774.回帰篇:書き出しは脳で映像化されるか

 今回は「書き出しの映像化」についてです。

 よい作品は「書き出し」からイメージが浮かぶものです。

 一文目からイメージが浮かべば、人はどんどん先が読みたくなります。





書き出しは脳で映像化されるか


 出来事エピソードを語ることで、読み手はそのシーンを脳に映像化します。

 もし「書き出し」が「平成三十一年三月三十一日日曜日。」であったとすれば、文には情報だけしか載っていませんから、イメージは喚起されず脳内に映像が浮かび上がりません。

 これでは「書き出し」としてあまりにも惹きが弱すぎます。

 他にもライトノベルなど魅力的な小説が多数発売される世の中。「書き出し」の一文からすぐに冒頭のシーンを脳内でイメージできることが不可欠です。そうでなければ小説を読むのは、歴史の教科書を読んでいるような退屈極まりない情報の羅列を目で追うだけの作業になってしまいます。




文豪の書き出しはイメージが湧きやすい

 ノーベル文学賞を受賞した川端康成氏『雪国』の「書き出し」は「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」です。どうでしょう。明確なイメージが湧いてきませんか。どんな手段かはわからないけど、真っ暗な長いトンネルから一気に視界が開けてきたらそこは雪国だったわけです。この動作ひとつで読み手は多くの映像を思い描きます。

 しかも続く文は「夜の底が白くなった。」です。時間が夜であることと「雪の白」と「夜空の黒」とのコントラストが脳内イメージで際立ってくることがわかりますよね。

 日本文学がノーベル文学賞を獲得できることを証明した川端康成氏の功績は多大です。

 そして彼の代表作である『雪国』『伊豆の踊子』だけをとってみても、「書き出し」から読み手のイメージを喚起しています。

 いわゆる「文豪」の作品には傑作と駄作が入り混じっています。なぜかといえば、「文豪」の時代に「言文一致体」が確立していなかったからです。

「どう書けばいいのか」という根本がわからなかったのですから、「どう書けば読み手に伝わるか」なんて考えることすらできません。

 そんな中で異彩を放っていたのは夏目漱石氏です。彼は日本作家の中でも海外の評価がきわめて高い歴代屈指の名筆家と見なされています。

 夏目漱石氏『吾輩は猫である』は「吾輩は猫である。名前はまだない。」という「書き出し」が有名ですよね。この「書き出し」はまず読み手の脳内には暗闇の中で猫の姿がぽんと浮かびます。ですが「名前はまだない。」つまり飼い猫だろうなと思わせています。猫が名前を気にするということは、人間に飼われているか手懐けられているかしているときだけでしょう。それだけの映像がこの「書き出し」の二文から見受けられます。

 このように「文豪」の中でもとくに名筆家の作品では、「書き出し」から読み手の脳内に映像がありありと描かれてくるものなのです。


 現在は「ライトノベル」全盛の時代。「文豪」と張り合うのではなく、中高生をターゲットにした「新たなファン層の掘り起こし」が必要な時代です。現在の中高生をターゲットに据えれば、あなたの執筆活動が好評を博すなら彼らは固定ファンとなり岩盤層となって小説を買い支えてくれます。そこに毎年新たな中高生が読み手に加わるのです。

 つまり「ライトノベル」では第一に中高生をターゲットに据えるべきであり、それがあなた個人の好印象となってファンを増やします。結果ファンは雪だるま式に増えていき、人気作家として認識されるに至るのです。

 ですので「ライトノベル」は「書き出し」から映像が浮かばないようでは失敗作と決めつけてかまいません。実際、売れ行きの良いまた評価の高いライトノベルの「書き出し」は「一文目から映像化できる」ほどの描写力を見せつけています。

「書き出し」の重要性は「文豪」の時代よりも格段に増しているのです。そんな中で、計算もなく安易に「平成三十一年三月三十一日日曜日。」などと書いてしまっては、一文目だけで読み手に切られて当然。この情報にイメージはありません。




