最終話  白狼の毒、回る

 五月一日土曜日の夕方、修二はひと月ぶりに一人娘が待つ自分の家に帰った。

「お父さん……」

「信江、どうしたんだ顔色が良くないぞ」

「いやお父さんこそおかしいよ、そんなに疲れた顔をして」

 確かに、信江の顔の血色は余り良くなかった。だがそれにも増して修二の顔には疲労感が濃くにじみ出ていた。

「新しい環境に馴染むのは大変な物だ、年を取ると尚更だ」

「……うん、そうだよね」

 一ヶ月顔を合わせないだけでここまで変わる物なのであろうか。赴任する小学校は三校目である修二だが単身赴任の経験は初であり、信江とひと月顔を合わせない生活は初経験だった。もちろんそれがいい事なのか悪い事なのかはわからない。

「唐突に帰って来ながら随分な物言いだが、少しゆっくりさせてくれないか」

「ここはお父さんの家でしょ、何をかしこまってるの?」

「いや何……ぐうたらしているお父さんを見たくないだろうと思ってな」

「いいじゃない休みなんだから」

 妻を早くに失った事もあり、修二は休みの日でも家事などでまめまめしく動いていた。休みにようやくゴロゴロできるようになったのは信江が高校生になった十年前ぐらいの事である。

「お父さんもさあ、もう若くないんだから」

「知っている、だからこそ教員生活最後の賭けとして白岩小学校に赴任したのだ」

「…………………」

「どうしたんだ一体」

「いやね、これ……友達に勧められて買った小説なんだけどさ」

 信江は修二に一冊の文庫本を差し出した。信江が言うには、個々のシーンの描写などは良いものの、主人公の女性の姉が余りにも都合よく動き過ぎでいささかならず不自然なストーリーだと言うのだ。

「それをその友達に言ったらさ、タイトルの時点で察しろだって。お父さん分かる?」


 その本はデエマと言うタイトルだった。裏には主人公の女子大生がバイト先でデエマと言う謎の言葉を使う年上の男性と出会い、紆余曲折を経ながら恋愛して行く姿が描かれている旨書かれていた。デマではなく、デエマ。なぜデエマなのか。作中ではディア・エマと言う外国の恋愛小説をモチーフにしたドラマの様な恋愛をしてみたいと言う相手の男性の願望が込められた言葉であったが、わざわざそんな略し方をする必然性は小説の登場人物以外にはないはずである。

「……お前、デウス・エクス・マキナって言葉知ってるか?」

「知らない」

「古代ギリシャの劇で登場する、混乱した状況をいっぺんに収めてしまう機械仕掛けの神の事だ」

 デウス・エクス・マキナ、その頭文字を取ってデエマと言う事か。確かに主人公の姉が全ての苦境をいっぺんに覆すデウス・エクス・マキナであると考えれば都合良さも納得行くと言う物である。

「最初からそういう物だと言う事を説明するべきだったのに、説明が足りんなその友達は。まあ割り切って読めば面白いのだろうな、あくまでもフィクションかつ夢物語として」

「そっかぁ……なるほどね」

「で、悟君はどうなんだ」

「悟ねえ……最近すれ違いが多くって」

「有給は申請したのか」

「労働者の権利だって事は知ってるけど……どれだけ取ればいいのかわからなくて」

「まさかとは思うが悟君が全部使ってしまったって言うんじゃないだろうな」

 勤続三年目の信江には去年の分だけで十一日分の有給休暇があり、そして勤続五年目の悟には去年の分だけで十六日分の有給休暇があった。それは労働者に与えられた権利であり、行使すべき物である。

「……わからない」

「わからない?悟君から何も聞いてないのか!」

「お父さんに言われてからずっと考えてて、言い出そうと思ってたんだけど言えない日々がずっと続いて……」

「全く、お前ももう二十五だろう!いい加減にその程度の事は素直に言うべきだ、それぐらいの意志がなければこれから大変だぞ」

「うん……」

 交際一年で籍を入れ、倦怠期を迎える前に妻を亡くしてしまった修二には交際二年半になる信江と悟の今の状態と言うのはいまいちわからない。修二が妻と付き合ってから二年半と言うと、信江の妊娠が確認された頃であり生まれる子の為にも精一杯働かねばならないと躍起になっていた時期である。




 夜八時、仕事を終えて悟が帰って来た。悟もまた疲れた表情である。

「ああ、修二さん」

「どうなんだ最近、信江とは」

「信江ですか、もうそろそろ籍を入れてもいいなと思ってるんですがいかんせん」

「いかんせん何だ?」

「どうにも正直機会がつかめなくって……」

「信江に籍を入れようって言ってないのか?」

「うーん……」

「まったく、君たちは実に似合いの二人だな」

「ありがとうございます」

 そしてやはりと言うべきか、悟も信江との交際に行き詰まりを感じていた。今の悟には修二らしくもない見え見えの皮肉を解する余裕もないようだ。

(こんな時、親として背中を押した方がいいのか……お前だったらどうする?)

