第12話  白狼、牙を折る

 修二は白狼に向かって力で解決しても意味がないと言ったのだが、全身校庭の砂まみれになった守子には自分に向かって言っているように聞こえた。実はこの時校長は守子の義父が社長・亭主が部長を務めている企業の専属弁護士に校内で迫られていた。言うまでもなく小学校にその弁護士を駆り出したのは守子であり、法律と言う人工的なそれとは言え守子が力を振りかざしている事は間違いなかった。そして守子自身もまた、児童を預ける親と言う権力をもってこの休日に合計三人の教師を学校に引きずり出している。そして副校長の修二はと言うあれほどまでに真摯に頭を下げていたくせにいざ白狼が現れたとなると全く無力な風を見せ、そしてちょっと言葉を交わしただけで白狼に自分を解放させた。余りにも都合良く進み過ぎている。

 大体、初めて白狼が現れてから十五年になると言うのに何の対策もせずこの化け物をのさばらせて来たのは誰の責任なのだろうか。もちろん保健所や警察その他の責任がないとは言わないが、最大の責任がこの小学校にある事は明白である。新任とは言えひと月もあれば校内の事情をある程度把握できるはずであり、白狼とか言う化け物の御し方も先達の人間たちから教わっているはずだ。そして青木と城田が平然としているのに対し修二はひどく動揺していた。修二は他の二人よりはるかに自分の存在を恐れている、だからこそ白狼を使って自分を懲らしめてやろうとした。守子の頭はほとんど数秒の間にここまでの結論を出させるほど急速に回転していた。

「もしもし警察ですか白岩小学校で化け物が暴れ回ってましてすぐ来て下さっ…いっ!」

 守子は自由になった手で懐から携帯を取り出し110番に電話をした、だがそれと同時に大人しくしていた白狼が再び守子の袖を咥えて走り始めた。

「やっ、やめろ何故だ白狼!」

「何故だ!?よくもまあそんな言葉が吐けますね!」

「どういう事ですか!」

「副校長先生は白狼と示し合わせていたんでしょう、私にどうしても頭を下げさせ自分が悪くない事を証明するために!」

「どうしてそうなるんですか!」

 白狼が修二の言う事を聞いたのは、修二は傷つけてはならない存在であると白狼が勝手に判断しただけの、全くもって一方的な話である。動物保護団体の人間が保護せんとしている動物が、相手が自分を保護しようとしている事に気付かず攻撃するのと全く同じ理屈である。

「来たか」

 この大混乱の状況をまるで表情を変えずじっと見つめていた城田であったが、校門から一人の人間が小学校の構内に入って来ると視線をそちらに移した。




「ママ……!」

「も、桃太郎……!」

 綾野桃太郎だ。

「桃太郎君、なぜここに来たんですか!」

「私が呼びました。正確には音川君がですけどね、そうだろ?」

「ちょっと待った、まさかとは思うが君は母親がこんな事になっているって知ってて来たのですか!」

「はい」

 母親がこんな姿になっているのを承知で来たと言うのか。母親がこんな状況なのを知っていて息子を呼び付けた城田も城田であるが、その状態を知っていてなおわざわざ見に来る桃太郎も桃太郎である。守子が言ったように未だに足の裏が痛いのか歩き方はぎくしゃくしている桃太郎だが、それ以外はいたって普通だった。修二が内心頭と胃を痛めながら城田の方を見やるが、まったく動揺している素振りはなかった。

「桃太郎!早くこの化け物を止めなさい!」

「やだ」

「やだ!?無理だよならともかく、やだってどういう意味よ!」

「ごめんなさいって謝ったら助けてあげる」

「誰に謝れって言うの!?」

「城田先生と副校長先生、校長先生、そして音川君。僕はちゃんと謝ったよ音川君に」

「ちょっと!何で謝ったの!桃太郎にしつこく絡んで来たのがいけなかったんじゃないの!」

「でも僕が普通にやめてくれって言えば良かったんだ、それを殴るような真似をしちゃったからいけないんだ!僕が音川君を殴ったのはママのせいだからね!」

「どうしてそうなるんですかっ!」

 校庭を引きずり回されながらも悪罵をやめようとしない守子と、白狼信徒のようになってしまった桃太郎。これだけでも白狼の罪は重いなと思いながら何とかして副校長たろうと桃太郎の暴論を修二はたしなめようとする。

