94.実践篇:比喩を使いこなす

 今回は描写に欠かせない「比喩」を取り上げました。





比喩を使いこなす


 文章がある程度書けるようになってくるとあれこれやりたくなります。

 その中でとくに一人称視点での「描写」を巧みにしたくなるものです。

 「描写」文とは「ある立場から出来事で感じたことを述べている文」になります。

 一人称視点であれば「主人公が見たり聞いたり感じたりしたことを述べた文」なのです。

 説明文と描写文の違いはコラムNo.89でお話しているので省きます。


 では「主人公が見たり聞いたり感じたりしたことを述べる」とはなんでしょうか。

 主人公はある物事を「どう感じたか」ということであり、それがある物事を「なにかになぞらえた」らどうなるかということです。

 「なにかになぞらえた」。そう比喩を使うのです。





直喩(明喩)

 比喩の中で最もわかりやすいのが「直喩」でしょう。

 「直喩」はあるものと別のもの、ある動作と別の動作、ある状態と別の状態との共通点を利用して字句を修飾する比喩のひとつです。

 「雅美はまるで太陽のような女性だ」という名詞にたとえたり、「浩二はまるでハチに刺されたような腫れたまぶたをしていた」「彼の顔色はまるで血の気が失せたように青ざめた」という動詞にたとえたりします。

 文語体では「まるで〜」「あたかも〜」「さながら〜」で始まり、「〜のようだ」「〜のごとし」「〜そうだ」「〜そっくりだ」「〜も同然だ」で受ける形が一般的です。

 口語体では「きっと〜」「ちょうど〜」で始まり、「〜みたいだ」「〜に似ている」「〜風だ」「〜という感じだ」で受ける形が代表的です。

 始まる形を消して受ける形だけを用いてもじゅうぶん「直喩」となります。「雅美は太陽のような女性だ」でもじゅうぶん通じるのです。

 武田信玄でお馴染み『孫子』の一節である「疾きこと風の如く」も「直喩」になります。これは「まるで風のような速さで」という意味ですね。





隠喩(暗喩)

 比喩の中では「直喩」に次いでよく用いられるのが「隠喩」だと思います。

 「隠喩」とは「直喩」から始める形と受ける形の双方を抜いてしまって字句を修飾する比喩のひとつです。


 「直喩」のたとえを用いれば「雅美は太陽だ」「浩二はハチに刺された」「彼の顔色は血の気が失せた」となります。『孫子』の一節なら「疾き風だ」です。


 「隠喩」は比喩を断定で語ってしまうがゆえに、比喩だと気づかれないことがままあります。

 上記なら「浩二はハチに刺された」は本当に「ハチに刺された」ようにしか読み手に受け取ってもらえない可能性があるのです。


 「隠喩」だと理解してもらうには、その一節が出てくる前にじゅうぶんな準備をしている必要があります。

 「浩二はハチに刺された」なら、その一節までに「浩二が睡眠不足である」または「浩二が泣き続けていた」ような説明・描写が不可欠です。ならばこそ「隠喩」を「隠喩」だと受け取ってもらえます。


 「隠喩」を書いた後に補足していくのは野暮です。

 補足ではなく「立て続けに畳み込む」ほうが「隠喩」として効果的になります。

 「雅美は太陽だ。太陽が凍てついた僕の心を溶かしていく。僕は太陽なしでは生きられないだろう」のように「太陽を連呼」したり「凍てついた僕の心」と別の「隠喩」を差し込んだりしていくのです。





換喩

 昔から「換喩」もよく用いられてきました。

 「換喩」とはある事物を表すのに、それと深い関係のある事物で置き換える比喩です。

 「青い目」で「西洋人」を、「鳥居」で「神社」を、「金バッチ」で国会議員を、「桜の代紋」で警察を表したりします。

 そのものを語るときにその一部を使って呼ぶ、いわゆる「あだ名」「二つ名」ですね。


 子どもの頃に気に食わない人を、その人の特徴を使ってたとえた経験はありませんか。

 お高く留まっている同級生を「お嬢様」と呼ぶ類いです。

 サディスティックな女性を「女王様」、世間知らずな女性を「お姫様」と呼んだ経験は誰にでもあると思います。「デブ」とか「のっぽ」とか「ブス」とか蔑称するのも「換喩」です。

