185.再考篇:小説はありえないことを体験するためにある

 今回は「ありえないことを体験する」ことについて述べました。

 これは数ある表現分野において小説や歌詞などの文章でのみ味わえる機能です。





小説はありえないことを体験するためにある


 小説には不可欠なものがいくつかあります。世界観が固まっていて揺るがない。主人公は読み手が感情移入しやすい人物像。出来事に現実味リアリティーがある。矛盾がないなどです。




現実味ってなんですか

 とくに「現実味リアリティー」は読み手が「そうそう、こういうことってあるよね」と思いながら物語を読み進んでくれるとても重要な要素です。

現実味リアリティー」があるから読み手は主人公に感情移入しやすくなるとも言えます。

 ですが万事「現実味リアリティー」のある物語は読んでいて「面白い」「楽しい」ものでしょうか。

 現実社会で「面白い」「楽しい」と感じた経験のある人はほとんどだと思います。「面白い」「楽しい」と思うような出来事があるから人生を謳歌できるのです。

 であれば小説は「現実味リアリティー」を持たせて読み手が主人公に感情移入し、現実社会で発生する「面白い」「楽しい」出来事を読ませればそれでよいのでしょうか。

 実はそうでもないのです。

 小説を読んで「面白い」「楽しい」と思うのは、現実社会で「面白い」「楽しい」出来事とは限りません。そんな小説は「現実味リアリティー」がありすぎて逆に冷めてしまうのです。

 でも世の中には「面白い」「楽しい」小説が存在します。その差はなんでしょうか。




もし「面白い」「楽しい」がなければ

 もし「面白い」「楽しい」と思うようなことがまったく起きない日が延々と続いたら人間どうなるのでしょうか。おそらく現実に絶望してしまいます。中にはヤケを起こして自殺したり他人を襲ったりする人も出てくるのです。

「むしゃくしゃして」「生きていてもどうにもならないので」というような理由で凶悪犯罪を行なった人のニュースがよく聞かれますよね。

 そういう人たちは日常が「面白い」「楽しい」と感じられなくなったのではないでしょうか。

 もし「面白い」「楽しい」と思える日常を過ごしていたら、それを壊されたくないと思うのが人間です。

「面白い」「楽しい」現状を維持したくなります。あえて凶悪犯罪を行なう理由がありません。

(比喩ですので事件を起こさないでくださいね。ここも「残虐描写あり」にしたポイントです)。

 このように人は「面白い」「楽しい」と感じられなくなるとなにをしでかすかわからない。そんな人たちの心をケアする療法がいくつかあります。

 その中には何かをやらせてみて「面白い」「楽しい」と感じてもらうことから始めるものもあるそうです。

 マンガやアニメ、ドラマや映画、ゲーム、落語や漫才でもいいので、さまざまな体験をさせて「面白い」「楽しい」と思ってもらうのです。

 毎日が「面白い」「楽しい」と思えたらひじょうに充実した日々を過ごせます。




小説はどこまでも突き詰めていける

 マンガやアニメ、ドラマや映画で「面白い」「楽しい」と思ってもらえるのは実はとても簡単です。視覚に訴えて受け手の関心を惹くだけでいい。

 ストーリーが陳腐であっても「感動的な絵面」があれば受け手は感動しますし、寄席では「ジョークで場がどっと湧く」と受け手も「面白い」と感じます。

 コントなんてただ眺めているだけでも笑えてきますよね。とくにハナ肇とクレイジーキャッツ、ザ・ドリフターズ、コント55号。最近はウッチャンナンチャンの内村光良氏のコントは見た目からしてすでに笑える要素が満載です。

 では小説はどうでしょうか。小説は視覚に直接訴えかけることができません。読み手は文字を見て単語を知り、一文を見て文意がわかる。文章を読んで初めて物語がわかる。そういう表現媒体です。

 だからマンガやアニメのように簡単に「面白さ」「楽しさ」を与えることはできません。


 逆に考えてみましょう。小説は視覚に囚われない表現媒体です。

 どんなに「面白い」のか「楽しい」のか、どんなに「怖い」のか「ミステリアス」なのか。その程度に底はありません。

 見た目でほとんどの情報が確定されてしまう表現媒体ではないからです。だからどこまでも突き詰めていくことができます。

 コントよりも「面白く」、ゲームよりも「楽しく」、お化け屋敷よりも「怖く」、ドラマよりも「ミステリアス」に。

 文章の書き方ひとつで、どの表現媒体すら凌駕する可能性があるのは小説など文章以外にないのです。




小説はありえないことも書ける

 小説は直接視覚で光景が見られるわけではありません。文章を通して脳内にイメージが膨らむのです。それは最大の長所になりえます。

 もちろんライトノベルでは表紙や冒頭にカラーイラストで登場人物が描かれますし、口絵も数枚挟まっています。

 それでもやはり絵になって示されているのはほんの一部にすぎないのです。

 直接視覚で光景が見られない。ということは読み手が文章から脳内で像を作り上げていくことになります。実際には見えないものも見えるものになるのです。

 たとえば現実には風を見ることができません。そこでテレビでは何か物が飛ばされている動画を撮影することで「そこに風がある」ことを受け手に認識させるのです。

 でも小説なら物が飛ばされていなくても「あたかも風に姿があるように」書くことができます。

「前方から風がやってくると私の耳をかるくくすぐりながら後ろへと通り過ぎていった。」と書けば「あたかも風に姿があるように」見えますし、なにやら風に意志があるようにも感じられるでしょう。

