88.実践篇:文末を繰り返さない
今回は「文末表現」についてです。
「文末の基本は『〜た。』である」とする小説読本がありますが妥当でしょうか。
文末を繰り返さない
小説にしろ論文にしろ、文章では「文末」の処理に気を配ってください。
とくに意図がないかぎり「同じ文末にしない」ことを徹底すべきです。
文末の基本は「〜た。」?
小説読本の中には「
私はこの意見には疑問です。
ルポライターであった本多勝一氏の文章読本では「文末は連続させるな」と書いてあったのを読んだ記憶がありました。
なぜ文末を連続させてはいけないのでしょうか。
文章がとたんに安っぽくなるからです。
コラムNo.85「接続詞・接続助詞と擬音語に頼らない」で例に挙げた、
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今日は運動会がありました。僕が選手宣誓をしました。皆から拍手されました。徒競走で一位になりました。また皆から拍手されました。
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が「小学生の作文レベル」だと言ったのは、この点にあったのです。
「地の文」の文末で「〜た。」が続く著者の筆頭に村上春樹氏を挙げたいと思います。
彼の書く小説は基本的に「地の文」の文末が「〜た。」です。しかもそれをとことん押し通しています。
そのため私は村上春樹氏の作品を、冒頭試し読みしてほとんどすべて切り捨てました。
「〜た。」ばかりが続くとどうしても「小学生の作文レベル」かと連想してしまうのです。
どんなにすぐれた比喩も語り口も「〜た。」の連発がすべてをぶち壊しています。
文末は本来バラバラなはず
文章の基本である「単文」には名詞文「彼は独身だ」、動詞文「馬が走る」、形容詞文「空が青い」、形容動詞文「山が静かだ」があります。
名詞文「彼は独身だ」と形容動詞文「山は静かだ」は文末が「だ」で共通していますが、形容詞文は「い」、動詞文はウ段で終わるのです。
「だ」と「い」は動かせませんが動詞文は動詞次第でウ段の「る」も「う」も「す」も「む」もあります。現在形だけでもこれだけの文字があるのです。
それを「〜た」で統一する意味がわかりません。
名詞文⇒動詞文⇒形容詞文⇒動詞文である以下のような場合はどうでしょうか。
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彼も男だ。やるときはやる。それでも悪事だけはしない。身を滅ぼすもとになってしまう。
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文末は同一ではありませんよね。
この多様性が日本語の特徴であり独特のリズム感でもあると思うのです。
それなのに小説の文末を基本的に「〜た。」である、なんて言うのは了見が狭いとしか言えません。
活用次第でさらに文末はバラバラに
動詞を筆頭として活用次第で文末がよりバラバラになります。
「走らない」「走ります」「走る」「走るとき」「走れば」「走ろう」「走った」という未然・連用・終止・連体・仮定・命令・過去完了の形だけでも最低七つが作成されるのです。
このうちで文末として使えるのは限られます。
それでも活用次第で文末が変わりえることはおわかりいただけたのではないでしょうか。
同様に形容詞も形容動詞も名詞文「だ」も活用します。
となればバリエーションはさらに増えるのです。
それでも基本は「〜た。」なのか
それでも小説の文末の基本は「〜た。」でなければならないのか。
やはり甚だ疑問です。
確かに文末が「〜た。」で続いていれば「韻を踏む」ことはできます。
それは事実です。
ただそれだけです。
「韻を踏む」という理由なら「です・ます」体は「す」で韻を踏んでいることになりませんか。
それでも活用して「す」で終わることはそれほど多くはないのです。
「韻を踏む」という理由だけなら動詞の終止形はすべてウ段で終わります。これも立派な「韻を踏む」ではありませんか。
それを無視して「〜た。」だけが「韻を踏む」というのもおかしな話です。
韻も踏みすぎるとかえって逆効果
韻も踏みすぎるとかえって逆効果になります。
すべてが「〜た。」で終わる小説。
先ほども述べましたが「小学生の作文レベル」です。
私が村上春樹氏の文体が嫌いなのも文末に「た」を多用する「小学生の作文レベル」の文体だという点にあります。
いくら娯楽性が高くても比喩や修飾が巧みでも、文体が「小学生の作文レベル」では読んでいて楽しくもなんともありません。
ただ惰性で、過去の作品の傾向で、好きな村上春樹氏の文体なのでといった理由で「〜た。」を文末に使い続けるのはいかがなものでしょうか。
完了と進行で時制を書き分ける
小説の地の文を「です・ます体」で書く人は少ないです。これは女性か社会的地位のある人が私小説の形で書いた一人称視点でだけ登場します。
その他は「だ・である」体です。でもよく考えると「である」は「だ」の連用形活用「で」に動詞「ある」が付いた形なので、「だ体」でもよかったりします。
名詞文・形容動詞文は「だ」、形容詞は「い」、動詞はウ段が基本です。
さらにこれらが活用することでひじょうに多くの文末が作れるのは前述したとおりです。
そちらで「韻を踏ん」でいったほうが話の流れも自然になりますし、完了と進行を書き分けることで時制もはっきりしてきます。
それによってかえって「〜た。」という完了の意が際立ってくるのです。
なにが「小説の地の文は『〜た。』が基本だ、バカヤロー!」と言いたくなります。
韻を踏む、リズムを刻む、はいずれも他の方法で代用可能です。
名詞文・形容動詞文での「だ」の連発、体言止めの連発、形容詞文での「い」の連発、動詞のウ段の連発、連用形の連発。
いずれも韻を踏んでいますしリズムも刻んでいます。
やれないことはないはずなのに、なぜか文章読本では「小説の地の文の基本は『〜た。』」というのですから呆れるしかありません。
文末は繰り返さないほうがいい
文末を繰り返さないと、とても読みやすい文章になります。
とくに小説の場合はさまざまなものを説明・描写していかなければなりません。
そのとき同じ文末が長々と続くのでは「今どこまで読んだっけ」という疑問が湧いてきます。読み手にそんなことを意識させてはなりません。
地の文が何行も続いたとしても「今この文を読んでいる」という明確な指針となるのが「文末」なのです。
「文末」が異なるから文字がびっしり詰まっていても「あ、この文末はさっき読んだから次の行を読めばいいんだな」とわかります。
読み手に対する配慮のためにも「文末」は繰り返さないほうがいいのです。
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今日は運動会がありました。
僕が選手宣誓を告げたのです。会場の皆から拍手を浴びました。ちょっと照れくさいですね。
種目では徒競走で一位になれることができました。するとまた皆から拍手されたのです。
こんなに浮かれる思いをしたことはありません。記憶に残る一日になりました。
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「小学生の作文レベル」の文章に文を加えて形を整えてみました。
ここまですれば「小学生の作文レベル」からいくらか脱出できたかと思います。
最後に
今回は「文末を繰り返さない」ことについて述べてみました。
小説読本を真に受けて文末を「〜た。」で統一するなんて愚の骨頂です。
時制も完了だけで説明臭くなります。
小説の登場人物は「今を生きている」のです。
それが過去完了だけで終わっていいものでしょうか。
これは書き手の中にある意識の問題でもあります。
どのように書けば登場人物は生き生きとしてくるのか。
情景描写がうまくいくのか。
執筆中以外でも意識しておくことで、あなた独自の文体は必ず作れます。
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