222.描写篇:三人称視点と一人称視点

 今回から実践的な描写の仕方について見ていきたいと思います。

 まずは「三人称視点と一人称視点」からです。





三人称視点と一人称視点


 小説はまず主人公の描写から始めなければなりません。

 マンガやアニメ、ドラマや映画、ゲームなどでは一コマ目をロングショットにして、そこから主人公まで段階的に近づいていく手法が多く用いられています。

 でも小説は「一次元の芸術」です。

「二次元の芸術」「二.五次元の芸術」のマネをしても冒頭が冗長に過ぎてしまうきらいがあります。

 小説は読み手が感情移入する主人公を速やかに提示できなければ、興に乗って読み進める魅力が乏しくなるのです。




三人称視点

 ライトノベルは基本的に一人称視点つまり主人公にセンサーを付けて物語を追体験していくものです。

 しかし初心者が最初からいきなり一人称視点で書くのはかなりハードルが高くなります。ですが、最初に投稿すべきは一人称視点の小説です。

 そこでまずは三人称視点を押さえておきましょう。

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 メロスは激怒した。〜(後略)〜

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 これは著名な太宰治氏による『走れメロス』の冒頭です。主人公のことを名前で呼んでいます。

 自分のことを名前で呼ぶ人も現実にいることはいるのです。でも一人称視点の小説でそれをやるとたいてい読み手が混乱します。

 ですから主人公のことを名前や彼・彼女などと呼ぶと、その小説少なくともそのシーンにおいては三人称視点で書きますよ、という明示になるのです。

 そして「激怒した。」という述部になっています。

 基本的に三人称視点で人の感情を断定して書くのはご法度です。

 でも『走れメロス』では断定しています。

 このように他人の感情を断定して書く三人称視点のことを別名「神の視点」と呼ぶのです。

 誰の心の中もお見通し。だから「神」から視た物語ということになるのです。

 現在の小説界隈ではこの「神の視点」に否定的な流れが生まれています。

 誰の心の中もお見通しなのでは心理的な駆け引きを読ませられないため、読み手がハラハラ・ドキドキせず「興を削ぐ」からです。


 三人称視点は他に二つのパターンがあります。

 ひとつは「ひとりの人物にセンサーを付けて物語世界や主人公など人物を見ていく」ものです。

 一般的に「三人称視点」といえばこちらを指します。

 その場に人物が三人以上いてかつ視点を持つ人が話に絡まないのであれば「三人称視点」です。

 もし視点を持つ人物が話に絡んでしまうと「視点を持つ人物から視た小説世界」ということになって語り手の「一人称視点」に変わってしまいます。

 これでは「三人称視点」にする必然性がありませんよね。


 私は中国古典が好きでよく読んでいます。

 その中で春秋時代・戦国時代の各国の歴史を扱ったのが『春秋』『戦国策』という書籍です。下って前漢・武帝時代の司馬遷による『史記』があります。

 これらは基本的に書き手が文中に出てきません。

 とくに『春秋』『戦国策』には書き手(史官という役職を務める人)は一例を除いて出てこないのです。(斉の桓公が自分の行ないを知って自らを律しようとして史官に書付を見せてくれと迫る場面シーンだけです)。