 もうそろそろ自立させるべきだと言うのはわかっている、でも親として最後の任務を果たした方がいいとも思っている。どうすべきなのか、修二は妻の遺影に手を合わせながらそんな事を考えていた。ひと月ぶりに見た妻は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。妻の為にも何とかしたい、だが答えが出て来ない。

「やめた、まだ明日がある」

 結局先延ばししかできなかった。年を取って決断力が鈍っていた、そう言ってしまえばそれまでだが実際わからないのである、それに面子と言う物もあった。娘に自分の意志で決めろと言った手前、自分が他者の意見を聞いていては親の顔はない。


 そんな状態だから、横になっても全然眠れなかった。娘から借りたデエマと言う小説を読んでみた物の、大して面白くもないのにも関わらず全然目の冴えがなくならない。どうせどんな困難があろうと姉が助けに来てくれるのだろう、救いに来るのだろうとわかっている。なのに読んでしまう、ページをめくる手が止まらない。もういいかと思いながら読み続け、結局最後まで読み終わって気が付くと五月一日があと五分で終わる所だった。本を閉じてトイレに立ち寝床に戻って目を閉じながら、どうしてこんな面白くないはずの本を最後まで読んでしまったのか考えた。

(面白くないと思っているのは勘違いか……?先が読めるのにもかかわらず止まらずに読んでしまうのは何故だ?)

 求めていたと言うのだろうか、こんな作品を。危機に陥る度に誰かが助けに来て何とかしてくれると言う、余りにも甘ったれた他力本願の話を。あるいはと恐ろしい方向に考えが及びそうになった時、首尾よく瞼が重くなったのを気にそのまま眠りに落ちてしまう事にした。


 だが午前三時、突如ガタンと言う音が鳴り響いた。修二が目を覚まして音の方へと向かうと男性らしき影がタンスを漁っていた。

「泥棒だ!」

 その声を上げたのは修二ではなく悟だった。悟が電気を点けるとその泥棒は台所へ走り込み包丁を手に取った。

「まずい、居直り強盗だ!」

「信江は僕が守る!」

「信江……!?」

 信江と言う名前を聞いた途端その強盗の目がぎらついた。

「ったく、この俺が幾十幾年独り身だっつーのにお前は彼女と同棲かよ、しかも彼女の親父と思しきおっさんの家に……!許せねえ、許せねえ!金なんかどうでもいい、その女を滅茶苦茶にしてやる!」

 恨みの籠った声色で呟いたその強盗は包丁をぎらつかせながら信江と悟が一緒に寝ている部屋へ走り込んだ。

「おいおっさん、この包丁が目に入らねえのか!」

 修二は台所にあったお玉やまな板、皿などを強盗に投げ付けた。その結果皿がものの見事に顔面に命中し、強盗は包丁を落としながら倒れ込んだ。

「信江!」

「悟さん、強盗……!」

「ああ、最初はただの泥棒だったけど僕が信江の存在をばらしてしまったせいで信江を標的にして来たんだ、ごめん信江」

「いいの悟さん、真っ先に私の名前を出してくれたんでしょ?お父さんには悪いけど…私やっぱり悟さんが好き!」

「畜生!俺とあいつの何が違うってんだ!」

 悟と信江がお互いの無事を確認し合い安堵する中、強盗は修二に馬乗りになられたまま恨み節を吐いた。そんな中、修二はいきなりその強盗の胸倉を掴んで拳で殴り始めた。

「お父さん!」

「貴様……その様な性根だから女性が寄って来ないのだ!自分の幸福を手に入れるより人の幸福を破壊しようと考えるような思考の人間を好きになる奴はいない!その程度の事もわからんのか!」

「う……あ……」

「織田信長はな、一銭斬りと言う一銭でも盗んだ奴は即死刑と言う法律を出した!人が汗水流して蓄えた財貨を盗む事がどれほど悪しき事か、お前は分かっているのか!分かっとらんからこんな馬鹿をやったのだろうがな!」

「悟さん通報!」

「あっうん!修二さん落ち着いて下さい!」

「貴様には法の裁きが下されるのだ、私利私欲によって秩序を犯した輩には天罰が下されるのが世の中と言う物だ!」

「はい……」

「返事が小さい!」

「はいっ……」

「聞こえない!!」

 確かに一人娘の命を狙おうとした相手とは言え、修二の強盗に対しての怒りは凄まじかった。親の仇と言う言葉さえぬるく感じるような、先祖代々彼一人によって不幸になって来た相手にぶつけるかのような憎悪を修二は強盗に見せていた。そこに、家庭や学校で見せていた温厚で懐の広い教師の姿はなかった。










