808.構成篇:内面の未熟さから物語は始まる

 今回は「物語の発端」についてです。

 主人公の「内面の未熟さ」が物語の発端となるケースがほとんどです。

「内面の未熟さ」は「欠点」と言い換えてもある程度通じます。

 主人公はどんな「内面の未熟さ」を持っているのでしょうか。





内面の未熟さから物語は始まる


 物語は「主人公の内面の未熟さ」を最初に読み手へ提示しなければなりません。

 もし主人公の内面が十全としていたら、「主人公がある経験をして以前と変わる」ことができないのです。

「悪い方向へ変わる」場合は「内面が十全としている主人公」でも物語は成立します。ただし、「書き出し」の段階で出来事に成功してしまうと、そこだけで読み手が満足してしまう恐れがあるのです。

 だから「内面が十全としている主人公」であっても、最初の出来事には失敗することが望ましいと言えます。




なにかが欠けていることを自覚する

 主人公は「内面の未熟さ」を持っていますが、表向きはやるべきことはやれているし、できないことはないと思い込んでいます。

 しかし出来事を通じて「現実の壁」に直面すると、取り繕っていたものが取り払われて「内面の未熟さ」が露呈してしまうのです。

 この段階に至って、ようやく主人公は「己に欠けているものを自覚」します。

 これを解決せずに放置しておくと、主人公は変われず、物語は先に進みません。

「己に欠けているものを自覚」して物語が前に進むために行動を起こします。

 現実にどんな誤解を持っていて、なにが欠けているのか。それが周囲からどのように見られているのか。

 まず「現実の壁」に阻まれて乗り越えるのに知恵を絞ります。そして「己の欠けているものを自覚」していると、それを補うために当座の解決策を見出だそうとするのです。

 主人公は出来事イベントを経験することで、どのような「結果」を残したいのでしょうか。


 執筆準備をするときに、まずどんな「主人公」がどんな「経験」をして、どのような「結果」を出すのかを考えてください。そして「結果」へたどり着くまでに、主人公には「変わりたくない」との思いから葛藤や摩擦が生じます。そこから物語は始まるのです。

 主人公に足りていないものはどのようなものでしょうか。それは主人公の過去に起因します。

 主人公の過去を考えずに物語を紡ごうとすると、たいてい失敗するのです。

 ショートショート、短編小説、中編小説、長編小説くらいまでは、主人公の過去を考えなくても書ききれます。底は浅いですが。

 連載小説は主人公の過去をきっちりと設定していないと、性格が何の前触れもなく変遷してしまいます。

 小説は「予定調和の芸術」です。主人公の性格が変わるにはなにがしかの出来事が必要となります。それをどう解決するのかを読ませてください。

 主人公の過去がきっちりと設定してあれば、出来事を経てどのように性格が変わるのか。必然性が生じるのです。過去にこういう出来事があって、それをどうクリアしたら、どんな性格になったのか。それを決めるのです。

 なにも主人公の半生をすべて設定する必要はありません。性格を形作る出来事イベントのみを書き出してください。そうすれば「こんな経験をしてきたから、こんな性格になったのか」となり、キャラ立てがしやすくなります。




なにが欲しいのか

 人は他人から得られるものや物質的なものを欲しがります。自分の外から充足して「内面の未熟さ」を補おうとするのです。

 しかし物質では「心の欠落」を埋め合わせられません。それなのに他人から得られるものや物質的なものを欲しがってしまうのです。これは心理の問題なので、解決のしようがありません。

 逆に言えば、主人公は「内面の未熟さ」を補完するために外からのもので埋め合わせようとしてしまうのです。

「内面の未熟さ」を思い知らされたら、自力での問題解決に挑もうとする心が折れてしまいます。だから誰かから援護してもらいたくなるのです。物質的なもので穴埋めをしたくなるのです。


 ここでなにもやってこなければ、「内面の未熟さ」を乗り越えられずに取り残されてしまいます。主人公は「挫折」を味わうのです。この鬱屈感は「文学小説」によく見られます。「挫折」を味わってから、それを克服するまでの物語が「文学小説」ならではなのです。

 しかし「気軽に楽しめる」小説である「ライトノベル」だと、読み手はここでページを閉じてしまいます。だから「ライトノベル」であれば、たとえ偶然であろうとも誰かから援護があったほうがよいのです。

 水野良氏『ロードス島戦記 灰色の魔女』では、主人公パーンが親友のエトとともに、村を困らせているゴブリン討伐に出向きます。そこで大勢のゴブリンと乱戦となり窮地に陥るのです。そこへドワーフのギムと魔術師のスレインが助っ人に駆けつけてふたりは救われます。

 そうです。パーンたちの無鉄砲さつまり「内面の未熟さ」によってふたりはピンチとなり、それを救う者たちがやってきます。「ライトノベル」はこれでいいのです。

 主人公には「文学小説」のように「挫折」を味わわせるのか、「ライトノベル」のように「救われる」のか。あなたの作品にはどちらが似合うのでしょうか。




解決策だと思っていることと本当に必要なこと

「内面の未熟さ」を自覚していようといまいと、主人公はそれを解決するために「なにが必要か」「なにが解決策だと思っているか」。それを思い込んでいるものです。

 こういった「こうすれば自分の苦難は解決するんだ」という思い込みが主人公にはあります。私は養護施設育ちですので、「自分は実は高貴な生まれで、諸事情によりこんなところで暮らしているのだ」と思って育ちました。『アーサー王伝説』に端を発した完全な思い込みです。でも当時の世間知らずな自分は「有効な解決策」だと思っていたのです。しかし現実は「離婚協議中で四人兄弟が養護施設に入れられていた」だけで、DVの父親が死んで母親に兄弟四人揃って引き取られることになった。養護施設から出るため、本当に必要だったのは「育ての親」だったのです。「高貴な生まれ」ではなく、「働くお母さん」が必要だった。これは養護施設から出るための「救い」でもありました。