三人称視点での書き出し

「書き出し」で「これはまだフラウル大陸が群雄割拠していた頃の物語である。」と書いてあったとします。

 読み手は「フラウル大陸なんて地球上、歴史上に存在しないよな」と受け取るのです。これだけで「異世界」を醸し出すことに成功しています。さらに「群雄割拠していた頃の」で戦争の絶えない世界情勢なのかと納得するのです。

「三人称視点」による定義型の「書き出し」ですが、これだけで読み手は「異世界ファンタジーだな」と当たりをつけられます。

 先に物語の展開がどの範囲まで及ぶのかを端的に表したほうが高評価につながるパターンです。

 この後すぐに主人公を登場させます。物語の舞台における主人公の立ち位置、役どころを説明するのです。

「一人称視点」のときと同様、「出来事イベント」に巻き込まれている最中がよいでしょう。

 次善としては主人公の外見・性格を描写して、真新しい脳に主人公のイメージを植え付けることが考えられます。

 田中芳樹氏『銀河英雄伝説』の第一巻は「序章」として銀河の歴史をつらつらと書き連ねています。そうしてから「第一章」を出来事の渦中からスタートさせているのです。『銀河英雄伝説』は「三人称視点」とくに「神の視点」の小説なのであまり初心者の参考にはならないかもしれません。

 田中芳樹氏の狙いかはわかりませんが、あえて「序章」として読み飛ばしてもよい情報を書いたのは、結果として良い方向に働きました。銀河の歴史を読まされると学校の歴史の時間を思い出して辟易する人もいるでしょう。そこで「序章は読み飛ばされてもかまわない。第一章から読んでも物語は楽しめる」と計算して書いていたのではないかと想像できます。

「第一章」ではジークフリード・キルヒアイスが戦艦の艦橋にやってくるシーンから始まるのです。つまりすでに出来事イベントの只中にいます。何度も反復しますが、「書き出し」は出来事の渦中に放り込まれてスタートするのがベストです。そこから人物を描写し、事態を説明し、状況を整理します。これから劣勢を挽回する起死回生の戦術が繰り広げられる。そんなスタートです。

『銀河英雄伝説』の主人公は銀河帝国のラインハルト・フォン・ローエングラムであり、その対比として自由惑星同盟のヤン・ウェンリーが登場します。ヤン・ウェンリーが途中退場するとその被保護者であったユリアン・ミンツが対比となりますが、いかんせん年齢が若すぎており、焼き海苔に味をつけただけかもしれません。あくまでも「ヤンの後継者」としての立場が課されています。それでもイゼルローン共和政府の軍司令官として、銀河帝国軍との開戦か協力かを選択し決断する必要に迫られるのです。

 そう考えるとユリアン・ミンツもいきなり出来事イベントの渦中に放り込まれたクチではないでしょうか。




映像化には丹念な仕込みを

「書き出し」で映像化に成功するためには、相当頭を巡らせなければなりません。ちょっと思いついたから、という理由で「書き出し」を書いても狙いがありませんから失敗する確率のほうが高いのです。

 いきなり出来事イベントの渦中に放り込まれれば、嫌でも生存本能を呼び起こされて状況を確認せずにいられなくなります。これは人の本能ですから、本人に自覚がなくても発動するのです。

 いきなり出来事イベントの渦中に放り込まれた主人公は、どんな状況にいるのか誰にもわかりません。そこで「どうしてこんな事態になったのか」「どうしてこの状況にいるのか」「そもそも主人公はなぜ出来事イベントに巻き込まれているのか」といったことを、連想ゲームの要領で読み手に開陳していきます。すると読み手は提示された順番に文字を映像化していくことなるのです。

 こうなるには手際よく仕込むことが重要になります。

「書き出し」からシーンが終わるまでに読み手へ伝えておくべきことをあらかじめリストアップしておき、シーンが終わるまでにすべての情報を盛り込む必要があるからです。





最後に

 今回は「書き出しは脳で映像化されるか」についてです。

 イメージ化の基本的な流れを読んでいただきました。

 次回は実践するにはどうするかについてまとめています。



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