547.臥龍篇:漢字の割合を適度に減らす
今回は「漢字の割合」についてです。
パソコンやスマートフォンで執筆するのが当たり前となった現在。
変換していくだけで難しい漢字もすらすら入力できてしまいます。
その漢字、読めますか。画面を見ずに紙に書けますか。
漢字の割合を適度に減らす
小説の文章で最もたいせつなのは「読みやすいか」です。
なにをもって「読みやすいか」を判断しましょうか。
真っ先に思いつくのが漢字です。
難しい漢字は、それだけで「これは難しい小説だ」と読み手に思われてしまいます。
コラムNo.387「深化篇:漢字をひらけゴマ」で詳しく書きましたが、初心者の方向けに、よりわかりやすく説明できるか挑戦してみます。
読めますか
「読めない」漢字に出くわすと、多くの読み手が小説を閉じるのです。
なぜでしょうか。
読み手は小説を読むときにいちいち辞書を引きません。「読み方がわからない」なら飛ばして読みます。「意味のわかる漢字」なら漢字の字義を頭に入れて先へ読み進めていくのです。
それで意味が察せられればあまり問題にはなりません。しかしたいていの場合は意味がわからないのです。
そういうことが二度三度と積み重なると、「この小説は私に合わないな」と思って小説を閉じます。
No.387では「蟋蟀」「躊躇」「彷徨」「流離う」を例にとりました。
これらの語を読めるでしょうか。「こおろぎ」「ちゅうちょ」「ほうこう」「さすらう」です。
では「躊躇う」「彷徨う」は読めますか。「ちゅうちょう」「ほうこうう」ではありません。辞書を引きたくなる語ですが、先ほど申しましたが読み手はいちいち辞書を引かないのです。
「躊躇う」は「ためらう」、「彷徨う」は「さまよう」と読みます。
「へぇ、こう書くんだ。じゃあ私の小説で使おうっと」と考えるのは早計です。
「流離う」「躊躇う」「彷徨う」などの語は基本的に「当て字」であり、「当て字」はできるだけ「ひらがな」「カタカナ」で書きましょう。
誰もが苦もなく読める「破茶滅茶」「滅茶苦茶」「無茶苦茶」「無理矢理」も本来は当て字です。「はちゃめちゃ」「めちゃくちゃ」「むちゃくちゃ」「無理やり」と書いてかまいません。
「四阿」を読める方はかなりの漢字力があります。一般の方ではまず読めない。
読めない漢字は書かないようにしてください。
ちなみに答えは「あずまや」です。
「あずまや」とは「屋根を四方にふきおろし、壁がなく柱だけの小屋」を指します。庭園などに見られる建物です。その存在すら知らない方も多いのではないでしょうか。存在も知らない人がいる「四阿」という言葉は、漢字で書くべきではなく、そもそも文章で用いないほうがよい単語です。
しかし小説を書き慣れてくるにつれ、こういった「難読漢字」を使いたくなるのが人の性だといえます。
「其の方角を見ると」の「其の」をルビも振らずに読める人は少なくなりました。昭和中期くらいまでは頻繁に使われていた漢字です。今は「その」とかな書きするようになりました。「その方角を見ると」となります。
漢字は「読み手が辞書を引かずに読めるか」をひとつの基準にしてください。
書けますか
あなたは「しょうゆ」「ばら」「ゆううつ」「とにかく」を漢字で書けますか。
書ける方は漢字力が高いのです。一般の人は書けません。
PCを使っている方は、IMEやことえりに入力してスペースキーを押せば変換候補が出てきて、すぐに漢字を使うことができます。
しかしワープロやPCが普及するまでは、書き手が「書けない」漢字はかな書きする習慣がありました。上記の「しょうゆ」「ばら」「ゆううつ」「とにかく」も基本的にかな書きです。
ワープロやPCが普及した今日では「醤油」「薔薇」「憂鬱」「兎に角」と漢字で入力できるようになりました。
では書くのに苦労したこれらの単語を読み手は読めますか。
手で書けた方、またワープロやPCで執筆している方は読めるはずです。
しかし読み手が読めるかどうかはわかりません。
一般的に「書ける」漢字は「読める」漢字です。とくにワープロやPCで執筆している方は、読めなければ入力できないのですから読めて当然。
読み手はこれらを「書ける」のなら「読めます」。「書けない」のなら「読める」確率がぐんと下がるのです。
