265.表現篇:経験したこと以上は書けない
今回は「経験」と「知識」に関するお題です。
「経験」のないことをあったかのように書くのはとても難しい。
妄想で補うにしても限度があります。
経験したこと以上は書けない
書き手はさまざまな「経験」をしておくべきです。
「経験」の浅い書き手の小説には「事実の裏付け」がないため、どうしても小説自体が浅く肉薄になります。
キャラの造形をするときも「どのような知識を持たせよう」と頭を悩ませるものです。
しかし、あなたが有するもの以上の「知識」をキャラが持てるはずがありません。
ですが「経験」せずに書かなければならない「知識」もあります。
なぜ経験していないことは書けないのか
いわゆる純文学、私が言うところの「文学小説」は、等身大の登場人物が出てきます。
彼ら彼女らが持っている「知識」は現実世界で手に入れられるものばかりです。
たとえば学生・生徒であれば、書き手も学校生活を送った「経験」があり「知識」も持っているので、まず破綻せずに書けます。
ですが下戸(げこ)の書き手はアルコールによる身体作用についての「経験」と「知識」がありません。そんな書き手に酒のうんちくを語らせても底が浅いのです。
俳優では「酒は飲めないけど酔っ払いの演技に評価の高い」方々がいらっしゃいます。
演じるには「酔っぱらい」の「外面的な特徴」だけを模倣するだけでいいからです。
自身の体内に生ずるアルコール作用の「知識」なんて必要ありません。
仮に「アルコールを実際に飲んで酔っ払っている」俳優と「酔っ払いの演技をしている」俳優とでは、観客として後者のほうが「本当に酔っ払っている」と見なすのです。
だから俳優は「知識」ではなく「外面的な特徴」をどう現実にいる人のように演じられるかが問われます。
ジャッキー・チェン氏主演『ドランクモンキー酔拳』などのようなものだと言ってわかる方は少ないかな。
しかし小説は「読み手が主人公に感情移入して疑似体験を得る」ために書かれた文章です。
演技のように「外面的な特徴」だけをいくら書き連ねたところで、読み手は主人公に感情移入できません。
――――――――
アルコールを飲んだときの、口の中の涼しげな感覚と、それを胃に流し込んだ後で少しずつ胃から体中が火照ってくる感覚。量が進むと注意力が散漫になり、思考が堂々巡りを始める。さらに飲んだら酩酊状態になって自分が何をしているのかすらわからなくなる。そして最後に酔いつぶれます。
――――――――
ここまでほぼ「説明」です。これに「描写」を書き加えて「小説」にしなければなりません。
しかし困ったことに、私はアルコールがいっさい飲めません。一滴入っただけで直後からヒドい頭痛に悩まされるからです。
だから私には「アルコールを飲んだ人」の「描写」は書けません。
私が書く小説に飲酒シーンがいっさい出てこないのもそのせいです。
同じように私は「タバコの煙」も身体的に受け付けません。こちらも少しでも嗅ぐと激しい頭痛に見舞われます。
落ち葉の焚き火で漂ってくる煙ですら激しい頭痛を催すのです。
ということで私には「タバコを吸う人」の「描写」も書けません。
嗜好品である酒もタバコも書けないのです。
これは現代を舞台にした小説を書くときに、かなり大きなハンデを背負うことになります。
幸いなことに、現在世界でタバコは「禁煙」「分煙」の流れが少しずつ醸成されてきました。
つまりこれから現代日本を舞台にした小説を書く場合、あえて喫煙シーンを書く必要性が薄れたのです。
もちろんアウトローな人物像を造形したい場合、主人公はタバコを吸うべきだと思います。
そういうやさぐれた雰囲気を出すには「喫煙する」のがジェームス・ディーン氏や石原裕次郎氏以来の定番だからです。
ですが社会人が登場する小説で「飲酒シーン」が書けないというのは、先々の執筆において相当苦労すると思います。
このように、小説を書くとき書き手に「経験」による「知識」がなければ、書き手以上の「知識」を持つ登場人物など書けはしないのです。
あなたが今高校生だったとします。そんなあなたは世の中のことをどれだけ知っているのでしょうか。それによって書ける小説にも変化が生じてきます。
コンビニでアルバイトをしていれば、販売業に就いている人がどれだけの「経験」をしているかがわかるのです。
飲食店でアルバイトをしていれば、飲食業に従事している人の「経験」がわかります。
アルバイトだけでなく、実用書の読書によって「知識」を増やすこともできるのです。
小説を書きたいから「小説をたくさん読む」のは間違っていません。
ただし「小説だけを読む」のはやめましょう。
図書館にでも行って、さまざまなジャンルの書籍を読み込んでこそ「知識」が得られます。
ちなみに私は以前書店の店長でした。
交通事故の後遺症の影響で辞めましたが「書店の経営」という他の人がなかなか持ちえない「知識」を持っています。
『論語』に出てくる孔子を奉っている儒学には四書五経という経典があるのです。
四書に『大学』という書物があります。
その中に「天下を治めたければ国を治めよ。国を治めたければ家を治めよ」というくだりがあります。
つまり「書店の経営をしたことがあるなら、国の経営もできる」ということです。
だから私は戦争ものや戦記ものをよく書きます。
この分野においては他の書き手よりは幾分詳しいからです。
フィクションでは
これまで「現代日本」を舞台とした小説について書いてきました。
ここからは「フィクション」を前提とした小説について述べていきます。
