773.回帰篇:最低限の文章とは小説の文章のこと

 今回は「小説の文章」についてです。

 小説を読んでいると、新聞記事のような「5W1H」が完備されていない文章をよく見かけます。

 なぜだかわかりますか。





最低限の文章とは小説の文章のこと


 前回「最小限の文章」が書けるようになりましょうと述べました。

 では「最小限の文章」とはどのような文章なのでしょうか。

「文章の書き方」教室や講座で習うような助詞「てにをは」の使い方なのか。新聞記事のような「5W1H」の情報を書き漏らさないことなのか。

 違います。「最小限の文章」とは「小説の文章」のことです。



小説の文章

「小説の文章」とは、助詞「てにをは」の使い方や「5W1H」を漏らさない文章のことを指していません。

 試しにあなたが好きな小説を読み返してください。意外と助詞「てにをは」の使い方がおかしかったり、「5W1H」のいくつかを漏らしていたりと、あなたが例として挙げたような文章ではないものをまま見つけられます。

 これが「小説の文章」の特徴です。

「小説の文章」とは「読み手の脳裡でイメージが湧く情報だけを書いた文章」のことです。つまり「イメージにつながらない情報」を書いてはなりません。

「そんな文章で一次選考が通過できるのか」とお思いかもしれませんね。安心してください。そんな「小説の文章」「最低限の文章」のほうが評価は格段に上です。

 なぜそう言い切れるのか。「読み手の脳裡でイメージが湧く情報だけを書く」ようにすると、文章の無駄がなくなり、読み進めていくほどに次々とイメージが膨らんで形作られるようになるからです。

 それに対し「5W1H」に固執すると、余計な情報を読み手に読ませてしまい、かえってイメージが湧きづらくなることがあります。


 たびたび取り上げる川端康成氏『雪国』の書き出しは、「5W1H」の情報を意図的に省いて文章を構築しています。「それで読み手に伝わるのか」と疑問に思う方もおられるでしょう。伝わるからこそ『雪国』は多くの人に愛され、ノーベル文学賞を授かるきっかけともなったのです。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。」という何度も挙げている有名な書き出しですが、「5W1H」の観点から見れば抜けている情報が多すぎます。

「国境の長いトンネルを」は「なにを(What)」、「抜けると」は「どうする(Do)」、「雪国だった」は「どこで(Where)」、「夜の底」は「いつ(When)」と「なにが(What)」、「白くなった」は「どうなる(Do)」です。

 新聞記事に必須の「5W1H」のうち、「誰が(Who)」と「なぜ(Why)」と「どのように・どのくらい(How)」が示されていません。それでも読み手の脳裡にイメージが次々と湧いてくるのです。

 なぜ『雪国』は「5W1H」が不完全なのにイメージが次々と湧いてくるのか。

 それは「不完全」だからです。


 矛盾しているような発言ですが、事実なので受け入れてください。

「読み手の脳裡にイメージが湧く情報だけ」を文章にして書いています。

 最初の一文は「What」「Do」「Where」しか書かれていません。この情報だけで脳裡におぼろげなイメージを湧かせているのです。続く文で「When」「Do」が提示されます。「When」で「今は夜なのか」と思いますし「Do」が続きますから動作が先に進みます。

 そして読み進めていけば「How」は汽車に乗って、「Who」が主人公・島村であり、「Why」なぜ越後湯沢を訪れたのかもわかるのです。

 つまり「脳裡にイメージが湧く」ような限られた情報の提示がなされているのです。

 もし『雪国』が新聞記事のようなガチガチの「5W1H」で書かれていたら、きっと名作とは呼ばれていないでしょう。

 名作の条件として、「5W1H」は「必要とされるときに初めて書いている」ことが挙げられます。

 夏目漱石氏の『吾輩は猫である』『坊ちゃん』を分析してみても同様です。

「名作は語りすぎない」という共通項があります。

「読み手の脳裡でイメージが湧く情報だけを書いた文章」こそが「小説の文章」であることがおわかりいただけたのではないでしょうか。



あえて情報を欠落させる

「道を歩いている人がいる。」という文があったとします。

 すると次のような疑問が湧いてきます。

「5W1H」で考えれば「いつ頃のことだろう(When)」「どこの道だろう(Where)」「どんな道だろう(What)」「人は男性だろうか女性だろうか(Who)」「なぜ歩いているのだろう(Why)」「歩く速度はどのくらいだろう(How)」といったところですね。