「この狼めが…………!」

「狼が何か……?」

「いや何、あそこまで無慈悲で残忍な輩を見てついそう思っただけだ、気にするな」

 狼。パトカーに連れ込まれる強盗に向けて修二はそう吐き捨てた。悟に対し修二は努めて平静を装いながらそう取り繕ったが、目はまるで野犬のように鈍い輝きを放っていた。

(白狼めが……!私について来たとでもいうのか!私が取りなしてあげますからご安心くださいとでも言いたいのか!)

 修二が手を上げたのは強盗が娘の命を狙おうとしたからではない、強盗が自分に馬乗りになられながら反省していなかったたからでもない。悟と信江の発言である。

 自分がいない間にこじれていたらしい娘と恋人の仲が、自分がどうしようかと逡巡している内に、そんな事情などまるで知らない強盗が乱入して来たせいで良い方向に進みそうになって行く。まるで白狼がちょうど自分が家に帰っている時を見計らうかのように意図的にあの泥棒を家に送り込み、自分の娘の恋愛を進展させると言う一つの成果をもって自分を受け入れさせようとしている様に思えて来る。もちろん邪推と言えば邪推なのだろうが、自分を含め肉体的には誰も傷付かなかった事が尚更腹立たしく思えて来る。物的損害と言えば強盗の顔面に当たって割れた皿一枚であり、人間の命と比べれば余りにも微細である。そうやって損害を最小限に抑えるのも白狼のやり方であり、白狼が反感を捨てていない自分を何とか服属させようとしているように思えてならなかった。

「お父さん、安心したら私眠くなっちゃって……」

「…………若いっていいな、私は興奮し過ぎて寝付けそうにない」

「大丈夫です、修二さんはゆっくり昼間まで寝ててください。たまにはいいでしょう」

「あ、うん……二人ともお互い言いたい事があるんじゃないのか?」

「そうだった、今度」

「結婚しよう」

「えっ」

「修二さん、いえ、お義父さん、お願いします」

「…………わかった、信江を頼むよ」

「お父さん……」

「信江、お前の気持ちはどうなんだ」

「私も悟さんの事が好きだから……結婚しましょう」


 そして二人はこの場でプロポーズを行い、結婚する運びになった。良い方向どころか、最高の方向である。あのままの状態が続けば最悪別れるまであったかもしれなかった二人がである。正直、修二は全然晴れがましい気分になれなかった。

 修二の目からは鈍い輝きが放たれており、とても娘を嫁に送り出す父親の顔ではなかった。どちらかと言うと、突然現れた男に対してお前なんかに娘はやらんぞと睨んでいる父親の顔である。

















「…………なぜまた?」

「なぜまたも何も、教師は体が資本でしょう。教師が心身ともに健やかでなくば健やかな心を持った児童は育ちません!それは当然の摂理と言う物でしょう」

「はあ……」

 家を離れてマンションに戻るや否や、修二は白岩小学校の近くにあるトレーニングジムへと足を運んだ。半ば強引に連れ込まれた城田は、熱心そうに入会手続きを読みふけりながら熱弁を振るう修二を呆れたように見つめながら溜め息を吐いた。

「そう言えば副校長先生の娘さんって再来週結婚式を挙げるんですって?」

「ああそうですけど」

「そうなるとほどなくして副校長先生も文字通りのお爺さんになるんでしょう、もう少しゆっくりしても……」

「私はまだ中年です!人生八十年の時代に五十五歳ぐらいで老け込んでいられますか!城田先生こそ早くしないと危ないですよ!」

「まあねえ……今度校長先生の仲立ちで六年一組担任の緑川先生とお見合いしようかと思ってるんですけどね」

「職場結婚ですか」

「お互い気心はある程度知れてる同士ですし」

 修二も緑川と言う女性教師の事は知っている。彼女もまた七年間の教師生活をずっと白岩小学校で過ごして来た人間であり、城田よりはましだが彼女もさほど仕事熱心ではなく資質はともかく気力には乏しかった。

「とにかく、私は入会するつもりですが城田先生は?」

「えーと……もう少し考えます」

 もしこの時修二の目の前に鏡があったら、修二はジムへの入会を思いとどまったかもしれない。だが、彼の目の前に鏡はなかった。城田が自分を崇敬の目で見つめている事に気付かないまま、修二はジムへと足を運んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白狼小学校 @wizard-T

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