第44話 お酒は二十歳になってから

 プシュという音が黄金の耳に入ってくる。

 見ると、小月が缶ビールを開けているところであった。

 ハッとして、黄金はそれを横からかっさらう。

 口に運ぼうとしていた小月は、自身の手から缶ビールがなくなったからか、目を丸くしていた。

 が、すぐに回復して、--


「明星様も飲みたかったんですね。言ってくだされば、取りましたのに」


 そう言って、再び小月はレジ袋から缶ビールを取り出し、開封した。

 それも黄金は取り上げ、窓際に置いた。


「一本だと足りませんか?」


 軽くほほ笑みながら、小月はまた、レジ袋に手を伸ばした。

 キリがないと思い、黄金は今度は袋ごと取り上げ、頭の上に掲げ、届かないようにした。

 それに対し、小月は腰を少し上げて、袋へ向け無言で手を伸ばす。

 黄金はさらにそれを小月の手の届かないところまで遠ざけた。

 何度かその繰り返しをした後、小月は頬を軽く膨らませた。


「明星様、ご冗談が過ぎますよ」

「冗談ではありません。未成年がアルコールを摂取するのは、大人として認められません。たしかにそれぐらいの年齢はアルコールに興味を持つ頃だとは思いますが……」

「未成年? それはどなーー」


 大きく手で制し、毅然とした態度で黄金は言葉を続けた。


「やはり、法律違反はだめです。お酒は二十歳になってからです」


 それを聞いて、小月はぽかん、とした表情をし、すぐにため息とともに言葉をはき出した。


「明星様、本気でおっしゃってますか?」


 本気も本気だった。

 赤の他人とはいえ、未成年飲酒を黙認することなどできない。

 そんな黄金をよそに、小月はファンデーションを取り出したときのように自身の鞄を漁り始めた。

 しばらくすると、小月は鞄を漁るのを辞めた。

 彼女の手には、長方形の薄い板が握られていた。


「うちはとうに二十歳を過ぎてますよ」


 小月がその薄い板を黄金に向けた。

 何を言っているのだろうか、と思いながら、それを見る。


「……ってえええええええ」


 自身のものとは思えないほど、間の抜けた響きだった。

 車内の視線が一斉に黄金に向けられ、一瞬、なにごとかという表情を見せる。

 しかし、それもほんの少しの間だけで、皆すぐにまた自分たちの世界に戻っていく。

 先刻の驚きを一足飛びしてしまうような衝撃の事実であった。


「明星様、声が大きいですよ」


 自身の唇の前に人差し指を立て、小月がウインクする。

 薄い板ーー免許証に記載された生年月日からみるに、彼女は二十歳よりはるかに上であり、さらに言えば黄金よりも年上であった。


「これで、納得していただけましたか?」


 公的な疎明資料を出されるとなにも言えなくなる。

 黄金は黙って机上にレジ袋を置くと、開封されている缶ビールを小月に手渡した。


「ありがとうございます」


 受け取った小月は一本を机上に置くと、残りのほうを両手で包み、のどを鳴らしてうまそうに飲んだ。

 そんな姿を見ながら、黄金は思う。


 人は見かけによらない。

 対人関係の回路を洗練させなければならない業種で、基礎中の基礎ともいうべきことをなぜ忘れていたのか、と。


 なぜ、と自ら疑問を投げ込んでいるものの、その理由は明確にわかっていた。

 そんな思考が隅に追いやられるほどに、針中野の存在が頭の大半を占めていたからだ。

 けれども、それは言い訳に過ぎない。

 そんな事情は他人にはまったく関係ないのだ。

 黄金が素早く反省し、謝ろうと思った瞬間に、小月が口を開いた。


「たしかに、二十歳より上には見えませんよね」


 唇の端を少し歪めて笑う。

 黄金は一瞬あっけにとられたが、すぐに立ち上がり、頭を下げた。


「失礼な間違いを申し訳ありませんでした」

「お気になさらないでください、慣れてますから。それよりも、座ってください、明星様」


 黄金は言われたとおり、座席に腰を下す。

 やんわりとした口調のなかの刺に黄金は黙した。

 沈鬱な空気があたりを覆う。


「二十歳ですか。ずいぶんと遠い昔のことのように思えますね」


 ぽつり、と小月がこぼした。


「そういえば、うちが『Hi「∀∀」(ヒラール)』に入ったのも二十歳だったんですよ。いや、入ったというのは語弊がありますね。愚妹がうちのために創立してくれたんですから」

