離感は近いと「間近」「手前」「寸前」などで表し、遠いと「奥」と表します。

 基本的には数字で書いたほうがよいのです。しかし意図して数字で書きたくない場合は、「手前」と「奥」を駆使して書くことになります。

 なにより「手前」にある。なにより「奥」にある。何倍「奥」にある。何倍「遠く」にある。

 なにかを基準にして、それよりは「手前」なのか「奥」なのか。それを決めるだけでも、ざっくりとした距離感は表現できます。

 たとえば「手の届く範囲にはなにもない。」ならだいたい半径六十センチメートルの範囲内です。背の高さに違いがあるように、腕の長さも人それぞれ。ですが「一歩」と「手の長さ」はだいたい等しいのです。

「敵が攻撃の届く範囲に入ってきた。」はボクシングなら「手の届く範囲」と同じ六十センチメートルほどですが、空手など蹴りも使えれば「手の二倍」くらいの距離になります。剣で迎え撃つときは、「手の長さ」プラス「剣の刃先の長さ」が攻撃範囲です。これらはすべてギリギリの距離を示していますが、踏み込んで迎撃すればこの距離で会心の一撃を見舞えます。


 では意図して数字で書きたくない場合はどのようなものがあるのか。「距離感がつかめない」主人公であることを示したいときです。

 たとえば近視でメガネが欠かせない主人公なのに、メガネを忘れてしまったらどうでしょうか。方向はわかるけど距離感はつかめませんよね。

 逆に健康な目を持っている方が度の入ったメガネをかけると、こちらも距離感がつかめなくなります。メガネ慣れしていない方は、メガネをかけると距離感がつかめずに階段を踏み外したり転んだりしてしまうのです。

 また距離感がつかみづらい病気の方もいらっしゃいます。

 病気を患っている主人公を書くのは、相当な手練でなければかなりの難事です。

「なにかが欠けている」という感覚を健康な方は持っていません。だから他人のメガネをかけて階段を踏み外したり転んだりするのです。「欠けている」ことが強い「個性」となって現れます。

 またケンカや戦闘に慣れていない人は、自分の「攻撃範囲」を知りません。つまり迎撃する距離がつかめないのです。だから「距離感がつかめない」主人公を書きたいときは、あえて距離を書かないほうが「らしく」読めます。




空間認識能力

 逆に方向感・距離感を一般の方より高い次元で把握できる方もいらっしゃるのです。「空間認識能力」と呼ばれる、「運動中、どこになにがあるのかを瞬時に把握する」能力を持っています。

 身近なところでは、野球でピッチャーの投げた球をバッターが打ち返す場面を想像してください。バッターはピッチャーの動きに合わせてスイングつまり運動を開始します。前足をステップさせて体重を移動させながら、近づいてくる球を見極める。ストライク・ゾーンに入ると判断したらバットを動かしてボールに当たるようコントロールします。そして両足で地面を踏ん張りながら腰を回転させ、バットのスイートスポットにボールの芯を合わせてフルスイングするのです。運動しながら近づいてくる球を認識し続けなければ、バットにボールは当たりません。この「近づいてくる球を認識し続ける」能力が「空間認識能力」なのです。

 また器械体操の選手は皆「空間認識能力」に優れています。自分の体が今空間のどの位置にあるのかがわからなければ宙返りやひねりはできません。毎日練習を繰り返すと「空間認識能力」が鍛えられて、より難しい技へ挑めます。


 私は保育園時代に養護施設へ入れられていました。その中で個人的な興味からとんぼ返りやバク転などの練習を始めたため、今でも一般的な方より「空間認識能力」が高いのです。

 だからか、私の小説では「どこになにがあるのか」を言及しない作品が多い。書き手である私には、文字にしなくても「どこになにがあるのか」が見えてしまっているのです。「書けない」わけではなく「書かない」。この気づきを今回のコラム執筆で再認識しましたので、これからは位置関係を読み手にわかるレベルで書こうと決意致しました。

 私同様、今まで位置関係を明確に「書かなか」った方も、これからは明確に書きましょう。書けば必ず読み手に伝わります。読み手が「どこになにがあるのか」を把握できなければ、情景を思い浮かべられないからです。よい小説は「情景がありありと思い浮かび」ます。思い浮かばないのは「なにも伝わっていない」のと同じです。情景以外の人物描写も「伝わっていない」可能性が高い。だからこそ位置関係を明確に「書く」必要があるのです。


 また「空間認識能力」に影響する疾患を持っているため位置関係が「書けない」方もいらっしゃいます。

 そのような場合は、まずそのシーンの「絵」を描きましょう。

 位置関係を脳内で把握できなくても、一度「絵」として描き出してしまえば、その「絵」を観ながら「ここにこれがあるんだな」とか「このくらいの距離感なんだな」とか「このくらいの大きさに見えるんだな」ということがわかります。「絵」というのは実は脳内イメージとはあまり関係ないのです。よく「脳内で見えているものをそのまま描いたものが絵」と認識されています。ですが「絵」はひとつのものを描いたらその周辺にひとつずつ配置していけるため、すべてを脳内でイメージする必要はないのです。

「絵」とともに「地図」も描きましょう。「この教室はこのくらいの大きさで、ここにこの人がいて、あっちにあの人がいる。で、授業を受けながらこの人を見ている」という位置関係がより明確になります。

「空間認識能力」があれば「絵」や「地図」が要らないかというと、そうでもありません。

 能力があっても、矛盾を起こさないためには「絵」や「地図」は強い味方になります。また一度映像化されているため、アニメとしてイメージが湧きやすくなる利点もあるのです。つまり紙の書籍になれればアニメ化されやすいとも言えます。


 あなたの小説は映像が浮かんでくるでしょうか。





最後に

 今回は「小説における空間認識能力について2【回答】」を述べました。

 距離感を書くのはとても難しい。すべての距離を数字で書こうとしてしまいがちです。

 しかし本当に求められているのは正確な数値ではありません。だいたいの位置関係です。文章を読んで「ここにこれがあるんだな」ということが読み手に見えるかどうか。

 見えてこない小説は現実味リアリティーに欠けています。そんな作品が「小説賞・新人賞」を獲れるものでしょうか。多くの読み手が納得できるでしょうか。

 だからこそ位置関係は重要なのです。

「空間認識能力」の高い方は「書かない」ことが多く、「空間認識能力」の低い方は「書けない」ことが多い。

 どちらにしても、意識して位置関係を書くようにしてください。



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