266.表現篇:勧善懲悪と対立する正義

 表現として根本的なものが物語の形です。

「勧善懲悪」と「対立する正義」の二つがあります。





勧善懲悪と対立する正義


 言文一致体が確立するまでは、口伝で物語が受け継がれてきました。

 その頃の物語は基本的に「勧善懲悪」ものです。

 つまり「悪がいるので善が懲らしめた」というもの。

 そして話の筋が通っていない「荒唐無稽」つまりでたらめであることが多かったのです。




勧善懲悪

 古くから伝わる物語は基本的に「勧善懲悪」です。

 神話における神と邪神との戦いであったり、天使と悪魔の戦いであったり、神と人との戦いであったり。

 古典における強国と中規模国連合との対決や、悪徳宰相と王子との対決や、大富豪と貧民との対決。

 今ならブラック企業と非正規社員との争いや、大企業と零細企業との争いなどが想定されますね。

 たいてい悪さをする側が負けます。

「善を勧めて悪を懲らしめる」が「勧善懲悪」という言葉の意味なので、昔から語り継がれる物語はたいてい善が勝って悪が負けるのです。

 たとえば古代中国の夏王朝末に悪逆を極めた桀王が殷(商)の湯王に敗れて政権交代します。

 殷王朝末に悪逆を極めた紂王が周の武王に敗れて政権交代するのです。

 戦国時代に入って秦王の贏政が、戦国七雄の他六国をひとつずつ潰して中国を統一します。しかし二代で国が乱れて再び群雄割拠する事態に至り、楚漢戦争によって武勇の誉れ高い楚の項羽は他人に厳しかったがために、人たらしの漢の劉邦に敗れるのです。

 このように古代中国では、勝った側が清く正しい善であり、敗れた側が非道の悪であるという図式を踏襲しています。

 そうしなければ世を平らげて政権を維持できなかったからです。


 だから「勧善懲悪」はひじょうにわかりやすい対決図式であり、そのほとんどで善が勝ちます。

『仮面ライダー』にせよ『戦隊ヒーロー』にせよ『プリキュア』にせよ、最後に勝つのは主人公側ですよね。

 このようにお子様向けな作品にするためには「勧善懲悪」が必然となります。

 逆に言えば「勧善懲悪」は子どもでも理解できる「底の浅い物語」なのです。

 寓話や童話などは教訓としてほとんどの場合正直者が勝ち、強欲者が痛い目を見ます。

「小説賞・新人賞」を狙いに行くとして、そんな「底の浅い物語」「寓話や童話の類い」が選者の目に留まるものでしょうか。

 あまりにも陳腐すぎて初見で切られることが多いと思います。

 だって「勧善懲悪」ものだとバレたら物語の「結末」を読まなくても「どうせ善が勝つんだろう」と思われてしまうからです。

 だから「最後は悪が勝つ」展開を想定していながら「勧善懲悪」もののようにストーリーを進めていくのは完全な誤りになります。


 マンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』は当初犯罪者をデスノートで処刑していく夜神月が勝つストーリー展開を積み重ねていました。

 そして世界一の探偵・Lを抹殺することに成功し「最後は悪が勝つ」というひとつの「結末」が見られたわけです。

 ですがその後Lの後継者であるニアとメロが夜神月を追い詰めていきます。今度は「善が勝つ」という「勧善懲悪」へと舵が切られたのです。

 まぁ『週刊少年ジャンプ』での連載ですから、最終的に善が勝たないとダメだったのでしょうけど、L戦後の展開は唐突に感じられました。

 最後のデスノートへの小細工は「頭がよいあなたがそれにすら気づかなかったの?」というもので、ひじょうに興が削がれたのです。

 なので私は「月がLに勝つ」ところまでが『DEATH NOTE』の本編だと思っています。

 もしL戦の後を続けるのであれば「月が思い描いている新世界とはどのような世界なのか」を徹底的に描くべきでした。

 そうすればもっと面白くて読み手に深く読ませるストーリー展開に仕上がったのではないか。

「勧善懲悪」に思考が囚われてしまっては、この作品の魅力を活かせないと思っているからです。

 ハラハラ・ドキドキのサスペンス感は明らかにL戦のほうが上だったと思います。




対立する正義

 日本でも寓話や童話などは「勧善懲悪」で、海外から輸入されてきたさまざまな物語も「勧善懲悪」でした。

 しかしいつの頃からか「対立する正義」ものが出てきます。

「対立する正義」とは「双方が『自分たちこそ正義だ』と思って対立している」構図です。

 明確な「悪」が存在しないので、物語の構造は複雑になります。

 当方も先方も「あいつは悪だ。私が懲罰してやる」と思っているのです。

 でも実際どちらが「悪」であるという証明もできないので、双方とも「自分たちの正義」を振りかざして互いににらみ合っています。


 アニメの安彦良和氏&富野由悠季氏『機動戦士ガンダム』はスペースノイドを地球から統治しようとする地球連邦政府に対し、地球から最も遠いスペースコロニーであるサイド3からスペースノイドの解放を目指すジオン公国が存在します。

