第46話 嘘つき
ふと、小月があまりにも明け透けに内情を話したことに対し、黄金は疑問を抱いた。
そういった雰囲気が、相手にまで伝わってしまったのか。
小月は、膝の上で手指をいじりながら、口を開いた。
「うち、馴れ馴れしすぎるでしょうか?」
「そうは思いません。ただ、どうして、偶然、隣の席になったに過ぎない私にそこまで話してくれるか不思議に思っただけです」
「なんとなく、愚妹に酷似しているからです、かね?」
「酷似している?」
「あっ、いえ、お姿やしぐさが酷似しているというわけではございません」
慌てて、小月が言い添える。
「でしたら、どこが似てるんですか?」
「性格、というのでしょうかね」
「性格?」
「はい、愚妹もなんでもひとりで抱え込んでしまう性格でした。……今の明星様みたいに」
心の底を覗きこむような表情を浮かべ、しげしげと黄金を見つめていた。
「抱え込んだものはどこかで放出しないとなりません。そうしないと、すべて、手遅れになってしまいますから」
小月が苦労人らしい忠告をするのを、黄金は微苦笑を浮かべながら、聞いていた。
抱え込んでいるものなんて片手で数えきれないほどあった。
けれども赤の他人である彼女に、心のうちを吐露して相談するわけにはいかない。
ためていた息をそっと吐く。
「だとしたら、私は妹さんとまったく正反対の性格をしていますね」
「そうですか?」
「そうですよ」
しばらく無言のときが流れる。
凝としたきりの小月の横顔が、黄金には気難しげに見えた。
「……明星様は、嘘というものにあまりいい印象をお持ちではありませんか?」
だしぬけにそんなことを小月が言い出した。
知的な表情からは、単なる話題提供のように思えた。
だが、準備もなにもしていない黄金には唐突すぎて、あっけにとられて言葉が出なかった。
「小説は往来にそって持ち歩かれる鏡である」
混乱している黄金の頭に、さらに言葉が投げ込まれる。
たしか、スタンダールの小説に記載されていた言葉だったはずだ、と思う。
けれども、ここでスタンダールの言葉を引用する意味を量りかねる。
「と言っても、明星様の場合は詩集ですがね」
彼女の視線の先には、列車に乗って間もなく黄金が読んでいた詩集があった。
手に持っていた缶を傾け、白い喉を見せながら、残りを一息に飲み干した後、小月が言う。
「ジョージ・ゴードン・バイロン」
「えっ」
「これだけだと伝わりませんかね。では、それはひとまず置いておきましょう」
横に置いておいて、といったジェスチャーを見せてから、小月が続ける。
「明星様は嘘というものにあまりいい印象をお持ちではありませんか?」
再び繰り返す。
黄金は返答に困った。
そもそも、嘘にいい印象を持っている人間の方が、少数派なのではないだろうか?
詐欺、虚言癖、妄言、欺き、と黄金の頭に思い浮かんだ関連ワードだけからでも、あまりいい要素が見当たらない。
そのくせ、人は誰しも些細な嘘をつく。
おそらく、生まれてから死ぬまで一度も嘘をついたことがない人間などいないのではないか。
にもかかわらず、他人の嘘にはかなり敏感だ。
「そんなに難しく考えなくて大丈夫ですよ」
そこまで黄金が考えていると、じっと見つめていた小月が、心を解きほぐすようにそう言った。
「あまりよくないんじゃないでしょうか」
自然とそんな言葉が黄金の口から出ていた。
自分で言っていて、滑稽になる。
よくもぬけぬけと。
どの口でそんなことをほざいているのか、と。
小月の控えめなほほ笑みを浮かべた唇が開き、思いのほか素直な声が応える。
「そうでしょうか。うちは、そうは思いませんよ」
揺らぎのない口調だった。
「どういうことですか?」
「陰惨で理不尽極まりないそんな現実には、すこしばかりの嘘も必要なのではないでしょうか?」
問われて、なんとなくこれ以上自分も納得がいっていないことを言う気が削がれた。
かといって、前言を撤回するのもなんだかためらわれた。
小月の小鼻がわずかに膨らむ。
「サンタクロースがいるなんてことを、子供に教えるのも嘘のひとつですしね」
「はぁ」
黄金はあいまいな相槌を打った。
ここで、「サンタクロース自体は実際におり、サンタクロース協会なるものも一応あるにはありますがね」などと口にしてはいけないことはさすがにわかる。
「けれども、誰かを傷つけるような嘘なら、それは絶対に明らかにしないといけません」
声には暗い火のような執念とわずかなとげが含まれていた。
何か穴のあいたような、ひどく表情を欠いた目だった。
小月はハンカチを取り出すと、唇に付着した泡を神経質そうな手つきでぬぐいとった後、口を開いた。
