546.臥龍篇:奇をてらわない

 今回は「奇をてらわない」ことについてです。

「小説を書く」ということを特別視しないでください。

 古い語彙を選んだり慣用句・ことわざを多投したりすると、たいていの読み手はついてこれなくなります。





奇をてらわない


 これまで小説の文章は「崇高なもの」とされてきました。

 豊富な語彙を巧みに操り、ありありと表れる比喩を巧みに用いる。凡人のよくするところではない。だから「崇高なもの」なんだと誰もが思ってきたはずです。

 しかしわれわれは現在を生きています。

 社会は「文豪」の時代に用いられていた語彙の多くを切り捨ててきたのです。それでも日本語には数多くの語彙があります。それはなぜでしょうか。

 切り捨ててきた語彙の多くが、漢語に由来するものだからです。和語も相当な数削られましたが、漢語ほどではありません。学校教育の古文の授業で、私たちには失われた単語を知る機会があります。「いとをかし」なんて今は誰も使いませんが、昔使われていた表現であることを誰もが知っているのです。




古くさい語彙は使わない

「寂寞」という言葉があります。読み方と意味をご存知の方がどれだけいるでしょうか。おそらく「文学小説」を読む方ならわかるはずです。

「じゃくまく」と読みます。意味は「ものさびしく静まっていること」です。

 あれ「せきばく」と読むんじゃないの、とおっしゃる方がいると思います。これは「じゃくまく」を「せきばく」と読ませた「文豪」がいたからです。

 ちなみに「寂寞」は今ではまず使われません。使う書き手もいるのですが、一般的ではないのです。

 使うと時代がかった印象を読み手に与えてしまいます。

 そもそも「寂寞」の読み方すら知らない読み手が多い中、あえて書く必要がありますか。

 そのときのために「ルビを振る」わけですが、「ルビを振ら」れても意味は通じないでしょう。

 そんな言葉を書いても、読み手は読み飛ばしてしまうだけです。

 つまり死文が生じてしまいます。

 通じない単語を用いる必然性はありません。

 古くさい語彙は、今の読み手には通じない可能性が高いのです。

 それを覚悟で書くのは「読み手無視」の自己満足でしかありません。これで読み手から高い文章評価を得ようとしても、マイナスに働く可能性が高くなります。

 語彙は高校卒業レベルもあれば、小説の表現には事足りる。それも古文ではなく現代文で習う語彙だけでじゅうぶんです。




慣用句・ことわざの多投に注意

「綺羅星のごとく」という慣用句があります。読み方は「きら、ほしのごとく」です。よく「きらぼしのごとく」と、「綺羅星」という星があるようなイメージを持たれています。

 意味は「綺羅のような服装が、星のように輝いている」から転じて「地位の高い人や立派な人が多く居並ぶ様」です。

 あなたは「綺羅」と呼ばれた服装をご存知でしょうか。絹織物のうち、綾織りのものが「綺」、薄織りのものが「羅」と呼ばれていました。絹は光沢のある繊維ですので、きらびやかな服装であることが察せられますよね。

 現在「綺羅」を見ることはまずなくなりました。日本人が和服を着なくなったからです。それでも「綺羅星のごとく」は今でも使い続けられています。「綺羅星」という輝かしい星があるかのようなイメージを伴ってですが。

 アニメのボンズ『STAR DRIVER 輝きのタクト』において「綺羅星十字団」というものがありました。この団体のかけ声が「綺羅星」なのです。これで間違わないほうがおかしい。でも正しい読み方は今教えましたよね。そちらを使いましょう。


「秋の日は釣瓶落とし」ということわざがあります。ルビを振らずに読めた方は漢字力が高いですね。「あきのひはつるべおとし」と読みます。意味は「秋の陽射しは井戸の『鶴瓶』を落とすようにすぐに暗くなる」です。

 しかし今どきの家庭に「井戸」はあるのでしょうか。場所によっては今でも生活用水や飲料水として用いられていますが、「井戸」は管理がたいへんなので日本の家庭からどんどん減っています。当然「釣瓶」を見たことのない人が大半です。

 書き手も読み手も「釣瓶」を知らないのに、「秋の日は釣瓶落とし」ということわざを使ってしまう。まったく意味がないですよね。

 こういった、今用いても意味がわからない言葉を安易に使っていまうのは、過去の書き手から影響を受けすぎていると言わざるをえません。

 今を生きる書き手は、今を生きている読み手がわかる言葉で表現すべきです。




無理に独自性を打ち出さない

 古くさい語彙の禁止、慣用句やことわざの抑制。このふたつを課されると、書き手は「独自性」を模索し始めます。ぜひその方向で考えてください。

 高校卒業レベルの語彙だけでいい。

「いいこと言った!」と言われたいなんて考えなくていい。

 平易で簡潔な文章を書くことだけに腐心するのです。

 そうすれば格段に文章が書きやすくなります。


「書きたいように書く」では書き手だけが満足する文章にしかなりません。

「話すように書く」では話がとっ散らかって支離滅裂になりやすい。

 ではどういう心意気で書けばいいのでしょうか。

 古くさい語彙の禁止も慣用句やことわざの抑制も、突きつめれば読み手が「読みやすい」文章を書くということになります。

 つまり小説は「読みやすいように書く」のがいちばんです。


「独自性」のある表現を模索するあまり、読み手が置いてけぼりになってはいけません。

「読みやすい」文章を、誰かのマネでなく、書き手の「独自性」ある息遣いで書く。

 小説の書き方を習うために、名文家の文章をマネることはあります。

 ですが、実際に小説を書くときまで、名文家のマネをしてはなりません。

 小説は己の息遣いが感じられる「独自性」を出しましょう。




奇をてらわない

 今回の内容を一言で表せば「奇をてらわない」ことです。

 文章は平凡でいい。平凡な文章を積み重ねて、肝心の「物語の内容」で差をつけましょう。

 「奇をてらっ」てひねりをきかせようとすれば、どうしても鼻につく表現となってしまいます。

 そもそも「奇をてらっ」て読み手になにを伝えようというのでしょうか。

「こんな表現も使えるんですね」と誰かに褒めてもらいたいのですか。

 小説を書くのは「小学校の作文の時間」ではありません。

 表現を褒められるような、他人が及びもつかない「奇をてらった」文章には感情がこもらないのです。

 真心を込めて「奇をてらっ」て書いても、あなたの狙いは読み手にまったく伝わりません。

 現在の芥川龍之介賞(芥川賞)・直木三十五賞の受賞作品をいくつか読んでも、そこに書かれている文章は堅実です。文章で「奇をてらわ」なくても「物語の内容」が奇抜なら、飛び抜けた作品は必ず書けます。

 芥川龍之介氏は漢語を巧みに織り交ぜて書くスタイルです。今読むと堅苦しさを覚えるほど。

 しかしお笑い芸人ピースの又吉直樹氏『火花』を読んでみてください。芥川龍之介氏ほど漢語は使われていません。それでも芥川賞は獲れるのです。





最後に

 今回は「奇をてらわない」ことについて述べてみました。

 目立とう、他の人とは違うんだ。

 それが賞レースにおいて必須だと思っていませんか。

 物語はそれでもいいのです。文章で「目立とう、他の人とは違うんだ」をやってしまうとおおかた失敗します。成功するのは一部の天才だけです。

 自分が「天才ではない」ことを自覚して執筆しましょう。

 本物の天才は、そういう心構えで書いていても、独特な文章が書けます。



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