「そんなことを言っていますが、文豪の小説には難しい漢字が山積みではありませんか。文豪はよくて私たちがダメな理由を教えてください」と詰問されるかもしれませんね。
なぜ「文豪」はよくて私たちがダメなのか。
「文豪」が活躍していた時代は「言文一致運動」といって書き言葉を話し言葉で書こうという活動が盛んに行なわれていました。それ以前は「候文」という書簡体で文章を書いていたのです。
この活動が実を結んで「言文一致体」が成立し、これを機に知識層の中から「小説を書く」という流れが生まれました。
世界でも最古とされる長編小説は、平安時代の紫式部が書いた『源氏物語』だとされています。実はこの『源氏物語』は「言文一致体」で書かれていたのです。
時代が流れると「言文一致体」は俳句や短歌や和歌それに日記で用いられるくらいで、肝心の「小説」は断絶期に突入します。それは征夷大将軍による鎌倉幕府の開闢(かいびゃく)に端を発するのです。それまでせっかく貴族が「言文一致体」を編み出したのに、武家は書簡体の「候文」を頑なに守り抜いていました。これが武家が支配する江戸時代の終わりと明治時代の初期まで続いたのです。
その間に娯楽として「小説」の代わりに入ってきたのが能楽・狂言・歌舞伎といった舞台芸能になります。これらのほとんどは「書物で演目の台本が残っていません」。そのほとんどが「
江戸時代では十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や作者不詳の『四谷怪談』などが庶民の「娯楽」として「言文一致体」の火種を後世に伝えました。この頃、公的文書は「候文」で、寺子屋で教えられるのは中国古典の『論語』の一節という時代だったのです。
江戸時代が終わり明治時代も中期を過ぎようとしたとき、平安時代・紫式部以来の「言文一致体」再興の時期を迎えます。この運動の主軸となったのが当時の知識層で、夏目漱石氏は教師出身として有名な存在です。森鴎外氏は翻訳家として知られています。彼らが難読漢字を用いるのは「候文」を書いてきた素地があるからです。
あなたも私も「文豪」ではありません。
難読漢字を小説に書いてしまうと、読み手はすぐに逃げていきます。
読めないのならルビを振る
小説で理想的な文章とは「辞書を引くことなく、ルビも振られていないけれど苦もなく読める漢字だけで書かれている」ことです。
何度も言いますが、読み手は「辞書を引きません」。わからない漢字があったら読み飛ばします。それでも話の流れがわかるのなら、そのまま読むのです。しかしわからない漢字が頻出したら、もうおしまい。そこで小説は閉じられます。
とくに小説投稿サイトで小説を読んでいるのは主に中高生です。彼ら彼女らが読めない漢字は意外に多い。最低でも義務教育で習う漢字を目安にしましょう。
ですので中高生が辞書を引かなくてもわかるように、「蟋蟀」は「こおろぎ」、「躊躇」は「ちゅうちょ」、「彷徨」は「ほうこう」とかなで書きます。
どうしても「蟋蟀」「躊躇」「彷徨」という漢字が使いたいとおっしゃるのであれば、必ず「ルビを振る」ことです。
たとえば「
しかし意味がわかるかと言われると難しい。とくに「彷徨」はわかりにくいと思います。言葉として知っている人が少ないからです。その点では「四阿」と同じでしょう。
「四阿」ってなんと読むんでしたっけ。思い出せますか。
あなたはルビを振らず「このくらい読めて当たり前だ」という態度で執筆していませんか。
そういう態度でいるかぎり、あなたの小説は閲覧数(PV)は増えてもブックマークも評価もまったく伸びてきません。読み手がまともに読めない文章なのですから、それが当たり前なのです。
書けない漢字はひらく
読み手の主要層が「辞書を引かずに読める」漢字を用いることが望まれます。
あなたが紙に漢字を書こうとして書けなかった漢字は、すべてかな書きしましょう。
「読み手が読めれば、書き手が書けなくてもよいのではないか」と思っている書き手が殊のほか多くいます。
代表例は「醤油」「薔薇」「憂鬱」です。
いずれも読めはするけど書くのが難しい漢字だと思います。
「しょうゆ」「バラ」「憂ウツ」とかな書きするだけですらすらと読めるようになるのです。
