第49話 妙齢
「気が付いたかな?」
ましろと目が合うと、虹彩異色症の女性はわずかに眉を下げ、気遣うように訊いてきた。
「大丈夫です」
いったいぜんたい何が大丈夫なのかましろ自身わかっていなかったが、そう言わなければならない気がした。
だから、そう答えた。
「よかったぁ」
女性の表情がぱぁっと明るくなる。
「あっ、ごめんね、お母さんじゃなくて。それとも、お母さんを呼んだほうがよかったかな?」
ふんわりとほほ笑む。
冷静になって、ましろはまじまじと女性を見つめた。
(……この人は誰?)
両目の色が違うのはカラーコンタクトかなにかをつけているからだろうと最初思ったが、違うことにすぐに気づいた。
片方の淡いセルリアンブルーは、自然に生み出されたような色合いにしか見えない。
そうなると、ブラウンの髪も地毛のように思えてくる。
サイドに垂れた髪は肩先に届く程度で、いくらかを跳ねさせている。
長い後ろ髪は彼女の片目と同系色ではあるものの、明らかに人工色じみた水色のリボンで結っている。
そして、手入れの行き届いた髪につけられたナチュラルの髪留めが主張しすぎず、彼女の魅力をより一層引き立てていた。
日本以外の血が入っているような気がした。
だからからか、彼女の日本語には、イントネーションやアクセントに、ほんのわずかであるが、ネイティブとは違う揺らぎがある。
年齢はまったくよめなかった。
ただ、ましろの頭には『妙齢』という言葉がすっと浮かんだ
『妙齢』が示す言葉の意味を、ましろは正確に理解していない。
たしか「若い」という意味だったと思う程度のものだ。
けれども、単なる「若い」では目の前にいる女性は片づけられなかった。
それほどまでに目の前でほほ笑んでいる女性は『妙齢』という言葉がしっくりきた。
「ありゃ? まだ、状況把握が追いついてない感じかな?」
女性が目を丸くした。
(状況把握?)
言われてみると、ましろはなぜか自身がベッドの上で横になっていることに気付いた。
そして、頭の底が、石膏で塗り固めたように重い。
記憶の一部に白い布がかけられたかのように、あいまいであった。
が、とにかく、ましろが身体を起こそうとすると、彼女は顔を寄せるように身を屈め、それを制した。
「話を聞く限りでは頭は打ってないようだけど、その様子だともう少し、安静にしておいたほうがいいかな。一応」
子供に言い聞かせるような声で、「ね?」と笑いかける。
前髪がはらりと垂れ、眼前で揺れた。
甘い匂いがましろの鼻腔をくすぐる。
でも、それは砂糖菓子のような甘ったるい匂いではなかった。
一番近しいのは、ミルクといったところだろうか。
もっとも、それも少し異なるような気がした。
「甘い匂い」
思っているだけでなく、気が付けばましろの口からそんな言葉が漏れ出ていた。
「甘い匂い?」
女性は目をぱちくりさせた後、自身の身体を嗅ぎ、匂いを確かめ始める。
「うーん、わたし自身はあんまり気にならないけど、たぶんさっき作ったお菓子の匂いかな」
見当違いな返事だった。
そういう意味で言ったわけではなかった。
そもそも、『甘い匂い』は彼女の服に付着した匂いではなく、彼女自身から発せられているような匂いのようにましろには思えた。
その匂いを嗅いでいると、羊水の中の胎児のような気分にさせられる。
温かな何かに身を包まれ、守られている安心感を内包したような……
「臭かったかな?」
「いいえ、そんなことはまったくありません!」
慌てて否定する。
むしろ、ましろにとっては心地よい、いい匂いだった。
女性はましろの反応に一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐににへらと笑った。
「ねぇ、喉乾いてない?」
女性は優しい表情を見せた。
「えっ、あ、はい」
「じゃあさ、なにか苦手な飲み物ってある?」
「特にありません」
「うーん、だったらなにがいいかなー? コーヒーも紅茶もおすすめだけど……残ってたプティ・フールはなんだったけ? んー、あっ、スーちゃんが紅茶の新しいフレーバーを入れたって言ってたし、それだとなんにでも合うかな。うん、それにしよっか」
女性は頬に手をやって思案し、二、三うなずいた。
勝手に結論が出たようだった。
「じゃあ、ちょっとだけ待っててね。あっ、くれぐれもわたしが戻ってくるまでに逃げたりしちゃメッ、だよ」
子供をたしなめるような口調には、むしろいたずらを楽しむようなところがあった。
言い残した後、ましろの元から手が離れ虹彩異色症の女性が静かに退室する。
扉が閉まる音を聞きながら、ましろは混乱していた。
(ここってどこなの?)