たとえばライトノベルでは「異世界ファンタジー(ハイファンタジー)」もの(転移・転生を含めて)が定番です。
「異世界ファンタジー(ハイファンタジー)」ものは戦の仕方である「兵法」を知らずして書くことはまずできません。
小説の中でも「戦記もの」は「兵法」の「知識」が不可欠です。
書き手の中で実際に「戦争で人を殺した」ことのある人はまずいないと思います。
また「戦争で一軍を指揮して勝ち抜いてきた」ことのある人もあまりいませんよね。
最近だと過激派組織に奪われた都市を奪還したイラク軍将校は「戦争で一軍を指揮して勝ち抜いてきた」人に当たりますよね。
だから世の多くの書き手は、戦の仕方である書籍として記された「兵法」の「知識」がなければ「戦記もの」を書けないのです。
「兵法」の裏付けもないのに戦争ものを書くと、まず破綻します。
「兵法」の代表格は中国古典の『孫子』です。
現存している兵法書の中で、最古にして最高のものとされています。
最低限『孫子』くらいは読んで理解してください。
ちなみに私が書店を経営していたときに「座右の書」としていたのはこの兵学の『孫子』と法学の『韓非子』という書籍でした。
『孫子』は現代でもじゅうぶん通用する書籍なのです。
『孫子』の兵法
小説を書くうえで、書き手の皆様には最低限『孫子』を読み込んでおくことをオススメします。
小説は主人公がいなければ成立しません。また主人公以外の人物もいないと成立しないのです。
つまり対人関係によって小説は成り立っています。
そして人と人との駆け引きを知るには『孫子』が最良のテキストです。
駆け引きの「知識」を大きく増やせるでしょう。
「戦記もの」とはいかないまでも「勇者もの」であれば「対になる存在」との駆け引きが必要になります。
また「恋愛もの」なら「対になる存在」である「意中の異性」との駆け引きがメインになるのです。三角関係であればもう一人との駆け引きも必要ですよね。
そうなるとやはり「兵法」による駆け引きが必要になります。
そして『孫子』が最も優れた兵法書なのです。
(のちに『孫子篇』という括りをした章を設けています)。
もし駆け引きの「裏の面」を知りたければ中国古典の『韓非子』を読むといいですよ。
こちらはかなり現実主義な駆け引き術を身につけることができます。
『五輪書』
「勇者もの」であれば剣術はぜひとも押さえておきたい「知識」です。
でも現在剣術を学んでいる人口はとても少ないと思います。
私は中学時代に剣術道場に三回ほど通ったことがありますが、家から遠かったこともあり長続きはしなかったですね。
身近に剣術道場がある環境なんて今の日本にはそうありません。
であれば剣術の「知識」をどこからか仕入れてくるしかないのです。
『孫子』は兵法書としてひじょうに優れています。
しかし一対一のような限られた状況で剣術の優劣を競う場合、とくに「勇者もの」を書くのであれば、より適当な古典があります。
宮本武蔵氏『五輪書』です。
真剣勝負にて六十数戦無敗ともいわれている二刀流の剣豪・宮本武蔵氏が晩年に著した兵法書とされています。
二刀流といえば川原礫氏『ソードアート・オンライン』のキリト(桐ヶ谷和人)を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
現在ヒットメーカーとなった川原礫氏が『五輪書』の影響を受けなかったとは考えられません。
後発の私たちとしてもぜひ『五輪書』を読み込むべきでしょう。
経験がないと
十代で芥川龍之介賞(芥川賞)を獲得した綿矢りさ氏『蹴りたい背中』という代表例があります。
彼女の存在から「社会経験が足りない私にも小説賞や新人賞が獲れるのではないか」と妙な自信を持つ人が存外多いのです。
ですが綿矢りさ氏は次作を書きあげて発表するまでに六年かかっています。
つまり「経験」が足りなくて、小説にすべきネタつまり「知識」がなかったのです。
現在は出版不況ですから、次作に六年もかける書き手を守り続けるような出版社はまずないでしょう。
『火花』で芥川賞を獲得したお笑い芸人ピースの又吉直樹氏は次作『劇場』を書きあげて発表するまでに二年かかっています。
『火花』で二百八十万部売り上げた作家でもありますから、出版社も大目に見てくれたのでしょうか。
だから「二年」が現在の文学小説におけるリミットだと思ってください。
商業的に発売すれば大ヒットが確約されている村上春樹氏や、多くのシリーズを連載している田中芳樹氏であれば、いつ書きあげてくれるのか出版社は待ち続けるでしょう。
でも賞を獲得し初めて「紙の書籍化」されただけの駆け出しがすぐに次作を書けないようでは、契約などすぐに打ち切られてしまいます。
ライトノベルであればターゲット層が中高生であるため、二年ではあまりにも遅すぎるのです。
年に三、四冊書いてターゲット層が学生・生徒のうちに連載が終了するくらいのハイペースで執筆することが求められています。
皆様に多作を推奨しているのも、詰まるところ「商業の書き手」に求められる最低限必須の能力だからです。
最後に
今回は「経験したこと以上は書けない」ことについて述べてみました。
自身が「経験」したことでなければ、書いても小説に深みや厚みは出てきません。
それでも「未経験」のことを書かなければならなくなったら。
書籍や動画などから「知識」を得ましょう。
「経験」には及びませんが、「知識」にもそれなりの説得力があります。
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