186.再考篇:文章は完璧でなくてもよい
今回は「文法よりも展開が重要」というお話です。
文章は完璧でなくてもよい
小説を読むときに気になるのが「日本語の文法に適っていない文章」です。
打ち消しの語を伴って用いる副詞なのに打ち消しの語が書かれていないというのはかなりの頻度で見かけます。
また「私の彼氏の職場の仲間の妹の困った話を聞いた。」という文は一読しただけでは「どんな人の困った話」なのかわからないはずです。
読み手が「日本語の文法」を気にするのであれば、文法を完璧に習得するまで小説を書いてはいけないような気持ちになってしまいます。
でも安心してください。
「小説の面白さ」は「日本語の文法」が決めるのではありません。だからといって「英語の文法」が決めるわけでもないですよね。日本人が書いた小説は基本的に日本語で書かれているのですから。
では何が「小説の面白さ」を担保してくれるのでしょうか。今回はそのお話をしていきます。
読み手は文法に目くじらを立てない
まず書き手の方に知っておいてもらいたいことがあります。
「多くの読み手は文法に目くじらを立てない」ということです。
ちょっとくらい文法が間違っていても、読み手は大目に見てくれます。
たとえば『ロードス島戦記』や『魔法戦士リウイ』でおなじみの水野良氏。彼は登場人物がカチンと頭に来てムスッとする場面でよく「憮然とした」という言葉を用います。しかし「憮然」とは「失望・落胆してどうすることもできないでいるさま。また、意外なことに驚きあきれているさま」(『大辞泉』より)のことです。気を悪くした意は含まれていません。日本語としては用法を間違えていますよね。
ちなみにこういう場合は「むくれた」と書くべきです。
それでも水野良氏の書く小説は長い間親しまれてきました。それは「多くの読み手は文法に目くじらを立てない」からです。
もし文法のわずかなミスさえも小説には許されないのだとしたら、水野良氏は小説の表舞台から消えていてもおかしくありません。でも現在『グランクレスト戦記』を連載し、しかもアニメ化の話まで持ち上がっているほど人気のある書き手です。
(『グランクレスト戦記』の連載とアニメの放送はすでに終了しました)。
「多くの読み手は文法に目くじらを立てない」のは事実だと思います。
しかし書き手がそれに驕って、正しい用法を無視した文章を書き続けたとしたらどうでしょう。
ちょっとくらいのミスは大目に見てくれるのが小説の読み手ですが、頻繁にミスをしでかす小説なんて落ち着いて読んでいられません。
文章を読んでも何が言いたいのかさっぱりわからない。そんな小説を喜々として読む人なんてまずいないでしょう。
喜々として読んでくれる人はよほど事情がある人または熱心な信者くらいです。
何が言いたいのかさっぱりわからないと
「文章を読んでも何が言いたいのかさっぱりわからない」小説というのは、明治後期から昭和中期までの書き手の作品に似ています。
たとえば夏目漱石氏や芥川龍之介氏、太宰治氏や三島由紀夫氏の小説なんてどうでしょう。それぞれが「言文一致体」で書かれているにもかかわらず現在原著を注釈無しでそのまま読める人はほとんどいないと思います。書かれている文体が現在の日本語とはまるで異なるからです。
だから現在彼らの小説を読もうとする人はめっきり減りました。読むのは日本語文法の研究者や小説愛好家くらいなものです。
『火花』で芥川龍之介賞を受賞したお笑い芸人ピースの又吉直樹氏は太宰治氏のファンとしても有名になりました。
でも皆様がそれにならって太宰治氏の作品を読もうとすると壁に直面します。「なにを言っているのかわからない」という高くて分厚い大きな壁です。
もちろん現代語訳してある作品もありますから、そちらを読むという手もあります。ですが太宰治氏の書きたかった意図や息遣いが直接反映されているのは原著だけです。現代語訳したものはどこか本来の意味合いや息遣いからズレています。それを我慢してでも注釈付きの原著を読もうとすれば、書き手本来の意図や息遣いが頭の中で確固としてくるのです。