 でも現実では風に姿はありませんし意志もありません。ないものがあるように見える表現媒体は小説などの文章以外にないのです。

 幽霊やお化けや怪物は現実にはいませんよね。でも最近ではCGや特殊メイクが発達して、幽霊やお化けや怪物を視覚的に出すことができます。でもそれ以前は小説以外でこれらを伝える手段がなかったのです。

 そして科学的に不可能なこと、ありえないことも小説などの文章ならいくらでも書けます。

 瞬間移動だって「私は部屋にいたが、次の瞬間駅のホームに立っていた。」と書くだけです。

 通常は視点を持つ者から見てとれる他人の心が表に出ている部分だけしか書けません。

 しかし文章なら他人の心も読み放題。「神の視点」で書かれている小説なら読み手はすべての人物の心が読めます。

 それと同様に登場人物も「神の視点」で書かれた他人の心が読めるという設定にすることだってできるのです。

 それどころか「神の視点」で書かれていない心も読めるのです。「あいつ、あんな顔をして言いながらこんなことを考えているのかよ」というようなことが書けてしまいます。




小説はありえないことを体験するためにある

 小説などの文章の可能性は表現の仕方一つで無限に広がります。

 そして読み手は文章を読むだけでありとあらゆることが体験できるのです。

 瞬間移動やタイムトラベルやテレパシーだって使えます。何十光年先のこともわかるのです。

 マンガやアニメ、ドラマや映画などでも超能力ものはいくらでもあるじゃないか。そう思いますよね。

 でも「自分が超能力を使っている」ような体験ができるのは小説だけなのです。

 J.K.ローリング氏『ハリー・ポッター』シリーズでハリーが魔法を使う場面では読み手自身も魔法を使ったかのように感じられたはずですよね。

 でも映画を観て自分自身が魔法を使ったかのようには感じられなかったと思います。

 マンガやアニメで瞬間移動するシーンがあっても「自分が瞬間移動した」わけではありません。あくまでも登場人物が瞬間移動したにすぎないのです。この差が殊のほか大きい。


「読み手がありえないことを体験できる」のが小説という表現媒体になります。他はすべて「他人がしているのを受け手は見ているだけ」です。

 マンガの藤子・F・不二雄氏『ドラえもん』で「どこでもドア」を使って瞬間移動しているのはのび太やドラえもんなど登場人物です。読み手ではありません。

 しかし、

――――――――

「南極に行きたい」と僕がいうとドラえもんは「どこでもドア」というものを出してくれた。それに向かって行きたい場所を告げた後にドアを開ければそこへ行ける道具だという。

 試しに「南極へ行きたい」と言ってドアを開けると、部屋に突如寒風が吹きすさんだ。

 ドアの先には雪と氷の世界が広がっている。恐る恐るドアをくぐり抜けてみると、寒い! 冷たい! 僕は確かに南極に来てしまったようだ。

――――――――

 とのび太の一人称視点で書いてみましたが、読み手自身が南極に行った気分になったのではないでしょうか。


 これが数ある表現媒体のうち小説などの文章だけが持つ「疑似体験」機能になります。

 科学的にありえないことだって体験できるのが小説なのです。

 この「疑似体験」機能は一人称視点のときに効果を発揮します。

 三人称視点は登場人物の体験を傍から見ているという点で、マンガやアニメなどを見ているのと何ら変わりありません。

「疑似体験」機能を最大限に活かすには一人称視点を採用すべきです。

 三人称視点で書かれている小説であっても「疑似体験」機能を働かせるために「そこだけを一人称視点で書く」というのもひとつの手段になります。





最後に

 今回は「小説はありえないことを体験するためにある」という点について述べてみました。

「疑似体験」ができるのは小説だけです。

 最近はITの世界でVRヴァーチャル・リアリティの活用が広がっていますが、根本的に小説の「疑似体験」機能を超えることはできません。

 主人公を通してあらゆる出来事を「疑似体験」していく過程が「小説を読む醍醐味」です。

 あなたの小説は読み手を「疑似体験」に引きずり込めているでしょうか。

「疑似体験」を意識して書いた小説は臨場感あふれる作品になります。読み手はそこにこそ迫力を感じるのです。



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