第50話 文字の一致

「まーしーろーん!」

「ーーッ」


 『赤い狐』からましろへと投げつけられていた視線は、後から入ってきた者の声を聞いたとたん、ジュッと音を立てるように消えてなくなる。

 熱せられた鉄板の上に、氷塊を落としたかのようだ。 

 ノックもせずに入ってきた声の主は、一直線にましろへとダッシュし、そして抱き着いた。


「えっ、えっ」


 突然のことにましろは理解が追い付かない。


「ましろん、大丈夫!?」


 心配の声とともに忍海は、ましろの身体に絡めた手にさらにギュっと力を入れた。


「桜!」


 それを見た『赤い狐』が、矢も盾もたまらない様子で、忍海に近づく。


「来ないで!」


 ガルルルル、という声が聞こえてきそうな、今にもかみつきそうな言い方だった。

 言葉に従い、『赤い狐』は置物のように固まった。

 固まりながらも、その身体から重低音のような圧迫感を放っている。

 ましろの背筋に冷たいものが流れる。


「ましろん、本当に大丈夫? 記憶ある? アタシのこと覚えてる?」


 忍海は抱きしめている手をほどき、口早に言いながらましろの身体を前後に揺すった。


「だ、だ、だ、大丈夫です。おおお、忍海桜さんですよね?」

「うん、うん! ぴんぽーん、ぴんぽーん、忍海桜だよ! 合ってるよ! ましろん、合ってるよ!」


 忍海は興奮した様子で、ましろに頬擦りをしてきた。


「脳とかに異常なくって、本当によかった。ましろん、ちょーっと待っててね」


 言って、忍海はましろから『赤い狐』へと視線を移す。

 彼女のまなざしは、メドゥサのそれのように相手の視線を殺してしまった。


「これ以上ましろんをいじめたら、いくらアンタでも許さないからね」


 力強い声であった。


「いじめ? それは誤解だよ、桜。僕はーー」


 見つめたまま、一歩足を踏み出す。


「だから、来ないでってば!」


 『赤い狐』の視線は忍海の上にくぎ付けになったまま、一切の関心が集中しているようだった。


「ましろんの腕捻り上げてたでしょ」


 返す言葉が浮かばないのか、『赤い狐』は黙っていた。

 ふっと『赤い狐』の瞳が揺らいだ。


「その件については、既に清算した。そうだろ、戸田ましろ?」


 いきなりの呼びかけにましろはびくり、と肩を震わせた。


「そうなの、ましろん?」

「た、たぶん……」

「たぶんとはなんだ! 僕はきちんと君に謝罪したぞ!」

「は、はい! 『赤い狐』さんは、きちんと謝ってくれました」

「ほら、桜。僕はきちんとその件については謝罪している」


 ふんす、と鼻から息をはいた。


「はいはい、そうなのかもしれないけど、無駄に大きな声出して、ましろん脅かすのやめたげて。それに謝罪はしても腕を捻り上げたのは事実じゃん」

「……事実であることは間違いない」


 声に、不機嫌な犬のような唸りが混じっていた。


「やっぱそうなんじゃん」

「けれど、桜。聞いてほしい、僕は君を護るために、腕を捻り上げたんだ」

「アタシを護る?」

「そうだよ。これが戸田ましろのポケットから落ちたものだ。見たまえ、桜。」


 『赤い狐』がポケットから出したメモを見て、ましろの体毛が一気に逆立つ。


「このメモと戸田ましろの履歴書の文字がまったく同じなんだよ。戸田ましろは、桜、君がここにいることを知っていながら、この店に面接に来たんだよ」


 勝ち誇ったように『赤い狐』が言う。


(終わった)


 湿ったつぶやきをましろは心で漏らす。

 黄金との約束がある以上、ストーカーと間違えられてもなにも返せないましろにとっては、自身の罪を払拭する一縷のよすが、それが忍海桜という人間だった。

 現在のところは、忍海はどちらかといえば、味方のようであった。

 しかし、メモをきっかけに忍海まで敵にまわってしまうと、ましろは事実上詰んだ状態になる。

 物的証拠を出されると、さすがに言い逃れが出来なかった。

 が、瞬間のうちにその動揺は去った。


「ハッタリでしょ?」

「えっ」


 ましろの口から短い空気が漏れた。


「あのオーナーがそんな履歴書なんていう個人情報の塊みたいなもん、誰でも見られるようなところに置いてるわけないっしょ。あの人抜けてるとこもあるけど、そういうところはきっちりしてるし」


