文法篇〜一文のたいせつさを知る
901.文法篇:ドラフトでは主体・主語を必ず書く
今回から「文法篇」に入ります。
小説をよく読んでいる方には蛇足でしょうが、意外な落とし穴が空いているかもしれません。
今回は「主体と主語」についてです。
文は「主体」と「主語」と「述語」によって成り立っています。
「主語」と「述語」は英語の文法で習うと思いますが、「主体」は習いませんよね。
「主体」は日本語特有の要素です。
「主体」があることにより、「主語」を省いても文が成立するようになっています。
ドラフトでは主体・主語を必ず書く
日本語の文法を語るうえで欠かせないのが「主体」と「主語」の存在です。
主体
「主体」はその文が「なにに属する文なのか」という「範囲」を決めます。
使う助詞は「は」です。助詞「は」は「イコール」の意味を持ちます。
「彼は高校三年生です。」という文では、「彼」イコール「高校三年生」が成立するのです。そして「高校三年生」が「なにに属している」かといえば「彼」になります。
また助詞「が」のない文では助詞「は」が「主語」としての機能も果たすのです。
「彼は高校三年生です。」も助詞「が」がありません。「主語」は「彼は」になります。
「花は咲き、蝶は舞う。」は、一見すると一文に二つの助詞「は」があるように見えます。しかしこれは重文であり、読点の前と後はまったく別の文です。
だから「花は咲く。」と「蝶は舞う。」をつなげただけになります。
こう考えると、「花」イコール「咲く」であり、「蝶」イコール「舞う」です。「範囲」が決まっていますよね。「咲く」のは「花」であり、「舞う」のは「蝶」であるわけです。
しかもどちらも助詞「が」が存在しないので、「花は」と「蝶は」はぞれぞれ主語となっています。
主語
「主語」は「述語」の「動作主」を示します。
使う助詞は「が」です。助詞「が」は「述語」の指しているものを限定します。
「薔薇が好きだ。」という文では、「好きだ」なのは「薔薇」だけに限定する、という意味です。
皆様の書く文で、よく「私が彼女が好きなことを知っている。」のような文を目にします。
これをひと目見て内容が理解できる方は少ないでしょう。
「私が『彼女が好きな』ことを知っている。」と複文になっているのです。
複文を取り出して並べ替えると次のようになります。
「彼女が好きなことを、私が知っている。」となります。
依然として複文ではありますが、「主語」の「私が」と「述語」の「知っている」が近づいたおかげで、すんなりと読めるのではないでしょうか。
ですが複文であろうとも、一文に主語「私が」「彼女が」とふたつ出てくるのでわかりにくさを増しています。
スマートに言い換えるなら、「彼女が好きなことを、私は知っている。」と片方を助詞「は」の「主体」にしましょう。
また「(○○は)私が彼女を好きなことを知っている。」の間違いで書かれることもあります。こちらも助詞「を」が二回出ているため、スマートではありません。
「私は彼女が好きだ。そのことを(○○は)知っている。」のように二文に分けることで助詞の重複を回避しましょう。
主体と主語の混在
「私は薔薇が好きだ。」は「主体」の助詞「は」と、「主語」の助詞「が」が、同時に出てくる文となります。
分解すると、「私」イコール(「好きだ」なのは「薔薇」だけに限定する)ということです。
つまり「いくつかある中で『薔薇』を取り立てて「好きだ」と言える」が属しているのは「私」という「範囲」内でのこと、になります。
あくまでも「述語」に結びつくのは「主語」の助詞「が」であり、働きかけるのは「主語」に対してのみ。比べて助詞「は」は文全体に効力を発揮するのです。
そのため助詞「は」は以降の文で再び助詞「は」が出てくるまで、文の「主体」を維持し続けます。しかし助詞「は」と同様の効果を持たせた助詞「が」にも、文の主体を変更する力が付与させられるのです。
助詞「は」と助詞「が」は区別がとても難しく、外国人が日本語を習うとき、真っ先に突き当たるのが、この助詞「は」と助詞「が」の使い分けだと言われています。
面倒でもすべての文に主体と主語を書く
「主体」と「主語」は省略されることが多いのです。とくに「主体」は次の助詞「は」が出てくるまでは基本的に同じ「主体」を維持し続けます。助詞「が」に「主体付与」がなされていたらそこで交代です。
文法を身につけるまでは、すべての文に「主体」と「主語」を明示するようにしてください。
川端康成氏『雪国』の有名な書き出しは「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。/向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、/「駅長さあん、駅長さあん」/明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。〜(後略)〜」ですよね。
明確な「主体」と「主語」が書き落とされていることに気づきましたか。助詞「は」と助詞「が」がない文があるのです。
そこで面倒くさくても、すべての文の「主体」と「主語」を書き足していきます。
「汽車が国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった。窓の外(越後湯沢)は夜の底が白くなった。信号所に汽車が(主体付与)止まった。/向側の座席から娘が(主体付与)立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が(主体付与)流れ込んだ。娘は(主語代用)窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、/「駅長さあん、駅長さあん」/明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は(主語代用)、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。〜(後略)〜」
すべての文に「主体」と「主語」を書きました。助詞「が」に「主体付与」させる文があり、助詞「は」に「主語代用」させる文もあります。
これで、どの文がどのようなことについて話しているのかが一目瞭然です。
ただし出だしの二文は、読んでみると「くどい」と思います。
そこで、重複しているもの、続いているもの、書かなくても察せられるものを削除していくことになります。
意味がわかる範囲でできるだけ主体と主語を省く
『雪国』主体・主語盛り込みバージョンから、書かなくてもわかるだろうと思う主体と主語を削っていきます。
これは書き手のセンスの問題です。
もし削った結果オリジナルの『雪国』に戻ったとしたら、あなたには文才があります。
とくに出だしの「汽車が国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。」で「主体」と「主語」の両方を省く勇気はありますか。「窓の外は夜の底が白くなった。」から「主体」を抜くのもそれなりに難しいでしょう。
この難しいことを「さらっ」とやってみせるのが「文豪」なのです。
「文豪」に及ばずとも、どれかひとつでも省ければそれなりの文才はあります。
究極の文章とは「主体」と「主語」を極力省き、それでも意味が通るものです。
そういった文章を書けるようにするのが、「文法篇」の目的でもあります。
最後に
今回は「ドラフトでは主体・主語を必ず書く」ことについて述べました。
「プロット」のドラフトを書くときは、助詞「は」の「主体」と、助詞「が」の「主語」を必ず書くようにしてください。書かなくてもわかるから、という理由で書かないでいると、文の「主体」と「主語」は間違いなく混乱します。
ドラフトではひとまずすべて書いてみて、「プロット」を細密化するにつれどんどん削っていくのです。削った結果それでも「主体」と「主語」が残ったら、それは不可欠な「主体」「主語」になります。
「文豪」が最も頭を悩ませたのも、この「主体」と「主語」の関係性です。当時は読み手に伝わる最小限の文を示せなければ、小説を読んでもらえませんでした。
「主体」「主語」の問題は誰もが通る一里塚なのです。
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