 子どもは創造性が豊かなため大人よりも「換喩」が巧みになる傾向があります。つまり童心を持っていると「換喩」を思いつきやすいということです。

 こちらも「隠喩」と同様、読み手に「換喩」だと気づいてもらえないことがあります。

 「お嬢様」をいいところのご令嬢、「女王様」「お姫様」は実際どこかの国の女王や王女と勘違いされるのです。

 そのため勘違いされて誘拐事件が起きる、というのも「隠喩」の弊害といえるでしょう。





提喩

 「提喩」は全体と部分との関係に基づき、全体である「花」でその一種である「桜」を、その一種である「小町」で全体である「美人」を表現する類いです。

 全体である「太閤」でその一種である「豊太閤(ほうたいこう=豊臣秀吉)」を、全体である「山」で「比叡山」を、全体である「酒」で「日本酒」を表すといった、昔から根づいている比喩になります。


 全体である事物を用いてその一種である事物を指すのが「提喩」の主な使い方です。

 子どもの頃「ミカちゃん、ご飯ですよ」と言われればその一種である「白飯」だけでなく全体の「食事」を食べてきましたよね。

 「部分で全体を表現する」のは「換喩」とほぼ同じなのです。違いは「提喩」は部分が全体の一種であるということになります。「換喩」は全体の一部を使った比喩です。

 「ご飯」といっても必ず「白飯」である必要はなく、「ラーメン」「サンドイッチ」「スパゲッティ」など、食べるものであればなんでも「ご飯」です。

 これが「提喩」と「換喩」の違いになります。





諷喩

 「諷喩」はたとえだけを提示してその本義を間接的に推察させる類いです。

 「朱に交われば赤くなる」と書いて「人は交わる友によって感化される」意を表す比喩になります。

 「諷喩」は本義をまったく書かないので、前後の文脈によって読み手に「そういうことか」と悟らせなければなりません。

 中国古典に類例が多いので、さしあたり日本語で使う機会は少ないと思います。

 あったとしても「風が吹けば桶屋が儲かる」がギリギリ入るかどうかというあたりです。





引喩

 「引喩」は故事成語やことわざなどを引いて述べる類いです。「四十にして惑わず、と『論語』でいう通り〜」「急がば回れというから慎重に行こう」のような形になります。

 これは現代日本だから引けることが多々あります。

 『論語』の一節も、『論語』がまとめられた時代以前では中国人ですら知っている人はいません。

 日本人も邪馬台国や遣隋使などで写本を持ち帰るまでは誰も知らなかったでしょう。


 異世界ファンタジーで『論語』の一節が出てくるのは明らかにおかしいはずです。

 「異世界転生」「異世界転移」ファンタジーなら転生/転移した人物が「『論語』に詳しい」という前提でなら書けます。

 でも当の異世界人が『論語』の一節を引いているのは明らかに間違いです。

 異世界であれば「異世界で知られている故事成語やことわざ」があると思います。それを引くのならじゅうぶんに使える比喩です。

 「ドラゴンの産声」というのが「耳をつんざく轟音」を意味する故事成語だという具合い。

 積極的に使ってみましょう。

 独自の世界観を構築するのに一役買ってくれます。





活喩(擬人)法

 人でないものをあたかも人のように扱って書いていく手法です。

 まず思いつくのは夏目漱石氏『吾輩は猫である』だと思います。

 国内の寓話としては『桃太郎』の犬・雉・猿、『浦島太郎』の亀・鯛・鮃、『さるかに合戦』『うさぎとかめ』『鶴の恩返し』が擬人法です。

 海外の寓話では『三匹の子ぶた』『赤ずきんちゃん』『アリとキリギリス』、成句では「虎の威を借る狐」など。

 洋の東西を問わず「擬人法」は用いられてきました。これらは「動物を人に見立てて会話をさせている」点が共通しています。

 ですが人でも動物でもないものを人のように扱って描写することもよくあるのです。「山が眠っている(=動物が活動していない)」「山が休んでいる(=休火山)」「森が騒いでいる」「風が語りかけてくる」「嵐が吠える」「花が笑う」などはよく使われますよね。





