第47話 有名女優を起用したコマーシャル
と、その時、単調な車輪の音が響いた。
それと重なって、小月の腹部が無様な鳴き声をあげる。
小月の白絹のごとき肌が、うす桃色に染めあげられる。
「お腹が鳴ってしまいましたね」
重い空気を立ちきるように、小月はくつろいだ笑顔を見せた。
黄金は張りつめていた緊張が急激に萎えていくのがわかった。
腹の底から長いため息をつく。
「はしたないですよね。失礼いたしました。けれど、車内ではなにも売ってないんでしたよね。我慢するほかないですね」
黄金はゴクリと唾をのみ込むと、小月の顔をあえて見ずに口を開いた。
「車内ではそうですが、この列車は大体の駅で数分程度停まります。その時に売店で買うことができますよ」
「そうだったんですね。だから、車内販売がなかったんですか。疑問が氷解し、納得いたしました。教示していただき、まことにありがとうございます」
黄金の視界の端で小月の左右に垂らした髪が上下に揺れた。
ちょうどいいタイミングで車内に、もうまもなく次の駅に停車するというアナウンスが流れる。
「ときに明星様はお腹の具合はいかがですか?」
「そうですね……」
訊ねられて黄金は、昼飯もろくに食べていないのに気付く。
けれども、むしろゲップが出るのではないかと疑わせるほどの満腹感が胃を支配していた。
「私は大丈夫です」
「そうですか。では、うちの分だけ買ってきますね」
小月は黄金に告げ、席から立ち上がった。
ことり、と黄金の机上になにかが置かれる。
「もしよろしければ、明星様も召し上がってください」
小月は列車が停まると、パンティラインが浮き出ていないお尻を揺らしながら、小走りに去っていった。
しだいに彼女の姿が見えなくなる。
首輪のようで窮屈なネクタイ。
黄金はそれを手で引いて緩めた。
机に置いていたバイロンの詩集と缶ビールが、一人残された彼女の目に自然と入る。
詩集を手に取って開き、一応ページに視線を落とした。
が、まったく頭に内容が入ってこない。
そもそも、もはや活字を追う意欲など毛ほどもなくなってしまっていた。
詩集を閉じ、バッグの中にしまう。
(嘘とは何か。それは変装した真実にすぎない、か)
バッグからガラパゴス携帯を取りだし、目の高さに持ってくる。
しゃらん、とガラス細工が揺れた。
針中野のアンクレットが映像として蘇る。
(アンタのは嘘なのかそれとも……)
心のうちで問いかけても、ガラス細工は小刻みに揺れるのみ。
黄金の口から意図せず、ため息がもれる。
わからない。
どれだけ考えてもかつての上司がなにを考えているのかわからなかった。
(やめだ)
考えるだけ無駄だと思い、思考を放棄するために目をつむったのが、ますますいけなかった。
小月が残した白檀のにおいが、記憶の体積のなかを引っかきまわす。
かえって、針中野の顔が思い出される。
右に向けば右に、左に向けば左に。
目の向く方にさまざまな表情の針中野の顔がついて回る。
幻がたち消えない。
忘れたいと願ったものは、黄金にとってそれほど大きな存在だった。
無為な時間を過ごしていると、何気なく、小月が口にした言葉が気になり始めた。
『有名女優を起用したコマーシャル』
仕事用のガラパゴス携帯ではない、プライベート用のスマホに親指が暗記している4桁の数字を押す。
そして、検索ワードにヒラ―ルと片仮名で入力した。
複数の検索結果が表示されたが、下着に関連するサイトは確認できた範囲では一つだけだったので、それを開く。
開いた瞬間、コマーシャルが自動で再生された。
黄金自身、スマホの音量はミュートにしていたため、車内に音が流れるということはなかった。
音量が調整されていない者であればこのようにいきなりコマーシャルが流れてしまうとかなり困るだろうという感想を抱く。
観ていると女性用下着のメーカーだけあって、女体がいきなり映された。
おそらく、先刻小月が言っていた女優だろう、と黄金は思う。
まだ、女優の顔は映されていない。
首から下と後ろ姿のみだ。
その断片的なヒントだけでも、女優に見覚えがあった。
頭の中にふいに訪れたそのヴィジョンが、口のなかに苦味を呼び起こす。
彼女の顔が映されると同時に、黄金は胸に激しい痛みをおぼえ、顔をしかめる。
小月の会社が起用した女優は、たしかに今では誰もが知るような女優であった。
そして、普段は記憶の表層から追い払っている、黄金が仮面を装着するきっかけとなった舞台上で隣にいた
意識下の奥に閉じ込めたはずの記憶が、闇の奥から生き返ろうとしている。
口のなかに嫌な粘りが生じる。
コマーシャルが終わり、『Hi「∀∀」』の文字が躍る。
文字は徐々に消えていき、黒い画面になった。
液晶に黄金自身の苦痛にゆがんだ顔が映る。
急に老け込んだように見えた。
心臓は、脈拍二百を越えるかとも思えるくらいの速さで打つ。
大声をはりあげ、車内を走り回りたい衝動にかられる。
黄金は心の中のなにかがうろたえるのを感じていた。
これは本当に偶然なのか?