「嘘とは何か。それは変装した真実にすぎない」
「えっ」
「明星様が読んでおられる詩集の作者が残した言葉を、日本語に訳したもののひとつですよ」
言われて、黄金は机上に置いていた本に視線を寄越した。
それはバイロンの詩集であった。
小月が言い添える。
「うちは、明星様がその詩集を持っておられるのを見て、嘘について明星様がなんらかの悩みを持っておられるのでは、と推測したのです」
「あっ」
もつれていいた糸が全部繋がった。
小月がスタンダールの言葉を口にした理由がようやくわかった。
実際の言葉の意とは異なるかもしれないが、その小説、いや今回の場合は詩集であるが、が今の黄金の悩みを表しているのではと考えたからだということに。
そして、彼女の推理は当たらずとも遠からずといったところであった。
そのなにかを見抜く眼力に驚嘆する。
だてに自分は観察眼が鋭いと言っていない。
「でも、意外でした」
「意外?」
「そうです。明星様は嘘を許容なさる方だと思っておりましたから」
何を根拠に。
そんな言葉が、ふいに喉の奥で立ち往生したのはーー
「うちのクロッキー帳の最終ページ、本当は見えていましたよね」
体温が一度くらい上昇した気がした。
その鋭い言葉に黄金は瞬間凍りついたものの、すぐに愛想笑いを浮かべた。
「本当に見えていませんでしたよ」
「そう、でしたか」
彼女は、無表情で机上に置いていたクロッキー帳をゆっくりと繰っていった。
その視線はクロッキー帳を見ているようでもあり、またそれを通して何か別のものを見ているようでもあった。
徐々に、徐々に進んでいき、今や残されたページはもうわずかばかりしかない。
最後のページが近付くにつれ、だんだんと繰るスピードが遅くなった。
しかし、残り数ページは一気に繰られた。
実際のところどうかはわからないが、黄金はなんとなく小月がわざと最終ページを飛ばしたようなそんな気がした。
黄金が顔を上げると、小月と目が合った。
彼女は黄金を見つめ、意味ありげな微笑を浮かべる。
彼女の眼の急激な変化にたじろぐ。
さっきまでの柔和な光はもはやない。
そんな彼女の瞳を通して、黄金は、小月を初めて見る人間のような目付きで眺めている自分に気付いた。
行きどころを失った想念が、神経を溶かしていく。
混乱に混乱が重なっていく。
喉が渇いていた。
「何かうちの顔にでもついていますか?」
首をかしげ、小月がじっと見る。
「いえ……」
黄金がそう返したときでさえ、小月の小さな唇だけが、沖合いに浮かんだブイのように居場所を変えなかった。
「うちの勘違いみたいですね」
言葉とは裏腹に、黄金のそれが偽りの言葉であることを、小月は本能で嗅ぎあてているような気がした。
彼女がなにか口にするたびに、身にまとった虚勢の鎧が剥がされていくような錯覚をおぼえた。
「最終ページのデザインはボツなので、あまり見られたくはなかったんです。見ていないという言葉が聞けて、よかったです」
小月は、ほっと小さな吐息をもらす。
「実は最終ページに描いた絵は、ジェームズ・アンソールにはまっていた時代に描いたものなのですよ」
おそらく、人の名前なのだろうが、黄金には聞き覚えがなかった。
「ご存じありませんか? 100ベルギーフランにも肖像画が採用されていたんですが」
100ベルギーフランなど、日常生活にかかわりないので、知らなくて当たり前か、と考えを改める。
「油絵でございますので、よほど絵画が好きでないとわからないかもしれませんね」
油絵だ、という新たな情報を提示されてもわからなかった。
ただ、黄金に理解ったことはそのジェームズ何某氏の作品に、首吊りをモチーフにした作品があるのだろう、ということであった。
「あぁ、でも明星様には最後のページが見えていなかったんでしたよね、すみません、独り言です」
その目の色に、黄金は背中がぞくりとした。
双眸には、蒼い炎が燃えていた。
「でした、よね?」
呑み込む唾が喉に引っ掛かった。
緊張感に口の中が乾く。
声も今まで聞いたことのない、冷たい響きを帯びていた。
彼女の中で形づくられていた小月とは別の生き物が、ふいに眼前に現れたような気がした
なにか得体の知れない生物が、彼女の内側に棲んでいるような気さえする。
次の瞬間に訪れた沈黙に、黄金は支えきれないほどの重みを感じた。
「でした、よね?」
黄金が黙っていると、もう一度小月は力をこめて繰り返した。
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