549.臥龍篇:偶然と奇跡
今回は「偶然と奇跡」についてです。
小説において「偶然」は「必然」です。しかし「奇跡」ともなると早々起こるものではありません。
偶然と奇跡
出来事は「偶然」起きたのでしょうか。それだと小説は思いつきの大行列となり、すんなり読めなくなってしまいます。
しかも偶然が立て続けに二度三度と続くようでは興醒めもいいところです。
偶然はたまたま起こる
「偶然」というのは一年に数度あるかないか。だから「偶然」なのです。頻繁に起きるようなものではありません。
そんな都合のいい「偶然」が物語で何度となくと繰り返されたら、書き手の作為を強く感じます。
一年に数度あるかないかだからこそ「偶然」には価値があるのです。
なんでもかんでも「偶然」で処理すればいいというものではない。
小説投稿サイトに掲載されている小説を読んでいると、安易に「偶然」を使いすぎている作品を多く見ます。
少女マンガでは鉄板の「寝坊して朝食のパンをくわえながら走っていると曲がり角で好みの男子にぶつかる」という展開は、それだけでじゅうぶん「偶然」なのです。
この一回の「偶然」があるのに、その後のストーリーでも「偶然」同じクラスに転校してきたとか「偶然」あることを見てしまったとか書いてしまいます。
長編小説全体を通して読むと、「偶然」って身近なんだな、と勘違いしてしまいませんか。
そんな都合のいい「偶然」なんて、まず起きないのだと思って「あらすじ」を書いてください。
「異世界転移」ものであれば、異世界転移する経緯そのものが「偶然」に属するものです。
その後の物語で「ドラゴンに運よく勝てた」「魔王に運よく勝てた」なんてシーンに出くわすと、読み手は「また偶然か」と思います。
「偶然」は回数が限られているから「偶然」と呼ぶのです。そうポンポン起こったら、それは「必然」ということになります。
奇跡は一回限り
「奇跡」も「偶然」のひとつですが、こちらは一生に一度あるかないかと条件はさらに厳しくなります。
一生に一度起こるか起こらないかだからこそ「奇跡」には価値があるのです。
なんでもかんでも「奇跡」が起こるのであれば、それはもう「奇跡」とは呼べません。
すでに「偶然」が起こった状況であっても「奇跡」が起こる余地はあります。
二刀流で魔王と戦い、左手の聖剣を撥ね飛ばされてしまった。窮地に陥る主人公ですが、弾き飛ばされた聖剣が魔王を頭上から貫くという「奇跡」はあってもよいのです。
ただ「奇跡」の力だけで勝ってしまうと、物語として内容が薄くなってしまいます。
この場合でも聖剣が魔王を貫いた「奇跡」の後に、たじろいでいる魔王の弱点めがけて勇者が右手の聖剣を突き立てるという「能動」がなければなりません。
「奇跡」の後に「能動」がある。だから「奇跡」が引き立つのです。
魔王を頭上から聖剣が貫くという「奇跡」が起きたのち、「偶然」雷が落ちてとどめが刺される。勇者ものでこれは駄目なのです。
同じ倒し方をするのなら「魔術師が雷を落として魔王にとどめを刺す」という「能動」で表すべきです。
「奇跡」の力は登場人物や世界の運命を大きく左右します。
このままでは死にそうな勇者の身に「奇跡」が起こってすんでのところで助けられる。
その「奇跡」があったために、「勇者が魔王を倒す」という未来が生まれる余地があるのです。
「奇跡」が「偶然」と違うのは、この「登場人物や世界の運命が大きく左右される」ことにあります。
「偶然」はピンチを切り抜けたり弱点を見抜いたりするときに用いるものです。
物語への干渉の度合いが段違いになります。
「奇跡」に頼った筋書きは興醒めもいいところです。
地力で立ち向かおう
主人公が「地力」で運命に立ち向かうからこそ、小説は面白くなります。
最初から「偶然」「奇跡」に頼って運命に立ち向かおうとするのは他力本願であり、物語の面白さはまったく感じません。
「偶然」敵が重なって銃弾一発で二体の敵を撃ち殺せた。一回くらいはいいでしょう。これが六発ぶん繰り返されたら「いいかげんにしてくれ」と思います。でも実際にそんな商業小説が存在するのです。怖い世の中。書き手の無知なのか編集さんの無知なのか。
一般的な見解では、撃ち合っている相手が、こちらが重なったところを狙い撃ちしていることに気づきますよね。気づいたら重ならないように頭を使ってくるはずです。無策でむざむざ十二人が銃弾ひとつで二人ずつ倒されていくなんて、想像力を働かせて書いてないだろうと。おそらく書き手は雰囲気で書いただけなのでしょう。
小説をどんなスタイルで書こうと、それが読み手に伝わることはまずありません。
だからといってあまりにも常識はずれなことばかり書いていると、「コイツなにも考えないで書いているだろう」と読み手に思われてしまいます。一度そう思われたらもうあなたの小説は読んでもらえなくなります。執筆を舐め腐っている人間の書いた小説を読んでやる義理なんてありません。そんなデタラメな書き手は読み手が近寄らなくなり、やがて廃業するほかなくなります。
そんな危険を侵さないよう、主人公は運命に「地力」で立ち向かいましょう。
「地力」を尽くして戦い、押されてギリギリ負けるかもしれないと思う。そんなときに「偶然」が起こるから一発逆転できることもあります。
川原礫氏『ソードアート・オンライン』のアインクラッド編がまさにこのパターンでした。主人公キリトが浮遊城アインクラッドの第七十五層をクリアしたときにヒースクリフの正体を看破。全プレイヤーのログアウトを懸けた「デュエル」が始まります。そこで劣勢に立たされたキリトは、ある「偶然」を味方につけて逆転勝利を飾るのです。そしてVRMMORPG「ソードアート・オンライン」での伝説の勇者として「黒の剣士」の名が語り継がれることとなりました。
「地力」を出し尽くすこともなしに「偶然」が起こっては価値が目減りするのです。
あらゆる手段を講じ、あらゆる手を尽くしてもなお勝ち目が薄い。それでも戦わなければ、その場で敗北が決定してしまう。あきらめずに戦い続けているうちに生じた敵の一瞬のスキ。それが「偶然」であり、スキを見逃さず攻め込むことで形勢が一発逆転するのが勇者ものバトルものの常道です。
「偶然」は「地力」を尽くしてから。「奇跡」は「絶望」に潜む一縷の望み。
どんなに不利であろうとも、主人公が「地力」で立ち向かう姿が「偶然」を、そして「奇跡」を呼び込むのです。
最後に
今回は「偶然と奇跡」について述べてみました。
これまで「偶然」についてNo.210「再考篇:偶然に興醒めする」、No.400「偶然という名の必然」で語っています。
今回は伏線を使わずに偶然を起こすとどうなるかがテーマでした。
No.400では「偶然」を一生に一度起こるか起こらないかとしましたが、「奇跡」と明確に切り分けるために、一年に一度あるかないかと改めました。
「地力」を出し尽くした先で起こる「偶然」が、演出上最も盛り上がります。
もちろん以前お話したとおり、「偶然」を起こすには「伏線」が張っておくべきです。
脈絡のない「偶然」は行き当たりばったりの設定でしかありません。
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