779.回帰篇:書き出しの文型

 今回は「書き出しの文型」についてです。

 ここに挙げているのはほんの一例ですが、形容詞は意識して外してあります。

 理由は後日投稿する予定です。





書き出しの文型


 小説の「書き出し」には、その作品の成否を左右する力があります。

 成功するには、どのような「書き出し」が必要なのでしょうか。

 その取っかかりが「文型」つまり文末表現です。




「〜だ。」「〜である。」定義

 これは定義型の一文です。普通の定義を書いても、読み手は「あ、そうですか」で終わってしまいます。意外な定義が書いてあるからこそ、読み手は「おや? これってどういうこと?」と疑問が湧いて続きの文を読んで、疑問を補完したくなるのです。

 たとえば「俺は男だ。」は普通の定義です。しかし「俺は女だ。」と書いてあったらどうでしょうか。

 通常「俺」は男性が用いる一人称ですから「女だ。」と来れば「おや? これってどういうこと?」と感じて、その疑問を補完したくて続きの文を読もうと思うのです。

「文豪」の作品として、とくに有名なのが夏目漱石氏『吾輩は猫である』です。冒頭の一文「吾輩は猫である。」は意外さを覚えませんか。「猫の擬人化」をしているパターンもありますし、「吾輩(が好きなの)は猫である。」の短縮パターンも考えられます。そこに続きが「名前はまだない。」です。これで「猫(=吾輩)には名前がないのだな」という定義がされているのです。

 同じく「文豪」島崎藤村氏『夜明け前』の書き出しは「木曾路はすべて山の中である。」となっています。「木曾路」を知っている人にとっては「当たり前」のことですが、知らない人にとっては「へぇ、そうなんだ」と島国日本においては珍しい、意外さを定義づけられるのです。

 いずれにしても読み手に意外さを感じさせることが、この書き出しのコツです。




「〜。」体言止めの定義

 これも「〜だ。」「〜である。」と同様定義型の一文です。そこから「だ」「である」を除いて体言止めにすることでその定義を「肯定している」のか「否定している」のかもわかりません。

 定義としての機能はほぼ「だ」「である」と同じです。

 よく知られている作品は清少納言氏『枕草子』です。「春はあけぼの。」は定義はしていますが、「肯定している」のか「否定している」のかどういう意図なのかがわかりません。これにより、どっちなんだろうと思いながら読み進めていくことになります。この場合は読み進めれば「よいものだ」という肯定的な定義であることがわかるのです。




「〜た。」過去・完了

 これは定義と動作が過去のこと、もしくは完了したことを表します。

 実はこの過去・完了の「〜た。」で始まる名作は数多いのです。

 太宰治氏『走れメロス』は「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」です。動作がすでに過去から発生したことを表します。この場合まず「メロスは激怒した。」と過去・完了を提示することですでに「激怒」が発生していたと読み手に知らせています。そして「必ず、邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」と続いて、ここでも過去・完了を提示するので、その「決意」はすでに行なったことであることを示しているのです。

 しかし「〜た。」が続くと、それだけ臨場感は薄まります。

 過去を振り返るシーンだからと、その場面をすべて「〜た。」と過去・完了で書いてしまう人がいるのです。これは文末変化が乏しくて「幼稚さ」を表現してしまいます。


 川端康成氏『雪国』は「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」あたりまで憶えている方も多いでしょう。しかしその後も「信号所に汽車が止まった。」で改行し、「向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、」と続き、改行して、

 「駅長さあん、駅長さあん」

 という(葉子の)声を出した後、また

「明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。」と続きます。

 会話文を一回挟んだだけで文末表現はずっと「〜た。」が続くのです。冒頭で行なわれている動作そのものが他人事のような感じを受けないでしょうか。

 これが「〜た。」を連発すると陥ってしまう罠なのです。

「文豪」の作品にケチをつけたくはないのですが、この場合「向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落す。」と現在形にすれば動作に躍動感が生まれます。次の「雪の冷気が流れ込んだ。」はこのままでもいいですし、「雪の冷気が流れ込む。」と現在形にしてたった今流れ込んできたかのように表現してもよいでしょう。

 川端康成氏は『伊豆の踊子』の冒頭でも「〜た。」の文末を連発しています。つまり氏の文体の「クセ」なのです。まるで韻を踏むような印象を受けます。


「〜た。」を連発することで著名なのが、村上春樹氏です。

 差別するつもりはないのですが、川端康成氏の時代は「〜た。」を連発しても、一種独特の雰囲気を醸し出せました。そういう風土にあったからです。しかし現在「〜た。」を連発すると臨場感に乏しく、幼稚な文章に見えてきます。「一種独特な雰囲気」よりもマイナスイメージのほうが強く出るのです。だから私は村上春樹氏の小説が苦手なのでしょう。


 冒頭の一文に「〜た。」が使われると、その文を「過去から続いていること、すでに完了したこと」とすることができます。

 渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の冒頭は「国語教師の平塚静は額に青筋を立てながら、俺の作文を大声で読み上げた。」とこちらも過去・完了の一文です。この一文の最後の「〜た。」のところまで来てその(読み上げる)動作が完了したことを示しています。ちなみにその後の文末は「〜気づかされる。」「〜気分だ。」と変化していることを意識してください。これが現在お手本とすべき書き出しなのです。




「〜している。」継続・進行

「〜している。」という継続・進行の書き出しは長い余韻を残すことになります。

 水野良氏『グランクレスト戦記』の書き出しは「重厚な音楽が幾重にも鳴り響いている。」です。この文の「。」を読み終わってもまだ頭の中に「音楽が鳴り響く」と思います。次文の「そこは巨大な講堂であった。」であり、ここは定義「〜である。」に「〜た。」の過去・完了を加えたものです。

 では質問です。この時点で「鳴り響く音楽」は消えているでしょうか。答えは「今でも音楽は鳴り響く」のです。「そこは巨大な講堂であった。」の一文は「重厚な音楽が幾重にも鳴り響いている。」よりも過去・完了であると解釈できます。

 さらに続けましょう。

「正面には一段高い演壇があり、登壇するための階段がかけられている。」とここでも「〜している。」の継続・進行です。

 ここでもお聞きします。「鳴り響く音楽」は消えているでしょうか。まぁ深く考える必要はなく、今でも「音楽が鳴り響く」はずです。これは「〜階段がかけられている。」もまた進行形なのですが、よく見ると「〜られている。」つまり受け身の継続・進行になっています。受け身の継続・進行は過去から今まで継続することを意味していますから、文は先に進んでいるのですが、時間が先に進んでいないのです。


 このような「書き出し」の文末処理ひとつとっても、機能を意図的に操れるようになることが「面白い作品」に仕上がるかを左右します。





最後に

 今回は「書き出しの文型」について述べました。

 他にも形容詞文、形容動詞文がありますし、動詞文でも常体の「刀の切っ先が鞘走る。」のように「動作が今始まった」かのように表す手法もあるのです。

 日本文学の「書き出し」は、多様性に満ちています。

 しかしその中でも「読み手を惹きつけて先を読みたい衝動」を植え付ける「書き出し」が書けなくては、読み手は一行目で即ページを閉じるのです。

 とくに毎日数千と新作が投稿されている小説投稿サイトでは、「書き出し」こそがすべてとしても過言ではありません。

 皆様にも「ハマった小説」はあるはずです。その作品はどのような「書き出し」だったのかをまとめてみてください。あなたを惹きつける「書き出し」は、他の読み手をも惹きつけるものだからです。



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