ちょっと考えなければ読みが出てこないというだけで、読み手にはストレスがかかってしまいます。
小説は「文字を読んでもらう」のが目的ではありません。「物語を味わってもらう」ためのものです。
ちょっと考えなければ読めないような文章は、「物語を味わう」ことを根本から奪い去ります。
ひらく基準
「兎に角」のように副詞も基本的にはかな書きしましょう。
漢字をかな書きすることを「ひらく」と言います。
「確かに彼の筆跡だ」と「あれはたしか月曜日のことでした」はともに「確か」を用いる語です。しかし前者は漢字、後者はひらきました。違いがわかるでしょうか。
「確かに彼の筆跡だ」の「確かに」は形容動詞「確かな」の活用です。「あれはたしか月曜日のことでした」の「たしか」は副詞になります。
なぜ形容動詞の「確かな」を漢字にするのでしょうか。それは漢字の字義に沿っているからです。「確」は「確実」「確定」「確約」「正確」などで使います。字義は「まさしく」です。「まさしく彼の筆跡だ」で通じますよね。だから「確かな」は漢字なのです。
対して副詞の「たしか」は「おそらく」の意になります。「確」の字義とは若干異なるのです。だから副詞の「たしか」はひらきます。
「歌詞の一番を歌う」の「一番」は漢字です。「世界でいちばん嫌いな虫」はひらいています。この差はわかるでしょうか。
「一番」「二番」「三番」とナンバリングされる場合は漢字です。副詞「いちばん」はひらきます。「世界で二番嫌いな虫」とは言いませんよね。ナンバリングではなく「最も」の意で用いているので字義とは若干異なるのです。だから「いちばん」はひらきます。
他にも副詞なら「沢山」は「たくさん」、「僅か」は「わずか」とひらくのです。
とここまで書いてきましたが、実際にどの漢字をひらくかはすべて書き手に委ねられています。
私は「できる」と「出来る」をこれまでの本コラムで使い分けていたのですがご存知でしたか。
「できる」は可能であることを表し、「出来る」は形になる・完成することを表しています。
「君ならできる」はひらき、「プラモデルが出来る」は漢字です。文章を書きあげることを「出来あがる」と表記するのも、出来栄えが良いことを「上出来」と表記するのも、「形になる・完成する」意が含まれていることに依ります。
「できる」の例はともに動詞であり、たいていは「できる」か「出来る」か校正さんから表記の統一を指摘されるところです。しかし私は漢字とかな書きとを明確な理由で書き分けています。だから指摘されたら「ママ」と書いて直しません。
書き手が明確な基準をもって、漢字にするかひらくかを決めておけば、読み手に違和感を与えることが少なくなります。つまり「読みやすく」なるのです。
「走る時」は「走るとき」、「校門の所に」は「校門のところに」、「彼女の事が好きだ」は「彼女のことが好きだ」、「この頃寒くなってまいりました」は「このごろ寒くなってまいりました」のように補助で用いる体言はかな書きします。
このくらい漢字をひらいていくと、ほどよいページの淡さが得られます。
漢熟語を和語に直すだけでも効果は絶大です。
「泥酔する」は「酔いつぶれる」と書けばひらがなが多くなります。
「才色兼備」を「綺麗なだけでなく頭も切れる女性」と書けば文字数も稼げるのです。
最後に
今回は「漢字の割合を適度に減らす」ことについて述べてみました。
漢字の割合が多い小説は「ページが濃い」のです。その濃さを淡くしていくのが書き手の主な仕事になります。
どんなに名作であろうと、ページを見たときに黒インクの割合が高く「ページが濃い」というだけで中身も読まずに読み手は去っていくのです。
しかし必要以上にかな書きが多くなると「ページが淡く」なりすぎて、逆に読みにくくなります。
漢字は主に表意文字です。漢字を見た一瞬で脳内にイメージが湧くからこそ、読み手はすらすらと文章を読んでくれます。
漢字にすべきか、ひらくかは必ず自分なりの基準を持ってください。
基準がバラバラであれば読みにくいことこのうえありません。
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