MARS〔マーズ〕
「きみはどこにいるの」
彼がつぶやくのが聞こえる。
私はずっとここにいるというのに、遠く離れた彼にはるばる会いに来たというのに、見えないのだと言う。
最初はふざけているのかと思った。
しかし、どうも様子がおかしい。私からも彼が見えないのだ。
……座標は確かに目の前に、ほんの手の届く場所に、彼がいると示している。
「なんでだろう……目の前に。確かにいるはずだよ。」
私の後ろには土煙を立てている宇宙船。視界はそんなに良くないが、それにしたって見えないのはおかしい。
「見えなくていいんだ。僕はここに来たとき、ルールに従って彼ら……いや、"僕ら"の姿になった。波長が違うから見ることはできない。絶対来てほしくて、黙ってた。ごめん……。」
うなだれる(見えないがおそらく)彼がいるはずの場所に彼の姿を想像しながら、私は衝撃を心の中で抑えていた。
『やりたいことがあるんだ』と真剣な顔で旅立った彼の横顔を思い出す。あのとき、姿を変えることまで覚悟してこの星に移住する選択をしていたのか。なんという決意だろう。こんなことになると分かっていたら、私は反対しただろうか。
「……愚問だな。」
「え?」
「あ、ごめん。こっちの話。それで……そうだ待ってね、ゴーグルで見えるかもしれない。」
私は人間がその目で捉えることのできない紫外線や赤外線、そして電磁波もキャッチできるゴーグルを宇宙船へ取りに戻った。波長を調整したりモードを変えたりしながら彼の姿を捉えようとする。見えないなら見えないでいい。でもやれることはやりたい。
どうやら先程私が立っていた場所あたりに、影が見える。おぼろげな光の点の集合に過ぎないが、それはひどく私を安心させた。
「すこし見えたよ。そこにいるんだね。触れられるかな。」
歩み寄る私はなつかしいぬくもりを求めて、彼の姿に手を伸ばす。だがその手は虚しく空を切った。
「僕らが共有できるのはたしかにここにいるという事実だけなんだ。大事な話がある。聞いてほしい。」
声とこの空間だけがつなぐ奇妙な会話。霊感は少しも無いから知らないが、幽霊と話せたらこんな感じなんだろうか。
火星での仕事が軌道に乗ってきたこと。ここのルールにもだいぶ馴染んだこと。これからの夢に私の存在が不可欠なこと。とうとうと、彼は語る。
「勿論、それはあくまで僕の希望だ。ましてやこんな……姿まで変えて、一緒にここの住人になってほしいと、そう頼んでいるんだ。生活習慣だって、仕事だって、勝手が変わる。もし……それでももし、僕とともに生きてくれるなら、家族になることを前提に、ここに移住してきてください。」
ゴーグルごしに、彼の影が動いたのが分かった。ひざまずいているらしい。こんな遠い星に来ても、古い習慣を採用するんだな、とどうでもいいことを考えながら、私は呼吸を整えた。
おとぎ話のヒロインなら、秒でOKするところなのは知っている。だが私たちは新しい時代に生きる対等で自由な個人として星を超えて愛を育んできた。地に足をつけて真剣に向き合って話し合うんだ。心に不安と不満を抱えながらイエスなんて言って、不幸になれば私の責任だ。
「……一週間後、またここに来て、返事をする。
私も、きみと生きられるように努力してみるから、少しだけ待ってて。」
土煙を舞い上がらせて飛び立つ宇宙船を、見送る彼の姿は見えない。ただただ座標が、存在を知らせてくれるだけだ。
これから火星人の形態で仕事が続けられるのか調査して、その制限と彼との暮らしをはかりにかけて。親兄弟や友達と会えなくなることを覚悟して。そして、ああ姿。"彼ら"はおよそ人影とは言いがたい姿をしている。どちらかと言えばタコやイカの方がフォルムが近い。ゴーグルではほぼ判別できない程度の姿しか捉えられなくて良かったと思う。鮮明な姿であったなら、私は正気を保って話せていただろうか。……今の自分の姿形を捨て、あの姿になり果てる覚悟はできるのだろうか。できないならできないでいい。とにかくできることは全てやってみることだ。
長い息を吐きながら、遠ざかる赤い惑星を見つめた。オート操作に移行した宇宙船は、まっすぐに馴染みの青い惑星へ帰っていく。近い未来、あの荒涼とした赤い星へこうして帰る私がいるのかもしれない。それはどうしても受け入れがたかった。
「どうすればいい」
抑えきれなかった声が、船内に響いて、消えた。
―END―
これは本当にありえないことなんだけど 紡(つむぐ) @pathetique
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