だからこそ、小説の書き方を彼らから学びたければ現代語訳ではなく注釈付きの原著を読むべきでしょう。
読み手は物語の展開に敏感
少しの文法のミスには寛容でも「多くの読み手は物語の展開に敏感」です。
小説を読んでいて、どうにもストーリーの展開に無理がある。そう感じられるとその時点で読み手に見限られてしまいます。悲しい現実です。
小説投稿サイトにおいて、初めのうちこそ閲覧者が多い小説があります。しかし連載を続けていくに連れて閲覧数が減っていき、評価もブックマークも減っていくのです。
初めのうちは皆が喜んで読んでくれたのに、連載を続けるたびになぜかどんどん読み手が離れていきます。
結果壮大な物語のような「書き出し」をしていながら短い連載で終止符が打たれる作品が出てくるのです。
なぜでしょうか。
最大の原因は「物語の展開が強引すぎる」ことです。
物語は基本的に「前フリ」があってから物事が起こります。
桃太郎は大きな桃から川上からやってくるから生まれますし、住民が鬼に苦しめられているから「鬼退治」に向かうのです。(住人が鬼に苦しめられていない説もあるので、その場合は殴り込みをかけにいったわけですね)。
きちんと「前フリ」されていますよね。
村人がゴブリンに悩まされてもいないのに、主人公がゴブリン退治に赴くことはありえないのです。それでは「主人公がただゴブリン退治をしたかっただけ」の話になってしまいます。
そうではなく「村人がゴブリンの出没に悩まされている」という「前フリ」をしてから主人公がゴブリン退治に赴けば「主人公は村のことを考えてゴブリン退治をした」話になるのです。展開の因果関係がはっきりしますよね。
これは『ロードス島戦記』と『魔法戦士リウイ』で行なわれるゴブリン退治の経緯を見るとよくわかります。
『ロードス島戦記』は「村人がゴブリンの出没に悩まされていたのでゴブリン退治に向かった」のでじゅうぶんな「前フリ」を持つ展開です。
それに対し『魔法戦士リウイ』は遺跡探索の末にゴブリンの大群と遭遇し、魔術師であるリウイが腕力に任せてゴブリンを叩き伏せる展開になっています。
「主人公であるリウイのケンカっ早い性格を読み手に見せつける」エピソードだから物語の展開に無理がないのです。
いずれの場合もきちんと「前フリ」をしてあるから無理のない展開になっています。行き当たりばったりで展開を考えるのではなく、キャラの人となりを見せるために必要な展開を読ませるように心がけてください。
文法よりも内容が大事
「多くの読み手は文法の細かなミス」には寛容です。ですが編集さんや校正さんはひじょうに厳しく文法をチェックしてくれます。それは少しでも完成度の高い小説のほうが売れるとわかっているからです。
対して「多くの読み手は物語の展開に敏感」です。編集さんも校正さんも、物語の展開に口を出してくることはあまりないとお聞きします。展開にまで口を出してしまうと、誰が書いた作品なのかわからなくなるからです。
担当編集さんが熱心にあなたを応援してくれるのであれば「この展開では惹きが弱い」と指摘してくることはありましょう。
それでも「こうしなさい」とは言われないのです。
物語の展開はあくまでも書き手の領分であり、文責も書き手に帰結します。
だからこそ物語の展開は書き手の手腕が最も見極められるポイントとなるのです。
最後に
今回は「文章は完璧でなくてよい」について述べてみました。
文法として完璧でなくてもいい。でも物語の展開が荒いと読み手は先を読もうとはしなくなります。
丹念に描写していても物語そのものが平凡であれば、作品は平凡の域を出ません。
描写が粗くても物語が魅力的なら、読み手がぐっと惹き込まれていきます。
完璧であるべきは文法ではなく、展開なのです。それさえ忘れなければ、あなたの小説に何が足りないのかは自ずと見えてくるでしょう。
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