意欲篇〜さぁ書いてみよう

235.意欲篇:才能なんてものは存在しない

 今回から「意欲篇」に入ります。

「小説を書こう」と思い立ってPCの前に迎えども「書き出し」がうまく書けない。

 どんなに頑張ってもいい文章にならない。

 だから「私には小説を書く才能がないんだ」と思う人が多いと思います。

 ですが、そもそも「才能」なんていうものは存在するのでしょうか。





才能なんてものは存在しない


 よく「自分には小説を書く才能がないのでは」と思い悩む人がいます。

「小説を書きたい」と思っていながら、いざ『Word』『一太郎』『Pages』「テキストエディタ」に文章を書き始めると「これじゃ納得いかないなぁ」と感じて放り出してしまうのです。

 では「小説を書く才能」とはどんなものなのでしょうか。




才能とは結果でしかない

「小説を書く才能」がある人は、ない人と比べてなにが異なっているのでしょうか。

 読みやすい、語彙が豊富、比喩が巧み、意外性のあるストーリーなどいろいろ挙げられると思います。

 では「小説を書く才能」がない人が書いた小説は「読みにくい」「語彙が貧弱」「比喩が拙い」「予定調和なストーリー」なのでしょうか。

 そもそも「読みにくい」と「語彙が貧弱」とは相反する要素です。

 読みやすい文章を書こうとすれば「どんな人でもわかる言葉」で書かなければなりません。

 つまり「読みやすい」文章は「皆がわかる適切な語彙さえ使えればいい」のです。


 たとえば「懊悩する」と書いてあったとします。

 小説を書く方、小説を読み慣れている方、学校の国語の成績がよかった方は読み方と意味はわかるはずです。

 しかしあまり小説を読み慣れていない方が「懊悩おうのうする」という文字を見てもどう読めばいいのかどんな状態なのかわからない。

「悩む」の字が使われているから悩むことなのだろうけど、どんな悩み方をしているのかがわかりません。

 つまり「伝わらない」小説になってしまいます。


 比喩も同様で、誰が読んでもわかるたとえ方をしているのかどうか。

 小説を読み慣れている方でなければわからない比喩を使っていませんか。内輪ウケで比喩を書いていませんか。

 そうなると読み慣れていない方にはなんのことかわからないのです。

 これも「伝わらない」小説になります。


 意外性のあるストーリーは基本的に「ここまで読んできた流れをぶち壊して別の収束点に向かう」ものです。

 それまでのすべてをうっちゃってしまいます。

 それによって「意外性」を演出できますが、読み慣れていない方が読むと「なにが起こったのかさっぱりわからない」はずです。

 やはり「伝わらない」小説になります。


 このように、皆様が抱いている「小説を書く才能」とはマイナス面が多分に含まれているのです。

 それなのに皆が「小説を書く才能」があると見なします。

 それはなぜでしょうか。

 実際に読んでみたらそういう要素があったという「結果」に過ぎないのです。




結果を見てから才能を測ればいい

 つまり小説をひとつも書きあげていない方がいくら「小説を書こう」としても「小説を書く才能」を測るすべなんてありません。

 どんなに拙くてもいいので、とにかく書ききって小説投稿サイトへ投稿してみてください。

 それでどんな反応が返ってくるのか。

 その「結果」でしか「小説を書く才能」は判断できないのです。


 小説投稿サイトへは「連載」の形で投稿してください。

 一本丸々書きあげてからすべてをひとつの「短編」として投稿すると、よほど暇な時間のある人でない限り読んでくれません。

 読む人が少なければ評価される回数も少なくなります。

 小説投稿サイトに投稿しました。評価が付きました。コメントももらいました。

 ここからが才能を見る機会です。上記したように「結果」でしか「小説を書く才能」は測れません。


 仮に評価が低く、辛辣なコメントが付いたとします。

「ああ、自分には小説を書く才能がなかったのか」。そう思ってしまうでしょう。

 でもちょっと待ってください。

