第45話 白檀
小月は淡々と問わず語りに話始めた。
「愚妹の会社なんですが、まぁ、愚妹自身が営業も兼ねていたとはいえ、さすがに営業の方々もいらっしゃいました。けれども、愚妹が
唇だけを動かすような言い方だった。
「それで、ある時、営業が誰もいないというのはまずい、という話になったんです。けれども、同種の業界というのは情報が早いみたいで、募集をかけても営業職が入ってくることはありませんでした」
「はぁ」
「うちが愚妹のように営業するしかない。そう思っていたときでした。古株と呼ばれる女性が他社で営業をやっていたという方を紹介してきました。そのお方が過去に働いていた会社は、うちでも聞いたことがあるようなところでした。誰でも知っているような会社だとなぜか安心感がありませんか?」
そうですね、と相づちを打つより他なかった
「雇用するとすぐにそのお方は、『もっと宣伝広告を打つべきだ。私なら、そちらに太いパイプがある。広告費を普通より安くでできる』とおっしゃいました。正直、うちはそんなことよりもっとするべきことがあるかと思っていましたが、古株の女性もそのお方に賛同しておりましたので、うちが否定することはかないませんでした」
小月が一拍間を開ける。
「理由は簡単です。うちはデザインだけをしているお飾りみたいな存在でしたからね。結局、わけもわからぬまま価額の記載された書類を決裁しました。それが終わりの始まりだったんです」
ほんの一瞬、まぶたの奥に固い顔つきをした少女が見えた気がした。
「かくして、そのお方が提案した有名女優を起用したコマーシャルは完成しました」
黄金はなにがなしに、相づちを打つことを忘れていた。
「完成後、請求書を確認して、驚きました。当初、うちが決裁した金額とは桁さえも違っていたんです」
車内のどこかで盛り上がっているのか、笑い声が響いた。
「なにかの間違いだと思い、うちはその芸能事務所にご連絡いたしました。すると、金額に誤りはない主旨の言葉を述べました。それどころか、その営業のお方が起用した女性にストーカー行為を繰り返していることをお伺いいたしました」
握った手が冷たい汗でぬるぬるとする。
「芸能事務所というところは怖いですね。最終的に示談という形で落ち着いて、慰謝料として多くのお支払いをすることになってしまいました」
小月の声が苦笑いに湿る。
「まぁ、訴えられなかっただけよっぽどマシなのですがね」
かすかに抑揚をつけて、つぶやく。
「多大なる広告費用の請求および示談金に対し、お支払いをして残ったのはわずかばかりでした。最終的にはうちの私財を投入し、労働者は即時解雇。その場で30日分以上の解雇予告手当てをお支払いいたしました」
黄金は小月が解雇について淀みなく話すのを意外なことのように思った。
「そういう知識を持っているのが意外ですか? 少々友人に労働関係にお強い方がいるんですよ」
口の中の空気を吐き出すようにして小月が笑う。
「愚妹の会社は利用された、という形になるんですかね」
小月は決然と言い、それから薄ら笑いを浮かべた。
公私の分別がついていない、そんな大人はいっぱいいる。
黄金自身役者時代に彼女や彼女の同期にサインを求めていたメイキャップアーティストを見たことがあった。
そういう者はその一度限りで、二度と姿を見せなかったが。
「とまぁ、そういうことで労働者は0名。会社にいまあるのは、その有名な女優様を起用したコマーシャルのみなんです」
「それは大変でしたね」
言葉にすると薄っぺらくなってしまうが、そう返すほかなかった。
すべてとは言わずとも、彼女の苦衷は十分に察せられた。
「はい、本当に大変でしたよ」
「それで、会社としてはその方に対し、どういった措置を取ったんですか?」
「退職していただいただけですよ」
どうしてそんなことを訊くのかとばかりに、小月はこてん、と首をかしげる。
なんですか、それ? とすっとんきょうな声を上げる黄金に対し、小月は、
「ご本人に対し、慰謝料を会社でお支払いする代わりにうちの会社にいたことさえなかったことにしてほしいとお話ししました。もちろん、これ以上ストーキング行為を続けた場合、次はないことも併せて」
