996.筆洗篇:短文の重文で味わいを出す【回答】
今回は「短文の重文」についてのご質問の回答です。
「短文の重文」が味わい深さを醸し出す理由を、わかりやすく書いたつもりです。
これで不明なようなら、今度は【補講】を行ないます。
短文の重文で味わいを出す【回答】
今回もご質問をいただいたので回答致します。
文章のテンポを出すために長文を書くことはありえるのですが、それは「短文の重文」であるべきです。
このことについてご質問がありました。
では「短文の重文」とはどんなものなのでしょうか。
短文とは
まず「短文」とはなにかについてですが、これは「主語+述語」にいくつかの修飾語がついた、きわめて要素の少ない文のことです。
「俺は心底腹が立つ。」はシンプルに「主語+修飾語+述語」なので短文になります。
「いつも家族から見下されてきた俺は心の底から腹が立って仕方がない。」は「複文+主語+複文+述語」なのでただの長文です。
短文の目安は、ひとつの述語にひとつずつの助詞たとえば「てにをは」を結びつけたものになります。
できるだけ短い文に仕立てて一文で伝えることを限り、複数の意味合いを持たせない文章が「短文」だとも言えるでしょう。
重文とは
重文とは、ひとつの文ともうひとつの文をそのままつなぎ合わせて、新しい文を作ったものになります。
「彼女の元カレに殴られた。」と「俺は心底腹立たしい。」の二文であれば、「彼女の元カレに殴られ、俺は心底腹立たしい。」とするのが重文です。
前回出てきた「花が咲き、蝶が舞う。」も重文になっています。それぞれ「花が咲く。」と「蝶が舞う。」という短文(単文)が素です。そのふたつを重文としてくっつけるときに、前の文「花が咲く。」を「花が咲き、」と連用形に変換して句点を読点に置き換えれば重文「花が咲き、蝶が舞う。」となります。
ここで気づいた方もいるかもしれません。
助詞「が」が重複していますよね。これは正しい日本語の文法なのでしょうか。
助詞の重複
「花が咲き、蝶が舞う。」では助詞「が」が重複しています。
実は、このときの助詞「が」は重複していないと判断されるのです。
なぜでしょうか。
それぞれの助詞「が」がかかっている述語が異なるからです。
「花が咲き、」の助詞「が」は「咲き」という述語にだけかかる格助詞。
「蝶が舞う。」の助詞「が」は「舞う」という述語にだけかかる格助詞です。
このように明確にかかる述語が異なる場合、基本的に「助詞が重複」してもかまいません。
ただし「私がA君が好きなのをB子が知っている。」のような場合は駄目です。
分解してみましょう。
「私が」は「好きな」にかかっています。「A君が」も「好きな」にかかっています。そして「B子が」は「知っている」にかかるのです。
この文章は「[私がA君が好きな]のをB子が知っている。」という複文になっています。つまりひとつの複文の中で助詞「が」が三回出てくるのです。「助詞の重複」の例外である「重文」ではありません。
まず助詞「が」をひとつ削ります。まずは入れ子になっている[私がA君が好きだ]で必ずひとつ使うと仮定して、外に出ている「B子が」を「B子は」に変えます。
次に[私がA君が好きだ]の片方を変えるわけですが、[私はA君が好きだ]にすると、「[私はA君が好きな]のをB子は知っている。」となり、今度は助詞「は」が重複してしまいます。
そこで[私がA君を好きだ]にすると、今度は「[私がA君を好きな]のをB子は知っている」となり、今度は助詞「を」が重複するのです。
実はここがミソで、助詞「を」と複合助詞「のを」は文法上、別に扱います。
助詞「の」と助詞「を」をくっつけて、別の機能を有する複合助詞「のを」とすれば、助詞「の」と助詞「を」とは異なる助詞として認識されるのです。
(ちなみにこの長い一文は助詞「と」と複合助詞「とは」「として」はすべて機能が異なるため別に扱います。また助詞「を」が二回出てきますが、前半を「助詞「の」と助詞「を」をくっつける。」、後半を「そうして別の機能を有する複合助詞とすれば、〜」と区切れるので重文です)。
つまり「私がA君を好きなのをB子は知っている。」という文は成り立つのです。
これが「私がA君を好きなことをB子は知っている。」と書いた場合、抽象名詞「こと」は助詞ではないため複合助詞にはなりません。あえて「のを」と書き、「ことを」と書かなかった理由です。
短文の重文
これで「短文」と「重文」と「助詞の重複」について述べました。
いよいよ本題である「短文の重文」です。
実はすでに例は出しています。
「花が咲き、蝶が舞う」です。
これが重文であることは申し上げました。そしてかかる述語が異なれば、一文中に同じ助詞が出てきても問題ないことにも言及しているのです。
この二大原則を守っている限りは、「助詞の重複」があっても文法上の違反とはなりません。
「朝目を覚まして、ベッドを抜け出し、パジャマを脱いで、制服を着て、階段を降り、母が用意した朝食を食べて、家を出る。」
さて、一文の中に助詞「を」が七回出てきました。
これは文法違反でしょうか。文法上成立しているのでしょうか。
ちょっと考えてください。
答えは「文法上成立」しています。
読点を打ったところをすべて句点に置き換えても文章が成立するのが「重文」の特徴だからです。もちろん述語の活用は変わります。それだけで文章が成立していればよいのです。
先ほどの文の読点をすべて句点に置き換えてみます。
「朝目を覚ます。ベッドを抜け出す。パジャマを脱ぐ。制服を着る。階段を降りる。母が用意した朝食を食べる。家を出る。」
すべての文が成立していますよね。これが「重文」なのです。
最初の例である「花が咲き、蝶が舞う」でも、「花が咲く。蝶が舞う」と読点を句点に変換しても成立しますよね。
ではなぜわざわざ「重文」にするのか。
「味わいを出す」ためです。
「花が咲く。蝶が舞う」ではまったく別々のことを語っているように見えます。しかし「花が咲き、蝶が舞う」と重文にすることで、「花が咲いているところで、蝶が舞っている」ような趣や味わいが醸し出されるのです。
「朝目を覚まして、ベッドを抜け出し、パジャマを脱いで、制服を着て、階段を降り、母が用意した朝食を食べて、家を出る。」をわざわざ重文にしたのも、動作のつながりを滑らかにして趣や味わいを醸し出したいから。一文一文、句点で区切っていたらなんの味わいも感じません。しかし重文にすれば一連の動作が滑らかにつながって趣や味わいが生じます。
だから「短文の重文」を考えるとき、まずすべて「短文」で書き出すことから始めましょう。その「短文」の塊から、句点を省いて連用形でつないでいくのです。すると動作が滑らかにつながります。
「重文」になっているとき、かかる述語が異なれば文法の原則から「助詞の重複」とは見なしません。
ですが、あまり褒められた形でないことも事実です。
「重文」であっても、可能なかぎり「同じ助詞が一文中に出てこない」ように書きましょう。
その工夫をすることで、執筆の
最後に
今回は「短文の重文で味わいを出す【回答】」ことについて、ご質問へお答え致しました。
「短文」だけでは味けない文章にしかならないことが多いのです。その短文の連続を「重文」にしていくと味わいが生まれます。
「花が咲く。蝶が舞う」は「花が咲き、蝶が舞う」のほうが味わいがありますよね。
そういう機微を感じ取れるように意識して文章を構築していってください。
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