やはり、長い夢を見ているのではないだろうか。
そんな気がして、仕方ない。
唇を噛む。
ほら、痛い。
だからこれは夢じゃないに違いない。
思いが交錯し、絡まりあい、混乱した。
黄金は頭によぎったその考えにさすがに慄然とした。
自分をわらう小さい
そもそも、小月に会うことさえも針中野の青写真に描かれていたとしても、さすがに『東京』から『新大阪』に向かうのに、より多くの駅に止まる列車を選択することまでは予想がつくはずはない。
少し値段は高くなるが、はるかに早い列車があることにはあるため、大体の人間はそれを使う。
それに事前に切符を購入していたわけではない。
隣になる確率なんて何百分、下手をすれば何千分の一程度だろう。
偶然だ。そうに違いない。
だとすると、彼女ともこればっかりの縁か。
名残惜しい気持ちがまったくないわけではなかったが、人間同士の縁なんてものはこんなものなので仕方ない、とひとり納得する。
周囲のさまざまな声が黄金の耳朶に触れる。
いったん落着したはずの思いを頭でもてあそんでいると、またもやその根拠がくずれてゆくような気がした。
間違いなく、小月は針中野と身体の奥底からにじみ出てくる匂いが同じであった。
いやいや、と頭を振る。
ふと、さまざまな事柄が、戸田ましろによって動き出しているような心象が浮かび上がる。
(誰も彼も嘘つきばっかりだな。……オレも含めて、な)
天井を仰いで失笑した。
考えなければならないことは無数にあるはずだった。
今後のことだけでも、子会社化にともなう社保や税金関係、登記や必要書類の作成等気の滅入るほどの作業が待っている。
それ以外にもまずはメンバーを募集せねばならない。
ただのメンバーではなく、針中野が新たにつくるであろう声優アイドルユニットを凌駕するようなそんなメンバーだ。
しかし、何から手を付けるべきなのかさえ、わからなかった。
(この選択は本当に合ってたのか)
より深く流砂の中へ沈んでいくような、焦燥感にとりつかれる。
圧倒的に時間が足りなかった。
そんな中、ふと頭の中で執拗なリフレインみたいに、繰り返し、小月の言葉が何度も何度も流れていた。
――平静ですよ
(平静、か)
後ろに人がいないことを確認し、黄金は背もたれを倒した。
両腕を思いきりあげ、大きく伸びをする。
固くなった首を左右に動かす。
ポキポキといういやな音がした。
疲労が首から肩に重くのし掛かっているのだろう。
けれども、眠ろうとすると、針中野の存在が邪魔をする。
だから、――
身体を起こし、机上の缶ビールに手を伸ばした。
仕事中飲酒することは絶対しない。
普段なら、だ。
プルトップを開け、アルミ缶に唇を当てる。
冷たく苦い液体が、ゆっくりと喉を流れていった。
喉にかすかなとげを感じさせる。
ふわりと身体が宙に浮いたような気がした。
血液中にアルコールの分子が広がる。
黄金はあまりアルコールに強くない。
背もたれに身体を預ける。
酔いと疲れで朦朧とした頭。
クリームのような眠気が、身体のなかを走り回る。
目をつぶると、一気に喉の奥へと残りを放り込む。
厚い緞帳のようにまぶたが鼻先に降りてきた。
疲れが睡魔に身を任せてしまえと迫ってくる。
アルコールが頭蓋に充満している。
空き缶を机に置いた。
とりとめのない妄想や追憶が、浮かんでは消えていく。
閉じたまぶたの裏側で閃光が弾けた。
暗闇の中に光が生じたのと時を同じにして、黄金は明確な意識の輪郭を失った。
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