と笑いかけた。
「さすがに、それは、お人よしが過ぎませんか」
黄金は思わず、あきれた口調になった。
「お人よしなんかではありませんよ。愚妹の会社に傷を付けたくなかったんです。だから、示談という方法を取ったんですから」
彼女はしめやかに言った。
「それに、うち一人だけなら、愚妹の会社がつぶれることはありませんし。お金はまた稼げばいいんです。それに、そういう方はたぶん、一生治らないですからね」
おやっ、と思うほどに印象が異なった。
いくぶんかの戸惑いがあったが、黄金には小月の姿が、今はむしろ歳相応、むしろ大人びてみえた。
「それにしても、営業って大変なんですね」
ぼそりとつぶやく。
「今日も余計なことを言ってしまい、商談が破談になってしまいました」
「余計なこと? 余計なことってたとえば、どんなことですか?」
自然と口から出た言葉がそれだった。
「んー、そうですね。人それぞれです。……自分で言ってしまうのもおかしい話なんですが、うち、観察眼が優れているんです」
小月が、顎の下を人差し指で撫でつつ、子守唄でも聞かせる調子で言う。
「観察眼?」
「デザインをしているうちに身についた能力なのですが、そのせいか気になったことをついつい訊ねてしまうんです」
「デザイナーとしては、それはいいことなのではないでしょうか?」
「そうですね。でも、日常生活ではあまりよろしくない能力ですよ」
「そうなんですか。小月さんから見て、私にも気になるところはあるのでしょうか?」
「ありますよ」
「差し支えなければ、お聞かせ願ってもよろしいでしょうか?」
「そうですね……。たとえば……明星様でいえば、白檀がお嫌いですか、と言ったようなことでしょうか」
身構える隙もなかった。
黄金は思わず顔をあげた。
「顔がお怖いですよ」
「あぁ、すみません」
『白檀』というワードを出され、罠にかかったような、騙されていたような、はなはだ落ち着かない気分だった。
つい先刻、針中野から彼女が白檀の香水を付けている理由について説明されたからだ。
黄金の心中で静かに沈んでいた堆積物が激しく舞い上がる。
先刻まで気にはならなかったはずの白檀のにおいが鼻をつく。
やはり、小月は針中野となにか関係があるのだろうか?
ふと疑念が
「すみません。やはり、余計なことでしたよね」
小月は小さな身体をますます小さくし、詫びた。
黄金は数秒間彼女を見つめ、激しい疑心暗鬼と戦いながら、訊ねた。
「どうして、そう思ったんですか?」
「息を吸うたびにすごく不快そうな表情をなさっていたので、このにおいがお嫌いだと思ったんです」
無意識にそんな表情をしていたのか、と気付かされる。
白檀自体に罪はない。
そんなものは黄金にもわかっている。
しかしながら、どうしてもその香りが裏切りを思い出させる。
「明星様には悪いのですが、うちは白檀って好きなんです。このように香水として使用しているぐらいですしね。そういえば、明星様は白檀の花言葉、ご存じですか?」
「すみません。ちょっと聞いたことがないですね」
「平静ですよ」
単語を舌で味わうように小月が発音した。
「平静?」
「そうです、平静です。いかなる理由で白檀を嫌っているのかがうちには分かりかねますが、気を落ち着かせるという意味では白檀はいいんですよ」
目からうろこが落ちた思いで、彼女の言葉を心の中で反芻する。
針中野が白檀の香水を付けている理由を聞かされてからは、あまりいい感情を持っていなかった。
それだけに、小月からもたらされた新しい解釈は、なんとなく、ちょっとしたプレゼントをもらったような気分にさせられた。
「あっ、今の言葉は無理に白檀を好きになってほしい、というわけではございませんからね。人それぞれ好悪はあるものですし」
慌てて、小月が付した。
でも、—―
「いい表情になりましたね」
言われて、黄金はいつの間にか頬のこわばりが消えていることに気付いた。
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