513.飛翔篇:日本語に主語は要らない
今回は「日本語の主語」についてです。
日本語は主語がなくても通じてしまう言語です。
ですが、まったくないのもおかしな文章になってしまいます。
日本語に主語は要らない
私たちは日本語を日常的に用いていて、なんら不自由しません。
しかし外国人が日本語を勉強しようとするとかなり難儀するとのこと。
なぜかというと「日本語は明確な主語を持たない言語」だからです。
日本語は話し相手に伝える言語
日本語が主語を持たないのは、話している相手にこちらの考えていることを伝えるために生まれたからです。
英語でもたとえば「Hello」「Good-bye」「Nice to meet you」などのあいさつ、また命令形「Shut up!」「Be quiet!」などは主語を持ちません。
この主語を持たない範囲が徹底的に広いのが日本語なのです。
たとえばこんな会話があったとします。
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「えっ、いきなりショートカット?」
「髪切ってきたんだ」
「なにかあったの?」
「そうなの。昨日彼にフラレちゃって」
「艷(つや)やかでうらやましかったんだけどなぁ」
「どうせすぐにまた伸びてくるし」
「まぁ納得ずくならいいんだけどね」
――――――――
日本語の会話として成立しています。
では主語を確認してみてください。
明確な主語は見当たらないはずです。
これが日本語の特異性です。
なぜ日本語は主語を持たないのでしょうか。
それは対面して話しているため聞いている人にとって、話している人が誰かなのかが明白である点にあります。
日本語は成立過程において相当長い間文字を持っていませんでした。
縄文時代から平安時代初期まではアジア大陸から中国古典の文献が入ってきて、政権上層部は漢文で発言を書き残していました。漢文は主語を持つ言語です。飛鳥時代に厩戸皇子(聖徳太子)が隋の煬帝へ「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」と書いたのも漢文です(原文:「日出処天子至書日没処天子無恙」)。
日本の歴史についての二大書『古事記』『日本書紀』も漢文で書かれています。
ですが話し言葉は「やまとことば」つまり日本語でした。
長い間文字を持たなかった「やまとことば」は、「話しかける人が聞く人に対して物事を伝える」形で成立していました。
だから前提は上記の会話文のような「話しかける人」と「聞く人」が双方だけで固定されている状態なのです。
ひらがなは平安時代に、日本最古の歌集『万葉集』から見られる借字「万葉仮名」を起源として成立しました。一音一字の表音文字であるため、
『万葉集』は政権上層部や貴族などの歌を集めた書物です。つまり主語を持つ漢文に親しんでいた人たちが話していた言葉がそのまま収められています。
『万葉集』では自分のことを「われ」と呼んだり、私の袖を「わが衣手」と呼んだり、天皇を「わご大君(わが天皇)」と呼んだり、といった「話している自分のことを文中に登場させる」ようになりました。
千四百年ほど前にようやく
ですが歌を聞く人を文中に登場させることはありませんでした。歌に詠んで書にしたため、聞く人へ送るわけですから、殊更聞く人を登場させる必要がないからです。
この流れを激変させる書が登場しました。
日本初(世界でも最初期)の長編小説とされる紫式部氏『源氏物語』です。
小説ということは、著者・紫式部の心境を書いたものではなく、主人公である光源氏を通して恋愛を中心に、栄枯盛衰、政治的欲望と権力闘争などの平安時代の貴族社会を描いたフィクションとなっています。
小説である『源氏物語』から、話し言葉の中に「聞き手」のことを書く流れが生まれたようです。
つまり
ちなみにカタカナは「万葉仮名」を仏僧がさらに簡素化して経典の余白に素早く書き込めるようにしたものとされています。
日本語は主語がなくても成立する
先の例文のように、日本語は「主語」がなくても成立する、きわめて珍しい言語です。
それでも現在、文章を書くには「主語」を明確にする必要があります。
面と向かって相手に「小説家です。」と言えば「話しかけたこちらは小説家です」ということが伝わるのです。
しかし文章として「小説家です。」とだけ書かれていると、読み手は「誰が?」となります。
そこで「私は小説家です。」と書けば、読み手がようやく納得してくれるのです。
しかし「私は山田太郎。小説家です。」と書いてあれば、「私」が「小説家です。」とつながります。つまり主語がなくても「小説家です。」は「誰が?」なのかが伝わります。
この調子に、
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私は山田太郎。小説家です。北海道札幌市に生まれて大学へ進むとき東京に出てきました。当時はひと月三万円の安アパートで暮らしていました。今は埼玉県さいたま市で執筆活動に勤しんでいます。今度出すのは自伝的小説です。恥ずかしい面もありますが、ぜひ皆様に読んでいただきたいと思います。
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と、このくらい「主語」を省いて書いても、すべての「主語」は「私」であることがわかりますよね。
これほど「主語」をとらずに成立する言語は日本語だけです。
逆に言えば、「主語」を出さないことで、まったく同じ文を書いても「主語」を替えることで意味が異なる文章が成立する言語でもあります。
ニュースや情報バラエティーなどで、よく政治家の発言が切り貼りされて趣旨を百八十度変えられてしまうケースが発生する。これも「主語」がないため切り貼りしやすい日本語の特徴なのです。
歌曲の詞などで、サビに主語を書かないで、1番と2番で主語を私とあなたに変える。ただそれだけで、同じサビなのに主語が異なる文章になります。
必要にならないかぎり主語は省く
「主語」を書かなければ通じない文は、たいていその文章の最初の一文です。ここばかりは主語を省けません。省いてしまうと「誰のことなのか」わからなくなります。
先ほどの「私は山田太郎。小説家です。〜」の最初の一文を削除してしまうと、「誰が?」がわかりませんからとりあえず「小説家」を「主語」にとるのです。
ですが「小説家です。」までとってしまったらどうでしょう。
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北海道札幌市に生まれて大学へ進むとき東京に出てきました。当時はひと月三万円の安アパートで暮らしていました。今は埼玉県さいたま市で執筆活動に勤しんでいます。今度出すのは自伝的小説です。恥ずかしい面もありますが、ぜひ皆様に読んでいただきたいと思います。
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不思議なことに通じてしまいます。「執筆活動」「自伝的小説」「皆様に読んでいただきたい」の三つから「この文章の主語は小説家かな?」という推測が成り立つからです。
ですが、ここまで読まなければ「主語」がわからないのでは読み手にやさしくありません。
最初の一文か二文目には「主語」を出しておく。
それ以外はできるかぎり省いてみる。
その実験を繰り返して、どのレベルまで「主語」を省けるのか、見極めてみましょう。
最後に
今回は「日本語に主語は要らない」について述べてみました。
「主語」がなくても成立してしまう世界的にも数少ない言語が「日本語」です。
川端康成氏『雪国』の書き出し「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。」の一文には「主語」がありません。続く「夜の底が白くなった。」の「夜の底が」はこの文だけの「主語」です。次に「信号所に汽車が止まった。」の文で「トンネルを抜ける」のは「汽車」だったのだとわかります。
ノーベル文学賞を得た川端康成氏をして三文に抑えました。
凡才な私たちは二文以内に「主語」を出したほうがよいでしょう。
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