 それはあくまでも「今の力量では低評価をもらう」だけだとわかったに過ぎないのです。

「小説を書く才能」とは関係ありません。


 小説投稿サイトの中でも『小説家になろう』の評価は「文章評価」と「ストーリー評価」に分かれています。

 どちらの評価が高くて低いですか。


「文章評価」が低いと「ストーリー評価」も低くなる傾向があります。

 ですが「文章評価」が低いけど「ストーリー評価」は高かった、ということもあるのです。

 このときは「小説を描写する腕前を上げる」ことさえすれば「文章評価」は高められます。


「文章評価」は高いけど「ストーリー評価」が低かった。

 これは小説をたくさん読むことでたいていなんとかなります。

 とくに『小説家になろう』では一種のフォーマット、テンプレートが存在するのです。

 それに則っていなければ「ストーリー評価」は低くなります。

「ストーリー評価」を高めたければ『小説家になろう』で投稿したものと同ジャンルのランキング上位作品を読んでみましょう。

 そこには明確にフォーマット、テンプレートが示されています。

 それさえ踏まえれば「ストーリー評価」は高まっていきます。

 ですが「ストーリー評価」はフォーマット、テンプレートの評価のようなものです。

「自分の書きたい物語を書きたいように書く」と決めている方は「ストーリー評価」は無視してもかまいません。

 というより無視しましょう。




小説を書く才能なんて存在しない

「小説を書く才能なんてものは存在しない」と書けば多くの方が疑問符をつけると思います。

 しかし実際に「小説を書く才能」なんてものはありません。

 そもそも「才能」というものも存在しないのです。

 もし「才能」というものがあるのだとすれば、それは「努力を続ける精神性」つまり「向上心」だけです。


 MLBで活躍するイチロー選手は「才能がある」から活躍できるのでしょうか。

 違います。彼は人一倍努力しています。

 日々のトレーニングとケアに時間を惜しまず、生活面でも節制を貫き、朝食は必ずカレーライスを食べてルーチンを崩さない。

 そんな地道な「努力を続ける向上心」がイチロー選手を支えています。

(そんなイチロー選手も2019年に引退しました)。


「小説を書く才能」についても同様です。

「小説を読み手にわかりやすく書けるように努力を続ける向上心」こそが「小説を書く才能」なのです。

「才能」なんてものは存在しません。

「才能」があるから処女作で芥川龍之介賞を獲れるというものではないのです。

 たとえばお笑いコンビ・ピースの又吉直樹氏は初の中編小説『火花』で芥川龍之介賞を授かりました。

 彼は「小説を書く才能」があったのでしょうか。多くの方は「才能があった」と思いますよね。

 しかし彼は『火花』以前に短編小説をいくつか書いており、それよりもまず小説をたくさん読んでいるのです。

 たくさん読む努力をしていた、短編小説をいくつか書く努力をしていたからこそ、『火花』は高評価を得ました。

「才能」とは「努力」「向上心」の「結果」にすぎないのです。

「小説を書く才能」がないと言って卑下するのは「努力」をしないこと「向上心」を持たないことの言い訳にすぎません。


 たとえば将棋の羽生善治永世六冠(現在永世七冠に王手をかけています。注:2017年12月5日に竜王位を獲得し永世七冠となりました)や最多連勝記録を更新した藤井聡太四段は「才能」の持ち主なのでしょうか。

 もし彼らのそこに至るまでの「努力」を単に「才能」として片付けられてしまったら。彼らの「努力」を我々が否定しているようなものなのです。

「結果」が出たから「才能」と言われます。

「才能」と言われるためには相応の「努力」とさらに磨きをかける「向上心」が必要です。


 あなたは「小説を書く」ことにどれだけ「努力」を払っているのでしょうか。

 気まぐれで小説を書いて、小説投稿サイトへ投稿し、反応が悪かった。だから自分には「小説を書く才能」はない、と決めつける。

 羽生永世六冠や藤井聡太四段のような「努力」をしないんですか?

