54.中級篇:主人公の設定

 基礎篇でも触れていますが、今回はエンターテインメント小説と文学小説との比較を通して少し深く掘り進んでみました。





主人公の設定


 テーマとフィクションレベルと世界観が決まったら、主人公を設定しましょう。

 まず主人公の目的ですが「欠落しているものを補完する」という設定が昔から多いのです。


 魔王に苦しめられている国があったら、魔王を懲らしめて平和を取り戻す。

 王女がさらわれていたら、魔王を倒して王女を奪還する。

 恋人が誰もいなかったら、恋い慕う人を見つけて愛されたい。


「欠落しているものを補完する」のが主人公の主要な目的「主人公はどうなりたい」なのです。





エンターテインメント小説では

 エンターテインメント小説の王道について考えてみたいと思います。


 ただの一般人その他大勢のうちのひとりに、誰も「(世界に)欠落しているものを補完する」という大役を任せたりはしません。

 主人公はなにか特別な資格を持っていなければなりません。それが主人公の最初の個性になります。


 「かつての勇者の息子」「亡国の王子」「異世界転生」「異世界転移」というのはとてもありふれていますが、よく使われる設定です。


 水野良氏『ロードス島戦記』の主人公パーンもヴァリス王国の聖騎士であった父の息子という設定ですし、のちに主役を張るスパークはフレイム国に住む炎の部族の出身で王位継承権を持つ騎士という裏設定がありました。


 同じく水野良氏『魔法戦士リウイ』シリーズでは妾腹の庶子という裏設定のある魔法使いだが冒険者として名を売りたいリウイが主人公となります。


 賀東招二氏『フルメタル・パニック!』は秘密組織ミスリルの凄腕兵で日本人高校生として振る舞う相良宗介が主人公です。


 数え上げればきりがありませんが、このように「(世界に)欠落したものを補完する」試練に挑むには、それなりの資格が必要となります。

 なぜなら読み手が主人公に「憧れ」を抱けるからです。

 感情移入させる書き方をしても、心では主人公に「憧れ」を抱いているからエンターテインメント小説は面白くなります。





ただの素人が主人公だったら

 ただの素人がその試練に挑むには、それ相応の強烈な原因が必要です。

 これは設定次第でどうにでもなります。


 マンガの桂正和氏『ウイングマン』ではヒーローになる夢を捨てきれないただの中学生・広野健太がひょんなことから「ドリムノート」を手に入れたことで無敵のヒーローであるウイングマンとして、宿敵キータクラーや悪の親玉リメルと対決することになります。

 試練に向かうべくして向かうようになる。そんな演出をしなければなりません。


 頭脳明晰で全国模試1位というエリート街道を外れることなく過ごしていた主人公・夜神月が主人公の、マンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』。

 高校生として教室で授業を受けているときにふと窓の外を眺めていたらグラウンドにとあるノートが落ちていました。

 ノートが気になった夜神月は放課後にそれを拾い、英語で書かれていたノートを使用する際の条件を知る。

 試しに名前を書き込んだらそのとおりに人が死んでいく。

 それを知った主人公は「世界から犯罪者を一掃して、自らが『新世界の神になる』」と決意します。

 そして日本警察や米国FBIそして世界一の探偵Lを敵に回しながら、抜群の頭脳を生かした駆け引き上手な月が犯罪者に裁きを下していくことになるのです。


 同じくマンガの大場つぐみ氏&小畑健氏『プラチナエンド』も、ただの素人たちが天使によって特殊な力を与えられ、壮絶な生き残り闘争を繰り広げることになります。現在も絶賛連載中です。この先どうなるかまったくわからないというワクワク・ハラハラ・ドキドキ感がひじょうに強い作品となっています。