 そこで次の文章で「日が暮れてあたりも薄暗くなってきたので、彼は早足で託児所へ向かった。」という文を書きます。

 すると「いつ頃(When)」「どんな人(Who)」「歩く速度(How)」「なぜ歩いているのか(Why)」の四つが示されるのです。

 まだわからない情報、また新たに欠落した「5W1H」が生まれています。

「託児所」ということは「預けている子どもがいる」と推測できるわけですが「どんな子ども(Who)」なのかがわかりませんよね。「彼の年齢や職業(What)」も気になります。

 それに続く文もまた、欠落している情報をいくつか見繕って提示していくのです。

 すると「イメージが湧きづらい」状態に、ヒントとなる情報が的確に脳裡に与えられて「イメージが湧いて」きます。しかしまだ情報不足ですから、補いたい情報を求めて文を読み進めてくれるようになるのです。

 改行されるまでにすべての情報を出すのか、節の中で十全としていればよしとするのか。だいたいこのくらいの長さで「5W1H」が満たされていれば、読み手は文章に書かれていることを漏らすことなく「面白く」読んでくれます。

 ではそれだけで「小説の文章」と言えるのでしょうか。

 まだ足りません。


 書き出しから数ページまでの間に「小説のキモとなる情報をあえて欠落させる」のです。この情報が提示されなければ、読んでいて満足できない。読み手はそういう状態に置かれると好奇心が湧いてきます。しかしいつまで経っても欠落した情報が提示されないと、程なくして読み進める意欲を失うのです。

 読み進める意欲を失わせないためには、改行や項・節単位で欠落した情報をその中で補完するのです。これで小さな満足を与えて読み手に心地よく読み進めてもらいましょう。

 最後まで残しておいた「欠落した情報」は「謎」となって物語の屋台骨を成し、「最後の文」で解決できればひじょうに収まりのよい小説に仕上がるのです。

 この手法はとくに短編小説やショートショートに向いています。

 本来であれば、なんでも完璧を求めるのは結構な姿勢なのです。しかし、こと「小説の文章」に関しては「あえて欠落」させて読み手の興味を惹き続ける必要があります。

 名筆家の傑作を手当たり次第に読んでみてください。必ず「欠落した情報」のある文章を書いています。名筆家の傑作は基本的に売上ベースで見繕ってかまいません。最近ならお笑い芸人・ピースの又吉直樹氏『火花』を読んでみてください。「情報の欠落」がぐいぐいと先を読ませる力に変わっていることがわかるはずです。

 私は大嫌いなので確認していませんが、村上春樹氏の小説にも当然「情報の欠落」はあると思います。だからこそ世界中に熱狂的なファン「ハルキスト」が存在していると想像されるからです。



最後に

 今回は「最低限の文章とは小説の文章のこと」について述べてみました。

 小説の文章を勉強しようとして、新聞記事の書き方を参考にしてはなりません。求められる文章がそもそも異なるからです。

 新聞記事の文章には「5W1H」がすべて入っていることが求められます。

 しかし「小説の文章」には「5W1H」のいくつかを「あえて欠落させる」必要があるのです。次の文で欠落を埋めつつ新たな欠落を生んでいく。そうなれば、読み手は芋づる式に小説を読み進めてくれます。

 あなたは新聞記者になりたいのですか。小説の書き手になりたいのですか。



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