540.臥龍篇:話すように書かない

 今回は「話す」ことと「書く」ことを一緒くたにしないことについてです。

 小学生の頃、先生から「文章は話すように書きなさい」と言われたことはありませんか。

 それ、ウソですから。





話すように書かない


 小学生の頃、先生から「文章は話すように書きなさい」と言われませんでしたか。

 しかし小説は「話すように書かない」でください。

 話し言葉は気さくであり、一見とっつきやすい印象を与えます。でも文章にして読むとあまりにも稚拙です。

「ヤバイ」「半端ない」「ビミョー」などをよく目にしますが、そこに内容はありません。

「ヤバイ」も「半端ない」も分類すると形容詞で、「ビミョー」は形容動詞です。形容詞は他との比較で成り立っています。比較するものがないのに形容詞を使ってはなりません。その文でなにが言いたいのかわからなくなるからです。形容動詞にも比較の意味があります。ですが活用せずに語幹だけで名詞になれるので少しはましです。

 そういう意味では「白」「黒」「赤」「青」といった色は名詞であっても、「白い」「黒い」「赤い」「青い」と形容詞で表せます。こういう形容詞は比較ではなく状態を表しているのです。




話し言葉に文脈なし

 話し言葉には文脈がありません。そのときどきの感情や思考を口に出しているだけであり、とりとめもない会話しかしていないのです。

 試しにご自身が誰かと話している場面で会話を録音して後で聞いてみてください。

 ちょっとした違和感を覚えるはずです。

 さらに進んで「会話を文章に起こす」とどうなるかやってみましょう。

 書きあげた文章を読んでみると、話があちこちに飛んでいて一貫した内容の話をしていないことがわかります。これは女性で顕著に現れるのです。

 女性は同時に複数の話題を同時並行で話しても理解できます。

 だから話があちこちに飛ぶのです。

 男性はひとつの話題を突き詰めて理解しようとします。

 小説を書くうえでは有利なのですが、こちらも話があちこちに飛んでいるのです。

 ひとつの話題をいろんな方向から話すので、一貫性がありません。


 小学校で習う「文章は話すように書きなさい」というのはウソです。

 そうして書いた文章は支離滅裂で、なにが言いたいのか理解できません。

 文章を書いた本人ですら理解できないのです。

 それなのに、なぜ先生は「文章は話すように書きなさい」と言うのでしょうか。

 先生自身が小学生時代にそう教わったからです。

 「三つ子の魂百まで」と言います。小学生ですから七歳くらいに書かされる作文の書き方が「文章は話すように書きなさい」なのです。そう教わってきたから先生もそう言ってしまいます。しかし今先生になっている大人自身が満足に文章が書けません。

 つまり「文章は話すように書きなさい」はまったくの誤りなのです。




若者がわかればよいは間違い

 ライトノベルの主要層は中高生です。中高生に通じる言葉や表現で書いていれば理解されるはず、という幻想は捨てましょう。

 中高生に伝わる言葉や表現は流行り廃りが早いのです。

「今」発表する作品だからいいだろう。というのはリアルタイムを生きている人にとっては一理あります。

 しかし時代の移り変わりはとても早い。「今」は二年後、三年後には「過去」になってしまいます。つまり読み手から「いまどきヤバイなんてマジ使わねぇわwwww」と見下される可能性が高いのです。今使った「マジ」「wwww」も何年かしたらすでに使わなくなった懐かしい表現という認識になる可能性があります。

