第48話 蒼い月
ーー楽しみにしていますわ。
声だけを残して、カツン、カツンと靴音が徐々に遠ざかる。
その音だけが強調されているかのように、周りの雑音はまったく聞こえない。
首元を見えざる手でぐっと固定されてしまったかのように、離れていく背中を見ることもできない。
感情は向ける的のないままに、自身の無力を責める鞭に変わった。
最初から勝ち目のない戦いだった。
靴音が聞こえなくなった後も、敗北の音だけが耳の底で鳴り響く。
それに交じり、どこからともなく声が聞こえてきた。
「し……お……か、しんおおさか」
黄金が思わず肘掛けをバシン、と拳でたたいたとき、列車は『新大阪駅』へとあと数分もすれば到着するようであった。
同じ車両に乗り合わせていた幾人かの客が降車の準備に取りかかっている。
夢か、と頭を振る。
よだれでも垂らしていようもんなら、みっともないと思い、さりげなく唇の端を指で触れた。
濡れていない。
安堵のため息をもらす。
ふと、隣に誰もいないことに気付いた。
同時に、白檀のにおいの一切が消えていることにも気付く。
小月はどこかで降りたのだろう。
黄金としては、こればっかりの縁だとは思いながらも、本音を言えば最後に別れのあいさつぐらいは交わしておきたかった。
名残惜しい、と純粋に思う。
その一方でなぜだかわからないが、小月ともう一度会うような気がしていた。
それにしても、--
あれからまだ数時間にも満たない。
にもかかわらず、黄金には出来事のすべてが、もう何年も前に起こったことのように思えてならなかった。
まるで視覚の回路が一瞬遮断され、その隙に風景をそっくりそのまますりかえられてしまったような……。
馬鹿馬鹿しい、と思いながら、ひざをつねる。
ぴりり、と痛みが走った。
少し冷静になり、自分も降りなければと思い、ゆっくりと立ち上がる。
よろけないように足を踏みしめて通路を歩く。
間違い探しの絵の中にまぎれこんでしまったような、酩酊感。
歩いているつもりであったにもかかわらず、気付けば立ち止まっていた。
列車が極端にスピードを落とす。
走行音が弱くなったからか、レールを刻む緩慢な反復音だけが、空事めいた虚ろさで響いた。
その音が妙に耳障りに思えて、黄金は耳にイヤホンをはめた。
そして、音楽プレイヤーを操作し、ベルリオーズの幻想交響曲第4楽章を流した。
音がはっきりと耳に届いた瞬間、黄金の足は動き出した。
固い表情で去っていく黄金を見送る女性がいた。
「小説は往来にそって持ち歩かれる鏡である」
和服に身を包んだ彼女は自身のかばんから一冊の本を取り出し、子犬の額でも撫でるように、そっとその表面に触れた。
駆け込んできた少女が女性にぶつかった。
その勢いで手に持っていた本が落ちる。
少女の方はそのまま、仰向けに倒れてしまう。
「Ouch! Mom,Mom!(痛いよ! お母さん、お母さん!)」
少女が痛みを訴え、母親を呼んでいた。
どうやら、英語圏に住んでいる者のようだ。
女性は少女の身体を起こしてやる。
少女が鼻をすする。
涙の露が、まなじりからこぼれ落ちそうになる。
女性は中腰になり、人差し指でそっとそれに触れた。
「The girl's tears are made of jewelry.(女の子の涙は宝石で出来ているんですよ)」
「jewelry?(宝石?)」
「Yes.(はい)」
女性は答えながら、自身のかばんを漁り、何かを取り出した。
それは先刻、売店で購入したものだ。
「This is also a jewelry.(これもまた宝石なんですよ)」
てのひらにあめを乗せながら、女性がほほ笑む。
少女はそれを見て、大きく目を見開いた。
「Thank you so much!(ありがとう!)」
そう言った少女の顔からはいつの間にか涙が消え、笑顔の花が咲いていた。
「My pleasure.(どういたしまして)」
極めて鮮やかな英語だった。
変なクセなんてひとつもない、美しい発音であった。
女性が少女とやり取りをしているうちに、母親が現れた。
母親は女性に対し、感謝の言葉と共に頭を下げる。
気にしないでほしい、と女性が返すと母親はもう一度頭を下げ、少女の腕を引っ張っていった。
少女が空いている方の手をぶんぶんと振るので、彼女も少女が見えなくなるまで、頬の横で小さく手を振り返した。
「さて」
少女が去ると、女性は身をかがめ、床に落ちたままの本を拾った。
独り言のようにつぶやく。
「明星黄金様、ういさんの言ったとおりのお方でしたね」
窓の外から射し込む光が、本を照らす。
くすり、と笑った女性ーー
***
鉛筆かなにかでスケッチブックを擦る音とミシンを踏む音。
それとアイドルの曲とともにステップを刻む音が聞こえる。
耳に心地よい。
「母さん、こんな感じでどうかな」
スケッチブックが男の手から女の手に手渡される。
彼女はそれをしげしげと眺め、
「うーん、一回試しに作ってみますね」
そう言って、背筋を伸ばして、PCに向かう。
鼻歌交じりに、スケッチブックを見ながらCADで型紙を作る。
型紙が出来上がると今度は生地を裁断し、それを終えるとミシンに向かう。
すると魔法のように衣服が作られる。
「これでどうですかね?」
「いいね、イメージ通り、いやイメージを上回っているよ! やっぱり母さんは天才だよ!僕のデザインを再現できる人を僕は母さん以外に見たことがない」
「鉄さんのデザインが最高だから、私も頑張れるんですよ。素材が悪ければ頑張ってもどうしようもないことだってあります。鉄さんの方こそ天才ですよ」
「いやいや、母さんのためにある言葉だよ、天才は。天才パタンナー
「いやですねぇ、鉄さん。褒めてもなにも出ませんよ」
「私から見れば、母さんも父さんも両方とも天才だ。もちろん、ましろも、な」
父母と姉の優しい目がこちらに向く。
これは過去の出来事だ。
大好きな空間だった。
大好きなやりとりだった。
そして、大好きな人たちだった。
いつからだろう、心地よい日常が一つずつ消失していったのは。
まるで、マクベスの魔女がかける呪いのように……。
初めに消えたのは、スケッチブックを擦る音だった。
次に消えたのは、アイドルの曲とともにステップを刻む音。
最後にーー
洞のようなふたつの目がこちらを向く。
そこには以前のような温かみはない。
冷え切っている。
世の中に絶望したような目だった。
「誇りではご飯を食べさせられないからね」
ミシンの前で声を出さずに泣いている。
強張った口許に、苦笑が浮かぶ。
ミシンもPCもそこにあるにもかかわらず、踏まれることも、鼻歌交じりにCADで型紙が作られることもない。
お母さん、お母さん、お母さん……
「お母さん!」
「うーん、わたしはママじゃないかな?」
女性の声がした。
母親ではない。
そもそも、ここにいるわけがない。
どうも悪夢を見たらしかった。
ふと自分が誰かの手を握っていることにましろは気付いた。
「お目覚めかな?」
光に溶ける糸のような声。
そちらにましろが目を向ける。
ましろの手を握りながら立っていたのは、淡青の瞳に、燃えるような緋色の
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