「努力」をするつもりがなければ小説など書かないことです。

「なんとしてでも小説で高評価を得たい」とお思いならまず「努力」しましょう。




適性は楽しめるかどうか

「才能」なんてものは誰にもありません。「結果」だけでふるい分けられたにすぎないのです。

 ですが「適性」というものはあります。

「文章を書く」という「適性」がない人は、いくら「努力」してもなかなか効果を現しません。

 逆に「文章を書く」という「適性」があれば「努力」を続ける限り「小説を書く才能」というものはみるみるうちに高まっていきます。

 では「適性」とはどういうものでしょうか。

 それは「努力する過程を楽しめる」ということです。

「努力するのが楽しい」から夢中になれ、どんなに不得手なことも果敢に「努力」をし続けられます。

「努力するのが楽しい」から「努力」する。「向上心」を持って「努力」し続ける。

 そうしていればそのうち確実に「結果」が現れてきます。だから「小説を書く才能」があると皆から思われるようになるのです。

 たとえば「英語」は得意だけど「国語」は不得意、「数学」は得意だけど「歴史」は不得意。そんな方は実際に存在します。

 彼らは「英語」と「数学」の「適性」はありますが、「国語」や「歴史」の「適性」がないのです。

「才能」というものはありませんが「適性」というものはあります。




小説を書くことは楽しいですか

「小説を書く」ことが「楽しい」と思っている方は「努力」を厭わない「適性」があります。

 だからこそさまざまな手段で「小説を書く」ための「努力」を続けられるのです。

 傍から見れば「好きなことだけやってるよ」と見られます。でも「楽しい」から「好きになれる」のです。

「つまらない」ことを続けていられるほど人間の忍耐力は強くありません。

「楽しい」から「小説を書く」。それだけのことです。

 私は文章を書くことと絵を描くことと音楽を作ることが楽しいです。

 だから本コラムから「小説を書く」知識を得ていますし、現在は病気の都合でペンタブレットが持てないので絵は描けませんがそれでも描きたいと思っています。音楽は順位的には三番目なので、「文章を書く」と「絵を描く」ことの合間に出来た時間で曲作りをしています。まあ三番目だけあってくだらない曲しか作れませんけどね。それは曲作りの「努力」をしていないからです。

 昨日まで、いやさっきまでできなかったことが、今この瞬間にできたとき。とても「嬉しく」なります。

 私が本コラムを書いているとき、どうしてもネタに困ることがあります。

 そしてかなり長時間悩み続けるのです。でもふとした瞬間にネタが湧いてくることもあります。そのときとても「嬉しく」なります。

「ああ、これをネタにして文章が書ける」と思えるのです。「楽しい」ことにつながるから「嬉しく」なります。

 だからなにごとも「楽しい」と思わなければなりません。嫌々やっているようなことは苦痛でしかありません。

「楽しい」と思うから続けられるのです。

 皆様は「小説を書く」ことに「楽しい」と思えるだけの好奇心を持っておられるでしょうか。

 今一度皆様に問います。

「小説を書くことは楽しいですか?」





最後に

 今回は「才能なんてものは存在しない」というテーマで述べてみました。

 ひとつの小説を書きあげて小説投稿サイトに投稿する。

 だけどたった一度の挫折で「自分には才能がなかった」といって「小説を書く」ことを諦めてしまう。

 それは「小説を書く」ことが「楽しく」なかったということです。

「小説を書く」ことが「楽しい」のなら、どんなにひどい言われ方をされようとも「小説を書く」ことをやめません。

 やめられないのです。それが「楽しい」のですから。

 だからどんなにひどい言われ方をされて挫折したとしても、それをバネにして「努力」を重ね、いつか見返してやればいいのです。



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