「創立した?」

「そうですよ。冷静に考えてみてください。異性恐怖症の人間が、普通の会社で働けるとお思いですか?」


 たしかに小月の言っている通りだった。

 彼女の反応を見ている限り、異性と言葉を交わすのさえ、苦痛を感じているのがうかがえる。

 そんな状態であれば、たとえば、上司に男性が来ただけで詰む。

 いや、そもそも、入社してからの心配をするよりも面接の時点で男性がきただけでもう終わりだ。

 そんなことを黄金が考えていると小月がほほ笑む。


「理解していただけましたか」

「もともと、愚妹は、『Y∀N∀∀il(ヤナーイル)』というアパレルブランドで代表を務めていたのですが、うちのためにその席を譲ったんですよ」


 声にはうれしそうな感情がこもっていた。


「愚妹は代表として、目から鼻へ抜ける才覚ははっきり言ってありませんでした。むしろ、誰にも伝えず自ら現場に出て営業をしたりと、部下の方々を大変困らせてましたね」


 くすり、と笑みを漏らす。


「けれども、愚妹は、会社に、うちの隣に、そしてこれからの未来に必要な人材でした……」


 小月は、手の中の缶を見つめていた。

 彼女はその小さな隙間の中に過去を見つめているようだった。

 横顔に憂いが浮き、悲しさが横切る。

 言葉がか細くとぎれどぎれに揺れて、消えていく。


「……本当に愚妹でした」


 よく聞くと、その声は、そう言っていた。

 黄金は小月の言葉の中に含まれる過去形に気付く。


「先刻、現在、社員数が0名とうちは明星様にお話しいたしましたよね」

「はい」

「お恥ずかしい話ですが、それは愚妹が死歿したからなんです」


 小月の顔が一瞬、風にあおられた蝋燭の炎のように暗くなった。

 だが、すぐに風がやんだように朗らかさを取り繕った。


「どういうことですか?」


 言ったあとで、黄金は後悔した。

 他人の私生活に干渉するのは、自分の得意とするところではないと思い直したからだ。

 さらに言えば、死歿というワードが出てしまった以上、明るい話になるはずがないことにも気づいた。

 小月はいっとき間をおいて、缶に口をつけてから、おもむろに口を開いた。


「愚妹が死歿してから、うちは一時期副社長から祭り上げられるように、代表取締役社長になりました」


 一時期をことさら強調して、言う。


「そこでようやく気付きました」

「何にですか?」

「本当に愚かなのはうちの方だったことにです」


 小月が薄いくちびるをかみしめる。


「うちは、自分のデザインに自信を持ってたんです。愚妹が創立した会社とはいえ、うちがデザインをしているので、実際うちがいないと会社は成り立たないのではないか、と思っていたほどです」


 小月は饒舌だった。

 そして、繰返し「愚妹」という言葉を連発した。

 おそらく、そのことに自身では気付いていないに違いない。

 黄金は漠然とそう思った。


「だから、誰が社長をしても一緒だと思っておりましたし、気持ち的なものを度外視すると、愚妹がいてもいなくても変わらないと思っていました。けれども、それは間違いだったことに嫌でも気付かされました。数値って残酷ですよね」


 小月の顔に横翳が差す。


「目に見えて、業績は悪化しました。それもそのはずです。愚妹が社長であるにもかかわらず、頭を下げて仕事を取ってきてくれていただけだったんですから。気付いた時にはもう手遅れでした。結果、多くの方が自主退職なされました」


 黄金は黙って耳を傾ける。 


「笑ってしまいますよね」


 小月が顔の両側に垂れた髪を右手で分けた。


「それほど、愚かだったんですよ、うちは」


 心底そう感じているのだとわかる、しんみりした声だった。


「けれども、何名の方々はお残りになられたので、しばらくは続けていました」


 それを聞き、黄金の中で純粋な疑問がわいた。

 残った者がいるにもかかわらず、なぜ現在の社員数が0名なのか、と。

 すぐにその謎は氷解した。


「ですが、あるときひとり残らず解雇したんです」

「えっ」


 たちまち好奇心が、ふたを持ち上げて顔をのぞかせた。

 小月が缶の中身を、口に運ぶ。


「解雇の理由が気になりますか?」

「いえ、あの、えーっと、ン、ンン」


 気にならないといえば、嘘になる。

 思わず口に出しそうになって、黄金はせき払いでごまかす。


「大丈夫ですか?」

「すみません。のどになにか引っかかってしまったみたいです。失礼いたしました」

「そうでしたか」


 考え込むような表情を残しながら、小月は深い息を喉の奥にこめ、強くゆっくりとはいた。


「簡単ですよ。賃金がお支払いできなくなりそうになったからです」

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