ましろは見知らぬ天井を見つめる。
感覚と世界の接続がうまくいかない。
ふいに喉が詰まるような感覚が襲いかかった。
痰か何かが絡んだせいだと思ったましろは、大きなせき払いを何度か繰り返した。
が、それでもすっきりしない。
ましろが言いようのない気持ち悪さに苛まれていると、鼻のあたりに痛みが走った。
触ると、鼻の中にティッシュか何かが詰められているのに気付いた。
勢いよくそれを引き抜くと、上唇から顎にかけて生温かいものが流れた。
ましろが手の甲でぬぐうと、手が真っ赤に染まる。
鼻血であった。
消毒液の尖ったにおいが鼻をつく。
ようやく、澱と上澄みが分離するように、はっきりした意識が浮かび上がってくる。
(そうだ、私、腕を捻りあげられてそれでーー)
ガチャリ、と突然、ノックもなく扉が開いた。
ずいぶん早くはあったが、彼女が戻ってきたのかと思い、その方へ顔を向ける。
そこにいたのは、ーー
「ひっ」
『赤い狐』だった。
ましろのほうに一歩、一歩近づいてくる。
出口はひとつ。
今度こそ逃げ場はなかった。
ましろの脳に腕を捻りあげられた過去がよみがえる。
(それでーー地面で鼻を打ったんだ)
「戸田ましろ」
アルトボイスがましろの名を呼んだ。
ましろは肩をびくり、と震わせた。
「戸田ましろ……」
妙な言い方だった。
ましろは身体を固くさせながらも、「何を言いたいのか」、と問い質すような目で『赤い狐』を見つめた。
が、いつまでたってもその問いに対する返事は返ってこなかった。
「戸田ましろ…………」
三度目の呼びかけだった。
言いながら、『赤い狐』は片足で意味もなく、事務所の床を撫でていた。
心なしか、次に続く言葉を探しだそうとしているような語調にましろは感じた。
ただ、なにを言おうとしているか、次の言葉が読めない。
「あの、私、なにかしましたか」
ましろはおそるおそる訊ねてみた。
「いや、君がなにかしたわけで……いや、したわけではないわけではないんだが……。えーっと、そうじゃない!」
『赤い狐』が後頭部をクシャっと掻いた。
「けがをさせたのは悪い。それは間違いない。だから、それは謝らないとフェアじゃない。……けれどその後は……」
なにやらぶつぶつと、ましろにはいまいち理解できない言葉をつぶやいていた。
「えーっと……」
「ええい!」
『赤い狐』の目がきらりと光った。
「ーーッ」
『赤い狐』が急に距離を詰めてきた。
と、ふいにましろの視界が急に狭まった。
まるで小さい穴越しに世界を見せられているような気分だった。
無造作に見えるほど短くカットした黒髪が、視界の端に映る。
同時にーー
「すまなかった」
相手はそれだけを一息に言った。
まるで、あらかじめ用意していた言葉をそのまま置き去りにしたかのように。
たん、とんという二つの足音が耳をたたいた次の瞬間、ましろはいつもの世界を取り戻した。
何事もなかったかのように『赤い狐』は、視線をあらぬ方向に投げながら、首筋をぽりぽりと掻く。
そうして、忘れていた話を突然思い出したように、ポツリ、とつぶやいた。
「僕は今、謝罪をした」
それだけ言って、黙りこんだ。おそらく言うべきことは言い終えたのだろう。
『赤い狐』はじっとましろを眺めつづけた。
一切言葉は口にしていなかったが、
『さぁ、次は君の番だ。洗いざらい吐いてもらおうじゃないか』
とでも言いたげに、まるで、ましろに果たし合いでも挑んでいるような目であった。
と、その時、先刻のようにノックもなくガチャリ、と扉が開いた。
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