578.明察篇:読むように書く

 今回は「読むように書く」ことについてです。

「話すように書く」と小学校時代に教わったはずです。

 それでは小説は書けません。

「読まれる」ことを前提にして「書き」ましょう。





読むように書く


 小学校時代、皆様は担任から「話すように書きなさい」と言われたと思います。

 そうやって書いた作文や読書感想文が、大勢の方から褒められた経験のある人は少ないでしょう。

 「話すように書く」と話があちこちに飛んでしまい、収拾がつかなくなります。

 なぜこんな非生産的な指導がまかり通っているのでしょうか。




話すように書く弊害

 小学校の担任は基本的に一般社会を知りません。

 大学の教育学部に在籍して教員免許を取得します。卒業後に小学校へ赴任しているからです。

 一度も一般社会に出ることなく教師になれます。

 高校・大学で学業と並行してアルバイトをしていた方は別です。アルバイトは一般社会との接点が生まれます。

 社会経験に乏しい教師が言う「話すように書きなさい」という言葉は、なにに裏打ちされているのでしょうか。

 以前のコラムにも書きましたが、教師自身が小学生の頃に「話すように書きなさい」と言われていたからに他なりません。

 大学では資料をかき集めてデータに裏打ちされた卒業論文を書いたはずなのにです。

 教師が正しい書き方をしたのは卒業論文のときだけなので、教え子もそれまでは「話すように書く」でいいと思い込んでいます。

 これこそ担任が「話すように書きなさい」という元凶です。


「話すように書く」と話があちこちに飛んでしまいます。

 頭に浮かんだ事柄を、思いついたままに口から出すのが「話す」という動作です。

 書きながら、ぱっと思いついた言葉を話すときと同じように書き足す。これでは話があちこちに飛ぶのも当たり前です。

 「話すように書く」は清書では使えません。

 ただし「アイデア出し」の段階ではとても有効です。

 アイデアを出すために文章を「話すように書き」ます。あるときぱっと思いついた言葉を「話すように書い」て文章にしたためるのです。

 これを「清書」にすると支離滅裂なので、あくまでも「アイデア出し」としてしか使えません。

 ですが小学校の担任が言っていた「話すように書く」に引っ張られて、多くの児童生徒が誤った文章を今も量産し続けています。

 読書感想文を書いて文部科学大臣賞を授かるような児童生徒は、「話すように書い」ていません。




書く内容を整理する

 読書感想文が優秀な児童生徒は、「話すように書い」てから一回手を入れています。

 この一文は「好ましい」と思ったこと、この一文は「それはちょっと」と思ったこと、この一文は自身の「気づき」を書いたものと仕分けるのです。

 仕分けたら、まず結論である「気づき」の一文を冒頭に書きます。

 次に「好ましい」と思ったことを書き、あとに「それはちょっと」と思ったことを書くのです。最後に「気づき」の全文を書いて締めます。

 結論の要点⇒序論⇒本論⇒結論という「論文の流れ」を児童生徒の時期から意識しているから、他の児童生徒とは異なった、目立てる読書感想文が書けるのです。

「論文の流れ」で書きますから、大学生になってからレポートや論文に苦労しなくなります。

 なぜこんな簡単なことを小学校の担任は教えてくれなかったのでしょうか。

 先ほど述べた「自分もそう言われてきたから」というのがひとつ。

 もうひとつ「自由詩やエッセイや小説を書く可能性を残したいから」という動機もあります。

「論文の流れ」で自由詩やエッセイや小説を書くのは無理筋です。

 これら散文には散文の書き方があります。念のために言えば「話すように書く」ではありませんよ。




読むように書く

 散文は「読むように書く」のが最適解です。

 あなたの頭の中に「はてなマーク」が浮かんでいることでしょう。

 これまでの人生で「読むように書く」などという言葉を聞いたことがないからです。

 もちろん私の造語ですが、私の小説の書き方を代表した言葉だと思います。

 まず読書感想文や論文と同様、「話すように書い」てから手を入れるのです。

 ただしシーンごとに区切って書きます。区切らないと時空間がごちゃごちゃになってしまうからです。

 文章を「状況」のこと、「人物」のこと、「行動」のこと、「感情」のこと、「思考」のこと、「発言」のことで分けます。

 仕分けたら、それらを自由に並べ替えて文章を作っていくのです。だから「散文」と言います。

 一般的には「状況」つまり「いつ」「どこで」を先に書き、「人物」つまり「誰と誰」のこと、次いで「行動」「感情」「思考」「発言」を混ぜていくのです。

 この一般的な並べ方をしていると、散文は面白く感じられません。

 真っ先に「発言」を書くのもよいですし、「感情」を書いてもいいのです。

「発言」から書いている有名な作品は夏目漱石氏『吾輩は猫である』、「感情」から書いている有名な作品は太宰治氏『走れメロス』が挙げられます。どちらも今さら語ることもないほど有名な作品です。

 現代の作品としては田中芳樹氏『銀河英雄伝説』は序章を「状況」の説明に使っています。水野良氏『ロードス島戦記』も第一章を「状況」の説明から入っているのです。

 賀東招二氏『フルメタル・パニック!』はプロローグを「発言」から入っています。渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は第一章を「行動」で始めているです。


 どのような並べ方をしてもよいのですが、ひとつの大きなルールがあります。

「読んだとき内容がスムーズに頭へ入って明確なイメージが湧くか」です。

 つまり「読むときのことを考えながら書き」ます。

 これが「読むように書く」の真相です。

 何度でも読み返して、素早く明快なイメージが浮かぶように文章をいじっていく。

 小説は読み手の心の中で「イメージ」を形作れなければなりません。

「イメージ」が形作られるからこそ、「人物」が躍動してきます。

 とくに「キャラクター小説」ともいわれる「ライトノベル」では「人物」が躍動しなければ意味がないのです。

 そのためには「読むように書き」ましょう。


 小説なのに、いきなり魔王を倒したシーンを書いてから、時間を遡って冒険の旅に出かけるシーンから始めるようなことはしません。

 中にはそんな小説もあるでしょうが、少数だから話題になるのであって、そんな小説ばかりであればまったく評価されなくなるでしょう。

「読んで続きが気になるように書く」のも「読むように書く」ことの真髄です。





最後に

 今回は「読むように書く」ことについて述べてみました。

「話すように書きなさい」は頭の中に渦巻いているものをとりあえず体の外に出してみる段階です。それがすなわち完成形ではありません。

「話すように書い」たものを点検して、「好ましい」「それはちょっと」「気づき」に分けて、結論の要点⇒序論⇒本論⇒結論という「論文の流れ」に並べ替えたら、読書感想文や論文が書けます。

「状況」「人物」「行動」「感情」「思考」「発言」に分けて並べ替えれば、自由詩やエッセイや小説といった散文が書けるのです。

 本コラムは「小説の書き方」コラムですから、当然後者の分け方を推奨します。



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