内面の未熟さをどう解決するのか

「内面の未熟さ」は物語でさまざまな出来事を経験して変化していきます。

「ライトノベル」ならたいていの場合は「内面外面ともに立派な人物になる」ことが最終目標です。『ロードス島戦記 灰色の魔女』なら主人公パーティー六人は犠牲を払いつつも、ロードス島の歴史の裏で暗躍する魔女カーラを倒す英雄となります。そして続巻でパーンはさらに研鑽を積み、のちに「ロードスの騎士」の称号を授けられることになるのです。


「内面の未熟さ」が改善されずに物語が終わってしまうこともあるかもしれません。それは大いなる「挫折」であり、一生背負って生きていくことになるのです。

「あのときああしていれば、なにか変わったんじゃないか」という思いを引きずったまま。

 物語開始当時から「内面の未熟さ」が変わらないと、ウダウダした態度が表に現れて未練がましい作品になってしまいます。

 読後感が悪いのですね。


 いっそ「悲劇」で幕を閉じたほうが読後感はよくなります。

「内面の未熟さ」を克服しようと努力したけど、方向を間違えたがために心の傷が増えていくのです。そして「破滅」を回避しようと努力しますが、あがけばあがくほど状況は悪くなります。そうして「内面の未熟さ」が引き起こした出来事で致命的な敗北を喫して「悲劇」を呼び込むのです。

 物語のスタート地点よりも状況・状態が悪化して幕を閉じる「悲劇」は、読み手に虚無感を与えます。

 しかしたいていの小説はただ「虚無感」に包まれているわけではありません。必ず「将来への希望」が描かれるのです。

 冴木忍氏『〈卵王子〉カイルロッドの苦難』、水野良氏『魔法戦士リウイ ファーラムの剣』のラストは、まさに「悲劇」であり読み手に「虚無感」を与えました。しかしわずかに残った紙幅を使って「将来への希望」について言及しているのです。「ライトノベル」では「虚無感」に陥ったままで作品が終わることはまずありません。

 もし「虚無感」を感じさせたまま物語が終わってしまうと、それは「文学小説」と化してしまいます。

「SF小説」の田中芳樹氏『銀河英雄伝説』も、銀河の覇王となった主人公ラインハルトが難病で衰弱死していく「悲劇」の物語です。しかしわずかに残された紙幅を用いて「将来への希望」についても書かれています。ラインハルトの息子であるアレキサンドル・ジークフリート大公と、宿将ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥の養子フェリックスが幼いながらも友としての握手を交わしたり、ミッターマイヤーがフェリックスを夜空のもとへ連れ出すと、息子は夜空にきらめく星々に手を伸ばそうとするのです。主人公ラインハルトの死後、彼らにはどのような未来が待ち受けているのでしょうか。ここに「将来への希望」が描かれているのです。だからこそ『銀河英雄伝説』は今でも続編を求める声が絶えません。

 たとえ書籍の「最後の文」を読み終えたとしても、「将来への希望」が提示された小説は続きが読みたい衝動に駆られます。「虚無感」で終わった小説は「もっと他によい解決策があったのではないか」と本文中のポイントを振り返るようになります。

 つまり「文学小説」は書籍の中を読み返して答えを得ようとしますが、「ライトノベル」は書籍の外に答えを求めようとするのです。

 読み手をどちらに誘導したいかは、書き手の裁量に委ねられます。

「虚無感」のままで終わることも、その先に「将来への希望」を提示して終わることも、それは書き手の意図なのです。

「ライトノベル」のように「内面の未熟さ」に他人からの援護があってかろうじて出来事に成功したとしても、「虚無感」を提示したまま作品を閉じることもできます。

 逆に「文学小説」のように「内面の未熟さ」から「挫折」したとしても、「将来への希望」をラストに置いて締めることもあるのです。

 このあたりは、さまざまな小説に触れることで体得していきましょう。

 あなたが好きな作品は、どんな始まり方で、どんな終わり方をしたのか。

 その中でどんな展開が繰り広げられて、その展開の中でも「内面の未熟さ」と「救い」「挫折」、「虚無感」と「将来への希望」が入れ子状態になっています。

 この構造を解読することで、「主人公がある経験をして以前と変わる」という小説の基本構成を理解できるのです。





最後に

 今回は「内面の未熟さから物語は始まる」ことについて述べました。

「内面の未熟さ」は「挫折」か「救い」によって分岐します。

 そして出来事を通じて「虚無感」で終わるのか「将来への希望」で終わるのか。

 物語の根源はこのようにとても単純化できます。

 それをどのような状況で、どのような状態で行われるのか。そのパターンの組み合わせが出来事エピソードなのです。



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