 あきれたような忍海の口調だった。

 『赤い狐』はただ虚空を睨んだままである。


「えっ、えっ」


 ましろには何がなんだかわからない。困惑して二人の顔を交互に見る。


「さすが、桜だ。お見事、そう、僕はそこの戸田ましろの履歴書なんて見ていない」

「ええぇっ!?」

「もっとも」


 と『赤い狐』は言葉を継ぐ。


「見なくとも、戸田ましろが僕を強行突破しようとした行動から、双方の一致は推認できるけどね」


 一瞬、ましろはホッとしたが、危機は依然としてそこに残っているようであった。


「たしかにましろんがそんな行動に出たんだったら、たぶん、一致してるんだろうね」

「やっとわかってくれたかい、桜」


 満足感に似たものをはらんだ吐息を、『赤い狐』ははく。 

 そんな反応を見て、はぁ、とわざとらしいため息をつき、忍海は眉間をつまんだ。


「あのさぁ、そのメモ用紙が仮にましろんが書いたものだったとして、それがどうアタシのストーカーと関係してくるわけ? それに真菅ますが弁護士もはかるちゃんも、アタシをストーカーしていたのは、男だって言ってたよね?」


 確かめるような口調だった。


「それに性格は、ひどく用心深くもあるって」


 付け足し、忍海はましろに柔らかな視線を投げかけた。


「性別はこの際度外視するとして、ましろんが用心深い人間だったら、アタシら程度の追求なんて難なくかわすでしょ。それに、アンタに腕を捻り上げられるようなことなんてされないだろうし。ましろんは心配になるぐらい、純粋だよ」


 おそらく、忍海なりに抗弁として言った言葉なのだろうが、お頭の程度まですっかり見透かされているようで、ましろは少しばかり気が滅入った。


「甘い、桜、その考えは甘すぎるよ。菰野こものシェフが作るフールセックよりも甘いよ」

「はぁ?」

「そこの戸田ましろがその男と共犯だって可能性もあるだろ?」

「はぁ、共犯?」

「そうだ。戸田ましろはストーカーの恋人だって可能性もあるだろ」

「恋人?」


 馬鹿にしたような表情を浮かべる。


「いやいや、冷静に考えてましろんみたいな子がストーカーみたいなんと付き合わないでしょ」


 鼻で笑う。


「同性からも異性からも引く手数多じゃん。こんだけかわいかったら」


 忍海がペロリ、とましろの耳たぶを舐めた。

 ましろはくすぐったくて、身体をよじらせる。


「僕は桜が心配やけん、言っとーと!」


 不機嫌の塊であることは依然として変わりなかったが、それまでと打って変わったようなどこか拗ねたような稚気が雑じっていた。


「いや、心配してくれるのはうれしいけどさ、それで周りの関係ない人まで巻き込むのはなんか違うでしょ」

「関係ないかは現段階ではわからんやろ?」

「やっ、冷静に考えればわかるっしょ」

「決めつけで冷静に考えられていないから、僕はそう言ってるんだ」


 議論は、もはやましろの手の届く範囲にはなかった。

 口を挟む隙がない。

 しまいには、忍海はましろから離れて、『赤い狐』の方に歩みながら、議論を続けていた。


「ん? アタシのどこが冷静じゃないか言ってみ」

「あぁ、それなら言わせてもらうよ」


 『赤い狐』も忍海に近づき、彼女の胸元に人差し指を突き付けた。


「この前のデートの時だ」

「デートの時?」

「テーマパークに行っただろう」

「あぁ、あれね」

「そうだ、あれだ。5か所しかトラクションを回れなかったそう、あの日のことだ」


 一拍おいて続ける。


「桜がかたくなに『よやく』をしなかったせいでね。パスを持っているならまだしも、僕らは持っていない。それなら1回でより多くのアトラクションに乗るべきだろ? それに『よやく』は無料なんだぞ。冷静に考えて、アトラクションを多く楽しむためには『よやく』するべきだろ。桜はそういう先のことが見据えられていない」

「……アンタ、覚えてないの? そうやってそれより前に行ったときに『よやく』しすぎて、一日中走りまわってくたくたになった挙句、次の日筋肉痛になったじゃん。アンタのほうこそ、先を見据えられてないでしょ」

「もちろん、覚えているさ。けれども、テーマパークに行く以上、より多くのアトラクションに乗らないと損だろ?」

「今、損徳の話はしてないと思うんだけど」

「あの……、あの……」


 口論を止めようと、ましろが声を出すもふたりだけの世界に入ってしまった彼女らには声が届かない。

 リボルバーを握って対峙する二人の間を転がるタンブルウィードかなにかになったような気分だった。

 と、ましろの背後にゆったりとした足音が響いた。

 足裏の縦が長いことを連想させるような音色だった。

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虹色L!VEON!!~偶像刷新~ 二階堂彩夏(§AーMY) @nikaidouayaka

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