(2022年時点で連載は終了していますし、アニメ化も終わっています)。


 主人公がただの素人だった場合、このように「なにか特別な能力や知識を手に入れる」という状況が必要です。

 海賊王に憧れるモンキー・D・ルフィが主人公の、マンガの尾田栄一郎氏『ONE PIECE』も同様。

 ただの素人だったルフィが悪魔の実の一つ「ゴムゴムの実」を食べることでゴム人間となります。

 そして徐々に仲間を集めてグランドラインに乗り込んでいくのです。

 やはり「なにか特別な能力や知識を手に入れる」状況になりますよね。

 このパターンは本当にごくありふれています。


 ありふれているのに陳腐に陥らないのは「特別な能力や知識」がバリエーションに富んでいるからです。

 まったく同じ「特別な能力や知識」を与えられた物語であれば、内容も似通ってしまいます。それだと「盗用」と判断されかねません。

 手に入る「特別な能力や知識」で他作品と差別化を図ります。





主人公はありふれていてもいい

 このように、ただの素人を試練に向かわせるのは演出的にとても難しいのです。

 書き慣れないうちは「かつての勇者の息子」「亡国の王子」「異世界転生」といった出生の秘密にかかわるようなバックボーンのあるありふれた主人公にしましょう。

 世界が直面する困難に対処する部署に配属させるのもいいです。

 「欠落しているものを補完する」という目的と、それに立ち向かうだけの資格が決まれば主人公の具体像も浮かんできます。


 でもそれがなんでもこなせる「超人」が担ってしまうとただの「ご都合主義」にハマり込んでしまうのです。


 主人公は精神的特徴と身体的特徴がそれぞれ一つずつはあるような人物キャラクター設定にするとよいでしょう。

 そのほかは一般人と同じというほうが読み手は主人公に親近感を覚えます。





文学小説では

 純文学に代表される文学小説ついて考えましょう。


 主人公はごくありふれた等身大の人物です。

 ファンタジーなどのエンターテインメント小説は目的と資格を持った個性的な人物が主人公でした。

 しかし純文学では取り立てて特長のない一般人でなければなりません。

 純文学はフィクションゼロの世界であることが多いのです。舞台は現実世界とさほど差がありません。


 つまりそこで行動する人物は、やはりただの一般人でなければならないのです。

 そうしないと読者が感情移入できません。


 「目的と資格を持った個性的な主人公」というのではエンターテインメント小説だと思われてしまうのです。

 純文学の主人公は「没個性」でなければなりません。

 全体として読者と同じかやや劣る面のある人物が純文学の主人公としてふさわしいのです。


 読み手のほとんどがなにがしかの劣等感コンプレックスを抱いており、純文学の主人公もなにがしかの劣等感を有している。だから読み手と主人公はリンクするのです。





大衆小説と文学小説との違い

 多分に偏見を含みますが、読み手と同じ世界を同じ能力と同じ価値観で生きている。

 それを読むから純文学の価値があるのだと思います。

 「自分ならこんな状況のときはこう選択するだろうな」と思いながら読み進めていくのです。

 予想が外れたら「そんなことをしたらどうなるかわからないぞ」という不安感を煽り立ててくるのも純文学の特徴です。

 お笑い芸人ピースの又吉直樹氏『火花』もそんな純文学の様式美を踏襲しています。


 それに比べると村上春樹氏作品の主人公は純文学の枠を飛び出てエンターテインメント小説(大衆小説)寄りです。

 だからこそ村上春樹氏は芥川龍之介賞(芥川賞)を授からなかったし、ノーベル文学賞にも世間では名が挙がりこそすれ受賞することはありません。

 ノーベル文学賞もやはり純文学的な作品が対象となっていると見るべきです。

 ノーベル文学賞受賞者の川端康成氏も大江健三郎氏も純文学でしたよね。

 そしてシンガーソングライターであるボブ・ディラン氏の受賞を考えてもその傾向は明らかでしょう。


 もし売上や人気だけでノーベル文学賞が獲れるというのであれば、村上春樹氏よりも『ハリー・ポッター』シリーズを連載したJ.K.ローリング氏のほうが先に受賞してしかるべきだからです。


 対してエンターテインメント小説は読み手と違う世界を、違う能力と違う価値観で生きています。

 そのまったく先が読めない状況を味わうのがエンターテインメント小説の醍醐味なのです。


 これはどんな世界観なのか、どんな技術や魔術があるのか、どんな人種が住んでいるのか、どんな身分階級が存在するのか、どんな生活をしているのか。

 読み手が知りたくてウズウズする情報は山のようにあります。

 その欲求に応えるため、書き手は描写を重ねていくのです。





最後に

 求められる主人公像は、エンターテインメント小説と文学小説とではまるっきり異なります。

 自分とは異なる能力があるのか、自分と変わらない能力しかないのか。それだけでも大違いです。


 文学小説を書いているのに主人公が型破りだとか、エンターテインメント小説を書いているのに主人公はただの人間であるとかすればそれだけで興味が失せます。


 『このライトノベルがすごい!』で三年連続一位となり殿堂入りを果たした渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の比企谷八幡。

 彼は一見ただそこらにいる主人公のように見えますが、精神的にはひねくれていて、ヒロイン候補が多数いるハーレム状態でもあります。

 やはり読み手とは何かが異なっていますよね。

 もしヒロインが一人で固定されていたならば『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』はライトノベルではなく、文学小説になっていたかもしれません。

 そして十巻を超える連載にもならなかったでしょう。


 商業的に見るとライトノベルにして正解でした。

 文壇の権威から見れば、ライトノベルになったことで低俗と見なされてしまいますが。


 小説投稿サイトにより、小説は「インターネットでタダで読む」時代に突入しています。

 そろそろ文壇も考えを改めなければならないでしょう。

 ライトノベルに文壇の権威を持たせるべき時期に達したのです。

 それを否定し続けるのは、読み手側からすればただの「悪あがき」にしか映りません。



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