37. :感情の書き方

 今回は感情の書き方をパターン別に書いてみました。

 一人称視点で自分の感情を冷静に語るというのはどうにも変な話です。

 あなたは悲しいときに「私は悲しんだ」と思っていますか?





感情の書き方


 読み手を小説内世界に感情移入してもらうには、やはり主人公が感情移入しやすいかどうかにかかっています。

 つまり一人称視点の小説が最も適しているのです。三人称視点でも神の視点でも技術を使えばある程度は補えます。

 小説で感情を書くことは、とても難しいのです。

 そこで小説において感情はどう書かれているのか、いくつか列挙してみます。




自分の感情の書き方

■「俺は悲しくなった」

 この書き方が定番だと思います。自分が悲しいと感じているから素直に「俺は悲しくなった」と書く。なんの問題もないように見えます。


 でも人間「俺は悲しくなった」と思いながら悲しんでいるかというとそうではないですよね。

 出来事イベントがあり、それを受けて心に「悲しさ」が募ってきて感傷に浸る。「俺は悲しくなった」なんて思いもしません。


 現実と小説においてはこのような乖離がよく見られます。

 それでいて小説でよく出てくる理由は「文字数を削れる」からです。

 もし出来事イベントを起こしてその感傷に浸るさまを書いていたら数行でも足りないでしょう。

 それが「俺は悲しかった」の一文で済ませられます。


 「文字数を削れる」ことはイコール「描写不足」でもありますので、用いるのは主人公ではなく「さほど重要でないキャラ」の感情について書くときくらいにしましょう。そのシーンでの主人公が物語上「さほど重要でないキャラ」であることを暗示するので、真の主人公を際立たせる効果もあります。


 一人称視点は「俺は悲しくなった」で書けなくはないですが三人称視点ではまず書けません。なぜなら他人から見て「彼は悲しくなった」ことを直接知るすべがないからです。


 神の視点であれば誰の心の内もお見通しなので「彼は悲しくなった」と断定しても差し支えはないのですが、安易にあちこちの心の内をひけらかしていると読み手は興醒めしてしまいます。

 神の視点であってもシーンの主人公は明確に定めておき、他の人の感情は外見から窺える書き方を心がけたほうがよいでしょう。


 注意しておきたいのですが、これを「比喩レトリック」として用いるのであれば話が異なってきます。

 直喩では「彼は悲しくなったようだ」と書くところを隠喩にして「彼は悲しくなった」と書く。これは「あり」です。

 ただ「比喩レトリック」は回数が増えていくとどんどんキザったらしい文章になっていきます。

 使うのならひとつのシーンで三回までというように回数制限を設けておきましょう。



■「俺はこらえようのない悲しみを感じた」

 小説を少し書き慣れてくるとこのような書き方ができるようになります。

「俺は悲しくなった」のように断定するのではなく、主人公に起こっている心の変化を描写しようと試みるのです。


 この例では「こらえようのない」で「いたたまれない」気持ちを表しています。


 一見理に適っているのですが、悲しみを感じた主人公がここまで冷静で客観的に「自分の心の内」を語れるものでしょうか。そう考えると少し変だと感じますよね。


 このあたりが「少し書き慣れた」程度なのがひと目でわかる好例です。


 こちらも一人称ではこのように書けるのですが、三人称視点では書けません。理由は「俺は悲しくなった」のときと同じで、他人から見て「彼はこらえようのない悲しみを感じた」ことを直接知るすべがないからです。