 いつの時代の若者にも理解されるのは、一般的な「書き言葉」です。

 結局のところ基本的な書き言葉で書かれた文章を、最も多くの読み手が評価してくれます。

 書き言葉は文章のまとまりがよく、文の順番にも無理はなく、誰もが読みやすくて意味が瞬時にわかるのです。

 話し言葉で書いてしまうとなにを言いたいのかわからない。書き言葉で書くとなにを言いたいのかすぐにわかります。

  だからこそ、小説は書き言葉で書きましょう。

 話し言葉の小説は軽薄です。


 一人称視点では主人公が感じたり考えたり思ったりしたことを地の文でも書きます。

 そのとき主人公は話し言葉で書かれることになるのです。それはいい。ですが地の文の機能で説明・動作の類いでは書き言葉で書きましょう。

 この使い分けがうまくできる人と、できない人がいます。

 一人称視点の主人公が感じたり考えたり思ったりすることは、主人公のセンサーを働かせている状態です。とくに心の声文は人物のしゃべり方をそのままなぞることになります。そうでなければ心の中は理路整然とした書き言葉で話すのに、声に出すと話し言葉になるという矛盾が生じてしまいます。釈然としませんよね。

 心の声文は会話文と同様、話し言葉で書くべきです。同様に主人公が感じること考えること思うことは、心の声の延長線にあるので、話し言葉で書きましょう。

 それ以外の地の文は書き言葉でなければなりません。

 小説の基本は「書き言葉」だということを忘れないでください。




書き言葉の寿命は長い

 書き言葉といえば「〜で候」に代表される「候文」を思い浮かべる人がいます。

 とくに明治時代に言文一致体が確立したときに、「候文」を「書き言葉」と読んでいました。私たちが話している文体を「話し言葉」とし、これが文章表現を飛躍的に多角化させたのです。

 前述したとおり「話し言葉」は流行り廃りが早い。

「ヤバイ」も「マジ」も「ウケる」もいつか古い表現とみなされることになります。

 旧時代の流行り言葉ほど、読んでいて「痛い」表現はありません。

「ナウなヤングにバカウケ」なんてもうギャグでしか聞かないでしょう。

「文豪」はそんな流行り言葉を小説にそれほど持ち込みませんでした。

 逆に、自らが生み出した造語を流行らせることを考えていました。

 国語辞書には、そんな「文豪」が生み出した表現についても載っているのです。


「書き言葉」は長い時間が経っても色褪せない魅力が詰まっています。

 いつ読んでも、紙には同じ文字が印刷されているのです。

 時代の流れで表現が変わることはありません。

「書かれていることがすべて」であるため、その作品を新たに読む人にとっても普遍的な価値観を抱かせることができます。

 これはマンガにたとえるとわかりやすいかもしれません。

 マンガはいつでも楽しく読めます。絵柄の好みが分かれることはあっても、マンガの面白さは変わらないのです。

 マンガの絵柄は小説の文体に当たります。

 つまり文体には読み手の好き嫌いがはっきりと表れるのです。

 内容が同じであっても文体で好き嫌いの差が生じます。

 小説を「話し言葉」で書いてしまうと、流行りの萌えキャラのテンプレートで描いてしまうようなものです。文体が気さくになりすぎます。

 もっとあなたらしさのある文体で書かなければ、あなたが小説を書く理由がないのです。

 書き言葉の寿命は、あなたが思っている以上に長い。

 旧仮名遣いさえ憶えれば、夏目漱石氏や森鴎外氏などの作品も読めます。言いまわしさえ気にならなければ芥川龍之介氏や川端康成氏の作品も読めるのです。

 百年前の小説が今でも読めるのは、「書き言葉」だからこそ。

「話し言葉」を単に書いただけでは、流行りこそ取り入れられますが、歳月には勝てません。

「書き言葉」は改まった書き方をしますが、そのためとても長い間読まれる作品に仕上がるのです。

 もし将来プロの書き手となったとき、あなたの過去作が「話し言葉」で書かれていたら、印税生活に苦労することになります。賞味期限の切れた過去作が大ヒットを飛ばすことなどないからです。

 だからこそ、小説は「書き言葉」で書きましょう。





最後に

 今回は「話すように書かない」ことについて述べてみました。

 小学校の国語の時間に、先生が「文章は話すように書きなさい」と言います。

 しかしそれはまったくの見当違いです。

「話し言葉」と「書き言葉」はまったくの別物。

 違いがわからない方は、一度友人との会話を録音して、後日聞き直してみてください。

 時間があれば書き起こしてみましょう。

 きっと「話し言葉」で書いちゃダメだということに気づくはずです。



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