55.中級篇:対になる存在の設定
基礎篇でも触れていますが今回は「対になる存在」について深く掘り進んでみました。
対になる存在の設定
主人公とほぼ同時に決めることになるのが「対になる存在」です。
物語は、主人公と「対になる存在」との駆け引き、衝突、せめぎあいといった「やりとり」によって進んでいきます。
それが最高潮に達し最終局面になると物語が「
書き慣れなければ「絶対悪」に
多くのSF小説やファンタジー小説では、世界を混沌に追い込むAIやロボット、皇帝や魔王、人々を虐げる鬼やドラゴンといった悪役が「対になる存在」として最も初歩的でありふれた存在です。
彼らのようなとくに信念もなく自己欲求を満たすために人々を虐げる人を「絶対悪」と言います。
「絶対悪」である彼らを打倒することが主人公の目標です。
小説を書き慣れないうちはここから始めるべきでしょう。
司馬遷氏『史記』に見られるように、中国史は前王朝が打倒されて新王朝が始まるとき、単純に「前政権の悪政が正義の新政権により打ち倒された」というテンプレートが繰り返されています。
これは新政権に都合のよい話なのです。
実際に
実際の紂王は儀式を頻繁に行なって祭祀を絶やさず、異民族討伐に奔走していたのです。
そのうち異民族討伐で大損害を被ったことが命取りとなり、それまでに周辺の諸国を味方に引き入れた周の文王・武王が反逆を起こして紂王を抹殺した、というのが金文からわかる事実だと言われています。
しかしそれでは周王朝は武力行使をして政権を転覆させたという悪名が高まってしまうため「紂王は悪逆非道だった」というレッテルを貼ったのです。
古代中国の歴史はたいていこのような「前王朝末期は悪がはびこっていた」という形で出来あがりました。
対になる存在にも正義がある
少し進んだ形として「対になる存在にも正義(大義)がある」という面を持たせてみましょう。
主人公側の正義と「対になる存在」側の正義の対立が主眼です。
有名なところではマンガの原泰久氏『キングダム』で描かれている
彼は武力と法律によって中国を統一しましたが、その後
これだけの偉業を果たしたのです。
それなのに始皇帝の死後から楚漢による争覇の時代を経て漢の劉邦による再統一がなされるに至ってもなお、始皇帝は悪逆非道だとされたのです。
始皇帝は法家を推進していたこともあり、儒家の王朝である漢代ではつねに批判の的となりました。
始皇帝には彼なりの正義があったというのにです。
アニメのサンライズ製作・安彦良和氏&富野由悠季氏『機動戦士ガンダム』はこれまでのロボットアニメにありがちな相手役の「絶対悪」という概念を超え、「対になる存在にも正義(大義)がある」という視点を持たせました。
ゆえに「対になる存在」とその人間関係にも深みが増し、世界観を広げる手助けをしたのです。
地球連邦軍所属の主人公アムロ・レイに対するジオン公国軍のシャア・アズナブルも、ザビ家打倒を旗印に掲げた「対になる存在」でした。
のちに「ニュータイプによる人類の革新」へ思想が傾き、物語の最終盤では主人公に対して「私の同志になれ」と勧誘することまでしています。
ここまで明確な「一方の正義」を有した「対になる存在」は『機動戦士ガンダム』以前ではそれほど見られないものでした。
それゆえに物語前半のわかりにくさから視聴率が低迷して打ち切りとなった作品ですが、劇場版になることで大ヒットを飛ばすことになったのです。
リアルな世界観に「絶対悪」はまず存在しません。
『機動戦士ガンダム』の登場以来「対になる存在にも正義(大義)がある」という概念はアニメ作品にとどまらずマンガやライトノベルでも不可欠なものとなりました。
日本のアニメやマンガなどが海外で高い評価を受けるのもこの側面を持つからではないでしょうか。
主人公と相対する理由は
「対になる存在」が非道に走った理由をうまく描写できれば、それだけで評価の高い作品に繋がります。
映画のジョージ・ルーカス氏『STAR WARS』シリーズを例にとってみましょう。青年ルーク・スカイウォーカーが主人公のエピソード4~6は、ダースベイダーや皇帝という「絶対悪」との対決構図なので、極めて初歩的な勧善懲悪物語のヒロイックSFとなっています。
それに比べアナキン・スカイウォーカーが主人公のエピソード1~3は、いかにしてアナキンがダースベイダーへと変貌したのかを描くことで「対になる存在にも正義(大義)がある」ことを明確にしました。
それを踏まえたうえでエピソード4~6を観返すとまた違った発見があります。
このように、魅力のある作品を作り上げるには、相手役の心の内側を巧みに描写する必要があるのです。
『機動戦士ガンダム』『STAR WARS』の二作品を見るまでもなく、すぐれたエンターテインメント作品には「対になる存在にも正義(大義)がある」ものなのです。
「対になる存在」の正義をもシミュレーションできてこそ作者の腕が上がります。
勧善懲悪はいかにもアメリカ人と、高齢者・幼児の日本人が好みそうな話です。
でも現実では自ら「私は悪だ」と主張しながら行動するような人はまずいません。
世間から「悪」と認定されても「対になる存在」にはそれ相応の「正義」があるものです。
そこを見落とさないようにしてください。
ジャンル別の「対になる存在」
ミステリーもの(推理もの)なら、主人公は探偵や刑事で、「対になる存在」は犯人というのが相場です。
犯人がしでかした事件を解決してみせるのが主人公の目標であり動機になります。
逆になった小説もあるにはありますが稀ですよね。
テレビドラマでも犯人側が主人公で「対になる存在」が刑事側となって犯人を切り崩しにかかるような作品はあまり見られません。
アメリカドラマの『刑事コロンボ』、日本ドラマの三谷幸喜氏『古畑任三郎』がその代表作であり、最近では日本ドラマ『相棒』などでも同様の手法がとられたお話がいくつかあります。
マンガでも大場つぐみ氏&小畑健氏『DEATH NOTE』は主人公の
それを日本警察・FBI・世界一の探偵Lが正体を暴こうと手を打っています。
しかし主人公が犯人というのはトリックが先にバレているため「対になる存在」である刑事の追い詰め方次第で名作にも駄作にもなってしまうのです。
よほどの力量がつくまでは主人公が犯人という手法はやらないほうがよいでしょう。
恋愛もののように、主人公が恋している人が「対になる存在」ということもあります。
この場合は「対になる存在」と結ばれることが主人公の目標であり動機です。
当の「対になる存在」自体がどう思っているかは別として。
私自身恋愛小説はあまり読んでいないのでなんとも説明しづらいのですが、映画やドラマなどでは主人公と「対になる存在」は似ている面がありながら、正反対の性質を持っていることが多いように見受けられます。
同じ液体なんだけど「水と油」の関係といいますか。
混ぜようとしても結局は分離してしまう。
そんな二人の対比や対立や対決構造が物語を面白くするのではないでしょうか。そのうえで中和剤を投入して「水と油」をまとめてしまいます。
最後に
今回も基礎篇を振り返りプラスアルファで書いてみました。
魅力的な「対になる存在」が作れてこそ、作品は深みを増します。
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