 地球連邦政府から見れば、ジオン公国は「スペースノイドの統治を邪魔している」存在です。ジオン公国から見れば、地球連邦政府は「地球からスペースノイドを抑圧している」存在になります。

 だから双方が互いを「悪」と断定して戦いの火蓋が切って落とされたのです。

 これだけなら本来話し合いで解決できそうな気もしますよね。

 しかしジオン公国で実質的な最高指導者となったのは、デギン・ソド・ザビ公王の長子ギレン・ザビ。彼は地球連邦政府を打ち倒して自身の独裁権を確立しようとしています。

 そういう意味ではジオン公国のほうが「悪」に見えますが、これはあくまでもギレン当人の野望です。デギン公王はスペースノイドの自主独立さえ認めてくれれば、あえて地球連邦政府と戦う必要なんて感じていません。

 だからデギン公王はギレンを「ヒットラーの犬」と揶揄したり、地球連邦軍のレビル将軍と講和を成立させようと旗艦グレート・デギンで会合に単独で出かけたりしたのです。

 そして主人公である地球連邦軍でガンダムのパイロットをしているアムロ・レイも、最終話で「シャア・アズナブルは倒すべき相手でない」ことに気づき、狙いを「ザビ家」に向けます。

 シャアはニュータイプだった少女ララァ・スンの死にこだわってアムロを倒そうと血気に逸るのです。しかし二人の直接対決により、シャアも狙いを「ザビ家」に変更します。

 結局「ザビ家」の首脳陣が壊滅したことにより地球連邦軍とジオン軍による「一年戦争」は終結するのです。

『機動戦士ガンダム』において地球連邦政府もジオン公国も「悪」ではなかった。「悪」は「ザビ家」で独裁権を握っていたギレン・ザビと、彼を快く思っていない妹キシリア・ザビという個人だったのです。


『機動戦士ガンダム』ではこのように両陣営とも「我こそ正義、相手こそ悪」と考えていました。しかしそもそも論で言えば、そのような構図に焚きつけたギレン・ザビの個人的な「悪」が始まりです。

 そのことは『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』などでも明らかになっています。双方戦うべき相手ではなかったのだけれども、陣営が違うというだけで戦わざるをえなかったことをこれらの作品は表現したのです。


「対立する正義」はもつれた糸のようなものです。

 なにかをかけ違ってしまい互いに憎み合ってしまいます。

 解決するには、そのもつれた糸である「かけ違ったなにか」を解きほぐす必要があるのです。

 そう考えると、必然的に「長い物語」になりそうな気がしてきませんか。

 物語冒頭で双方の正義を主張し、激突し、損害を出しながらも誰かがもつれた糸を解きほぐすまで戦い、糸がほどけたらようやく和解して終了です。

 書くべきことが多すぎるほど長いと思いますよね。

 これを口伝で語り継ぐのは至難の業です。

 だから言文一致体が確立するまで日本では「対立する正義」の構図がそれほど存在しなかったのではないでしょうか。





最後に

 今回は「勧善懲悪と対立する正義」について述べてみました。

「勧善懲悪」はひじょうにわかりやすい構図になります。

 主人公が「正義」で「対になる存在」が「悪」です。

 だから物語が始まったら主人公が悪を懲らしめに行って、懲らしめたら財宝を持ち帰ったり褒美をもらったりして終わります。

「勧善懲悪」は短編で書きやすい物語です。


「対立する正義」は前述したように、双方の主張をきちんと書く必要があり、誰かがもつれた糸をほどくまで対立は続きます。

 語る時間は単純な「勧善懲悪」ものよりもはるかに長くなるのです。

 だから長編小説を書こうと思えば「対立する正義」ものにしたほうが作りやすくなります。


「小説賞・新人賞」を狙いに行くのなら、どちらを書くべきかは自明でしょう。



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