 これが「三人称視点」の根本になります。

 長年文学において「三人称視点」が主流だったのは、邪馬台国や飛鳥時代の頃から入ってきた中国古典の影響があったからでしょう。

 中国古典である『孫子』も『論語』も史官が綴る「三人称視点」で書かれています。


 もうひとつは「どの人物にもセンサーを付けず、語り手から視た小説世界や主人公を見せていく」ものです。

「語り手視点」と呼ぶこともできます。

 その場に誰もいなくても小説世界を語れ、たとえ主人公一人しかその場にいなくても主人公のことを外から観察できるのが特徴です。

 そうなると語り手視点と神の視点の違いを気にされる方が出てくるでしょう。

 パッと見では同じように見えますが、この二つには明確な違いがあります。

 誰の心の中もお見通しなのが「神の視点」であり、誰の心の中も覗けない語れないのが「語り手視点」です。

 イラストやマンガやアニメ、ドラマや映画、ゲームなどにおけるカメラの役割を担うもの。それが語り手視点なのです。

「三人称視点」と「語り手視点」の違いは特定の人物から見て語るのか、人物がいなくても見られて語れるのかになります。


 では三人称視点のおさらいです。

『三人称視点』登場人物の誰かに視点。ただし誰の心の中も書けない。

『語り手視点』誰もいなくてもカメラやセンサーが視点。誰の心の中も書けない。

『神の視点』大局的に上から眺めていて、誰の心の中も覗き放題。




一人称視点

 三人称視点の三種の違いはおわかりいただけたと思います。

 では一人称視点を見ていきます。

――――――――

 吾輩は猫である。〜(後略)〜

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 言わずと知れた夏目漱石氏による『吾輩は猫である』の冒頭になります。最初に出てきた人物の呼び方が「吾輩」です。

 一人称の代名詞を用いていれば即「一人称視点」と解釈できます。

 ここでは「吾輩」ですが現在なら「俺」「僕」「私」「あたし」「自分」などが一人称代名詞ですよね。

 三人称視点で述べたように自分のことを名前で呼ぶ人は少なからずいます。

 ですが小説でそれをやると視点がブレたように感じられるのです。

 ですからできるかぎり小説内で視点を持つ人物が自分のことを名前で呼ぶことはやめましょう。もちろん意図があってやるぶんにはかまいません。

 一人称視点においては視点を持つ主人公の「心の声」「感情」「五感など」を直接書くことができます。

 しかし主人公以外の「心の声」「感情」「五感など」は主人公からの見た目でしか書けません。

 もし主人公以外の「感情」を書いてしまえば「主人公は超能力者」ということになってしまうのです。

 以下は主人公が「超能力者」でないことを前提として書いていきます。


 皆様は自分の他に誰もいないときに声を出して話をすることはまずありませんよね。

 『吾輩は猫である』でもこの後は心の声が続いていて声を立てて誰かに伝えているわけではないのです。

 このように主人公の「心の声」を直接書ける点で「一人称視点」は優れています。

 また主人公の「感情」「五感など」を直接書けるのも利点です。

 この「心の声」「感情」「五感など」を読ませることで、読み手を主人公へ感情移入させるよう誘っていきます。

 「三人称視点」は「神の視点」以外では心の中を書けないので主人公に感情移入しづらいのです。

 さらに「神の視点」ではすべての人物の心の中を覗けるため全員が思っていること考えていることが読み手にバレてしまいます。それでは読み手はハラハラ・ドキドキしません。

 でも「一人称視点」は主人公の心の中「だけ」を知ることができるので主人公に感情移入しやすいのです。

 ですから現在の小説はほとんどが「一人称視点」で書かれています。


 群像劇では「シーン」ごとに視点となる人物つまりシーンごとの主人公を切り替えて都合のよい人物の心の中だけを読ませることもできるのです。

 もし同一シーンで何人もの心の中が読めるのであれば、それは「一人称視点」のフリをした「神の視点」ということになります。そうならないためにも、最低限一つのシーンでは視点を固定しましょう。

 群像劇での心の中の読ませ方は田中芳樹氏の各作品が秀逸で勉強になります。

『銀河英雄伝説』『アルスラーン戦記』『タイタニア』『創竜伝』といった作品で有名ですが『三国志』関連の短編を書くなどまさに群像劇の手本ともいうべき書き手です。

 単巻発売されていて電子書籍版もある氏の『西風の戦記』という小説は単巻ということもあってとても読みやすいのでオススメします。





最後に

 今回は「三人称視点と一人称視点」について述べてみました。

 描写をしていくとき最も考えておかなければいけないのが「視点」です。これはコラムNo.1でも触れています。

 次回から人物描写をしていきますので、視点の復習のためにも今回をあえて設けたのです。

 書き漏らしていたこともあったので復習できて、よい勉強になりました。



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