擬物法

 人の特性を物になぞらえて表現する手法です。「石頭」「鉄拳」「鉄血」「生き字引き」「知恵袋」「大黒柱」「一座の看板」「視聴率男」「黒幕」「瞬間湯沸かし器」「捨て駒」「木っ端役人」の類いになります。

 こちらは「活喩(擬人)法」と異なり、すでに名詞になっているものを使うことが多いです。

 「女性は太陽だった」「人は考える葦である」のように人の特性を物になぞらえるわけですから、どうしても類似性を見つけるのが難しい。

 しかも人を物扱いしてしまうのです。

 自尊心が傷つかない人を「擬物法」の対象にしないと必ず揉め事が起きます。

 特定の人物でなく「女性」や「人」といった大まかな区切りだからこそ許される面があるのです。

 そのため積極的に用いられる比喩ではありません。

 相当腕前の上がった書き手だけが使える手法といえます。





声喩(オノマトペ)

 オノマトペつまり擬音語(擬声語)や擬態語も比喩として使えます。

「カンカンと欄干を鳴らして歩く」と書けば「カンカン」は金属同士が当たる音だと思い浮かぶはずです。「ワンワンと吠える声が聞こえる」と書けば「ワンワン」は犬の鳴き声だなと認識します。

 つまり音を利用して対象の物を比喩しているのです。

 擬音語(擬声語)が比喩である証になります。


 擬態語を検証してみましょう。

 「さらさらした手触り」と「ざらざらした手触り」と書き分けたとします。

 「さらさら」のほうは絹のようななめらかで心地よい感覚が、「ざらざら」のほうは紙やすりのような固くて凹凸があり不快な感覚が思い浮かんでくるのではないでしょうか。

 「するする滑り落ちる」と「ずるずる滑り落ちる」なら、「するする」はほとんど抵抗なしに滑り落ちている感覚が、「ずるずる」は抵抗があるのに引きずり降ろされている感覚がしますよね。

 「いそいそ歩く」と「せかせか歩く」はともにある程度スピードを上げて歩いている感覚があるはずです。

 つまり状態や程度などの「感覚」を伝える比喩として擬態語は使われています。

 やはり擬態語も比喩ですね。





使い古された比喩を使わない

 ただしここで挙げた典例はすべて使い古されていて誰にでも思いつけてしまうものです。

 それでは文章を印象的に見せることはできません。


 あまり小説を読まない方が触れるのであれば「そうなんだ」と納得してくれますが、読み慣れている方は「月並みな言い回しだな」と感じて興醒めしてしまいます。

 「直喩」は最も多用されてきた比喩であるがゆえに、独自な発想はそう簡単にはできません。初めのうちは誰かが書いた小説の比喩をそのままパクりたくなるかもしれない。

 ですが、現実でさまざまな場所に出向き、さまざまな人や物に触れ、書き手がどう感じるのか。その積み重ねが比喩のレベルを高めてくれます。

 安易にパクろうとせず、書き手独自の比喩ができるように心にネタを溜めていきましょう。





最後に

 今回は「比喩」について述べてみました。

 「描写」と「説明」の違いは「比喩」を使うか使わないかと言ってもいいです。


 「比喩」を使えば「語り手」の主観的な見方が反映されています。「描写」文は語り手の主観が入っている文ですし、「説明」文は語り手の主観がいっさい廃された文です。


 三人称視点はどうしても「説明」文が多くなりがちです。

 「描写」文を入れてバランスをとる必要があります。

 でもどう書けば「描写」文なのかがわかりにくい。

 そこで「比喩」を用いて「説明」文を「描写」文に化けさせます。

 三人称視点で「描写」が巧みな書き手という評価は「比喩」をどれだけ使えているかがポイントです。



 書き手として使いやすいのは「直喩(明喩)」と「暗喩(隠喩)」そして「オノマトペ」になります。最低でもこれらを用いて書いていくとよいでしょう。

 ただし「オノマトペ」とくに擬音語(擬声語)は使いすぎると「小学生の作文レベル」になります。

 そればかりでなく「比喩」一辺倒の文章というのも冗長で意味不明な文章になりがちです。

 「説明」文とのバランスをとる必要があります。

 「比喩」を用いない「説明」文を混ぜてバランスをとっていけば、適度な配分が自ずとわかってくるはずです。



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