 またこの表現は「比喩レトリック」として使えません。具体的に書かれすぎていて隠喩と判断するのも難しいのです。



■「俺はやり場のないものに囚われた」

 こうすれば冷静でいられない自分の心持ちを幾分反映できるかと存じます。中の下といったところでしょうか。

 人は「悲しい」にしても「嬉しい」にしても、その渦中では「悲しい」とも「嬉しい」とも感じていません。

 気分が高ぶっていることだけは本人にもわかっているのです。

「何かわからないけどなぜかそういう心持ちになっている」とは感じています。


 なので感情を表す言葉(形容詞と形容動詞)を万能薬として使わず、あえて書かないことで感情を表現できないか、知恵を絞ってみましょう。


 そのためには出来事イベントが起こって、主人公がある方向への心の変化をするさまを描写していくことが肝心です。

 それができていればあえて感情を表す言葉を直接書く必要もありません。





他人の感情の書き方

 そのシーンの主人公以外はどうでしょうか。



■「彼は悲しくなったようだ」「彼は悲しそうだ」「彼は悲しげだ」

 初心者がよく用いる書き方です。「悲しい」という感情を表す言葉(形容詞と形容動詞)そのものを用いています。

 これは視点から見ての断定なので、視点がそうだと思えばそうなのでしょう。それが彼の本当の感情かどうかは別の話ですが。


 視点を持つ主人公以外の感情はすべて外面から見られる範囲内でしか書けません。そのかせをどのレベルまで保てるか。それが感情の書き方のレベルを規定します。


 いずれにしても「悲しい」や「嬉しい」のように感情を表す言葉(形容詞と形容動詞)を直接用いて書かないほうがいい例ともいえますね。



■「彼は膝を落として今にも泣きだしそうな顔をしている」

 一人称視点での主人公以外のキャラや三人称視点でのすべてのキャラの感情はこのように「外見から見てわかる範囲」で描写していくのが基本です。


 神の視点でもそのシーンの主人公以外はこう書くべきでしょう。応用として「彼は膝を落として青褪めた顔をしている」のように主観そのものを外して書くこともできます。これらの書き方ができるようになれば「ある程度書ける書き手」だと判断されます。



■「彼は悲しくなった」

 あれ、最初に言っていた禁じ手じゃないか。そう思われますよね。この書き方は絶対にできないわけではありません。

 この文まできちんと外見だけで書いてきて、ある一文だけ「彼は悲しくなった」と書いてしまうのです。


 二つの効用があります。

 まず前述したとおり「文章を削れる」こと。

 とくに重要でもないキャラの感情をいちいち描写していたら枚数がいくらあっても足りません。主人公を際立たせるためにも省略は必要な書き方ともいえます。


 また「抽象度が一気に増す」ことです。

 これまで外面だけを描写し続け、読み手を小説内に浸らせ続けました。

 しかしある必要が生じていったん読み手を小説内から少し離したくなる。

 そんなときに用います。


 主人公が死んで主役が交代するときや状況が大きく変わる場面などに用いられることが多い、極めて特殊な例です。


 どちらにしてもかなり高度に計算して書かないと読み手を少し離そうとして一気に興醒めさせかねないので注意を要します。

 用いられる回数も当然ひとつの小説内で一回程度です。





感覚の書き方

 感情のついでに感覚についても少し書きます。

「氷点下二十度で吹雪が厳しく吹きすさぶ中」と書いたとします。

 読み手は脳でこの文字列を解読し、五感に作用して「疑似体験」することで現実味を覚えるのです。


 つまり文字列の解読は「解読作業」をして記憶にある「実体験」と結びつけ「疑似体験」を味わうものです。

 しかし常夏の島ハワイに住む人は「氷点下二十度の吹雪」を体験したことがありません。

「実体験」を持たない人には響かない表現では、共感を得られる人数も限られてきます。

 文明度の高い国が四季の移ろいのある中緯度に集中していることもその表れかもしれません。


 このように感覚の表現はそれを知りうる人にしか響かないことを留意してください。響かない人たちのために「氷点下二十度で吹雪が顔の皮膚を厳しく突き刺すように吹きすさぶ中」のように「感覚を刺激する言葉」を入れておくようにしましょう。





最後に

 今回は「感情の書き方」について少し具体的に述べました。

 基本的に「感情を表す言葉(形容詞と形容動詞)」を何の計算もなく用いることはオススメしません。表現が心に刺さらないのです。


 その感情を起こすに至った出来事をしっかりと書き「そういう感情を起こしても当たり前だ」と読み手に思わせましょう。

 そうすれば「感情を表す言葉」を用いなくてもその人物の感情は読み手に間違いなく伝わります。


 安易に「感情を表す言葉」を用いないほうがかえってよく伝わるものなのです。



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