163.連載篇:プロローグは要るのか
今回はずばり「プロローグ」です。
必要性はあるのでしょうか。
プロローグは要るのか
小説の中には「プロローグ(序章・導入部)」を設けているものがいくつかあります。
無いもののほうが多いのですが、書き手が尊敬する名筆家が「プロローグ」を書いているから自分の作品にも「プロローグ」を入れたい。
そういう理由で書いた「プロローグ」はさほど必要がないものです。
プロローグとは
「プロローグ」は本編の始めである「書き出し」つまり第一章第一節の前に書いておく文章です。
「書き出し」があるのに、なぜ「プロローグ」が必要なのでしょうか。
たいていの「プロローグ」は最初に読んでおくと作品の舞台や設定がわかりやすくなるように、そういった説明をまとめて行ないたいから設けます。
つまり本編を書いたのだけれど、うまく舞台や設定の説明ができなかったから「プロローグ」を設けて説明すればいいや。そんな打算の産物であることが多いと思います。
そのような打算の産物は本当に読み手のためになっているのでしょうか。
要らないのかもしれない
たいていの小説はプロローグを読まなくても内容のわかることが多いのも事実です。
田中芳樹氏『銀河英雄伝説』の「プロローグ」は数十ページに及びますが、これを読まなくても物語は理解できます。
知っていれば本編に至る歴史を知ることはできるのです。しかしそんな歴史を知らなくても本編はSFとしてじゅうぶん楽しめる作りになっています。
このように舞台や設定の説明のために「プロローグ」を使ってしまうと「説明文を延々読まされている」と読み手は感じるでしょう。
「いつになったら本編が始まるんだよ」と苛立つこともあるはずです。
『銀河英雄伝説』も「プロローグ」を書かずに本編に都度入れ込んでいくようにしたほうが、読み手はすんなりと舞台や設定を理解したのではないでしょうか。
私が大好きな小説のひとつなので何度も読み返していますが、「プロローグ」は必要だったのかについてはいつも考えさせられます。
プロローグを削ったんだけど
それならいっそ「プロローグ」なんて無くてもいいんじゃないか。そう思いますよね。
こちらも私の大好きな小説のひとつである水野良氏『ロードス島戦記』には「プロローグ」がありません。
なくても成り立つよね。と単純に考えがちなのですが『ロードス島戦記 灰色の魔女』は第一章第一節が丸々「舞台や設定の説明」に当てられています。
確かに「プロローグ」という章はないのだけれど、結局「プロローグ」に負わせていたことを本編冒頭に入れてしまったに過ぎないのです。
これでは「プロローグ」を削った意味がありません。
『ロードス島戦記 灰色の魔女』の主人公はパーンです。彼が出てくるのは第一章第二節の三分の一を過ぎてからです。
もう少しやりようはなかったのでしょうか。
大半のプロローグは自己満足
書き手が「プロローグ」を書いてしまうのは「舞台や設定の説明」を事前に披露しておいたほうが読み手に理解されやすいのでは、という要らないお節介のせいです。
確かに「舞台や設定の説明」を事前に披露しておけば、読み手にそれらを開示することにはなります。
でも読み手は物語を疑似体験するために感情移入できる「主人公」の逸早い登場をこそ望んでいます。
読み手が欲する「主人公」の提示をまったくせずに延々と「舞台や設定の説明」をすることになんの意味があるのでしょうか。
書き手の自己満足以外のなにものでもありません。
プロローグを削るには
「プロローグ」を削るということは「書き出し」ですぐに「主人公」を登場させ、「主人公」が感覚で得た情報を提示することなのです。
そうやって「主人公」の周りにあるものから順に描写していけば「書き出し」の舞台や設定はそれとなく読み手に伝わります。
そして「書き出し」が終わってから書き足りなかった「舞台や設定の説明」を改めて書けばいいのです。
たったそれだけの工夫で「プロローグ」はまったく必要がなくなります。
水野良氏『魔法戦士リウイ』の第一巻第一章第一節は、冒頭で最低限の「舞台や設定の説明」をして三ページ目から主人公のリウイが登場します。
以前「主人公は出だし三ページ以内に出しましょう」といいましたよね。最初の二ページで最低限の「舞台や設定の説明」をしたことで三ページ目から主人公が出てくるようになったのです。
ですが私は三ページ目からでも手ぬるいと思っています。
一ページ目から、可能なら冒頭の一文から主人公を出したほうがいいのです。
そう思っていれば「プロローグ」を書こうとは思わなくなります。
プロローグがなければ
「プロローグ」がなければ「書き出し」と「最終シーン」を呼応させた作り方にする工夫もできます。
呼応すれば物語のムダをなくすことができるのです。すべての文が物語を構成する重要なパズルのピースとなります。
しかし呼応することがかえって逆効果になる例もあるのです。それが私が投稿した『暁の神話』という長編小説です。
この作品は「書き出し」と「最終シーン」を朗らかさで呼応させています。のんびりした雰囲気から始まり、のんびりとした雰囲気で終わるわけです。
そこだけを見れば完璧な小説になるはずですが、大事なことが頭から抜けていました。この作品は戦争の戦術を見せる「異世界ファンタジー」小説なのです。
しかし最初と最後を朗らかさで呼応させてしまいました。これは決定的なミスです。
でも「あらすじ」と「プロット」、そして執筆して推敲してもミスにまったく気づきませんでした。
ですがコラムを執筆して前回の「書き出しと最終シーン」と今回「プロローグは要るのか」について書き及んだときに「決定的なミス」であることに気づきました。
ではこの「決定的なミス」を解消するにはどうすればよいのでしょうか。
プロローグの意義
実はこの「決定的なミス」を解消する最善策こそが「プロローグ」なのです。
本編の「書き出し」と「最終シーン」を呼応させたとしても、物語の主軸が別にあるのなら、それをどこかで強調させる必要があります。
「プロローグ」はこんなときに威力を発揮するのです。
私の「決定的なミス」を解消するには「プロローグ」で「戦争の戦術を見せる」こと。
これができていれば『暁の神話』は「戦争の戦術を見せる」小説になりえました。
「プロローグ」がなければ「ただ朗らかで時折り戦争が入るだけ」の小説なのです。
つまり「プロローグ」は書き手が「物語で何を見せたいのか」を読み手へ伝えるために書きます。
その観点から『銀河英雄伝説』の「プロローグ」を読み返してみましょう。
すると「本編は銀河の歴史の一ページに過ぎない」ということを強調するための巧みな演出であったのだと見ることができます。
賀東招二氏『フルメタル・パニック!』は「プロローグ」で主人公の相良宗介とヒロインの千鳥かなめを出しています。「本編」の第一章第一節から宗介は出てきますが、名が明らかにされるのは登場してからかなりの枚数を経た後になります。
このように「本編」で主人公と「対になる存在」とがなかなか出てこないような展開の場合「プロローグ」の果たす役割は大きくなるのです。
最後に
今回は「プロローグは要るのか」ということを述べてみました。
「プロローグ」が必要のない作品を書くことが第一です。
でも「書き出し」と「最終シーン」を呼応させたときに作品の雰囲気が書き手の書きたかったものと乖離した場合は、「プロローグ」で方向づけをしてやります。
また「本編」で主人公と「対になる存在」が出てくるのが遅くなる場合にも「プロローグ」は大いに役立ちます。
それ以外のただ「舞台と設定の説明」のための「プロローグ」は必要ありません。バッサリと切ってしまいましょう。
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