「副校長先生は知ってるよね、サウンドレンジャーって」

「一応名前だけはね。でもそのサウンドレンジャーがどうかしたの」

「ママは絶対に見せてくれなかったんだ!そのせいで僕は……!」

 それが重大な問題なのかとは修二は言わない。そういう類の知識の多寡が彼らにとってどれだけ重要な事か修二はよくわかっている。しかし白狼が奏でる一方的な糾弾をBGMにしながら、その認識を深めた所でどうにもならないのも現実だった。

「あんな物なんかに時間とお金を取られる位ならば、勉強か運動をしてた方がよっぽど有意義よ!」

「僕が前の学校でいじめられてて、それが嫌だったからこの学校に転校させたんでしょ?その時僕はちゃんとママに言ったよね、覚えてるよね」

「よそはよそ、うちはうち!」

「ママがサウンドレンジャーを見せてくれなかったせいで僕はずっと仲間の輪に入れなかった、でも僕はママが好きだからずっと我慢してた、ずっと言わなかった。でも二学期の終わりに我慢できなくてママが見せてくれないんだって言っちゃったんだ」

「正直で何が悪いの!」

「そうしたら僕がマザコンって言われただけじゃなく、ママがサイレンゼロ世とかツーオンのママとか馬鹿にされるようになっちゃったんだ!もちろん僕が悪いんだけど、大好きなママがそんな風に言われるのはもっと我慢できなかった!」

 サイレンもツーオンもサウンドレンジャーの宿敵だった。子どもたちにとりサウンドレンジャーを頑なに排斥せんとする守子は、文字通りの悪役だったのだろう。そしてその事がどれだけ桃太郎を傷つけて来たのか想像に難くはない。とは言えこんな暴虐行為を正当化するような理由はないはずだ。

「そんな雑音に耳を貸す必要はないの!」

「ママがそういうから言わなかったんだ、僕はいじめられているって言っただけでママが馬鹿にされてるなんて言ってないはずだよ!」

「どうして黙っていたの!」

「だって……ママが馬鹿にされてるのが嫌だったんだもん!そしてこれがばれたらきっとママはサウンドレンジャーの話をさせないようにって先生に言いに行くに決まってる。そうしたら僕はもうあの学校にいられなくなる、嫌だよそういうの!」

「綾野、もしかして音川がお前に迫って来てたのって」

「はいサウンドレンジャーの事です。どうしてそんなに嫌がるのかって」

「ママがって言ったらマザコン呼ばわりされるか逆に同情されるか、あるいはママが非難されるか……全部嫌だったんだな。気持ちはわかってやるがだからと言って暴力を振るってはいけないな」

「ごめんなさい……」

 城田の言葉の温かさと桃太郎の瞳からこぼれ落ちた液体が守子の心を苛み、修二を苛立たせた。二人して目の前で白狼が己が牙で実の母親及び自分のクラスの児童の保護者である女性を引きずり回しているのにまるで他人事その物である。

「桃太郎!あなたはそれでもママの息子なの!」

「もういい加減にして!ママが本当のママだったらとっくの昔に頭を下げて謝って全て解決してるよ!これじゃまるで妹だよ」

「妹っ…………!」


 桃太郎の妹と言う言葉に守子と修二が殴られた様な表情になったその時、数人の男性が校内に入り込んで来た。いかめしい装備を持った警察官だ。だが警察官がずらずらと小学校の中に入り込んで来たと言うのに、城田も桃太郎も全く表情を変えていない。

「あっ警察官の皆さん!この化け物を殺して下さい!」

「おじさんたち何しに来たの?」

「殺すと言っても」

「軌道は読みやすいようだからな、とりあえずこの犬と女性を引き離せ」

「引き離すったって」

「とりあえず囲むぞ」

 警察官たちがジュラルミン製の盾を構え白狼と守子を囲んで行く。そして一分もしない内に包囲網は完成した。一気に包囲網を縮めてジュラルミンの盾に白狼を衝突させようと言う作戦だ。

「よし、私の笛の音と共に一斉に前進する……どうした!」

「いやねえ、どうも近隣の住民の反応が鈍いんですよ。ここに来るまでの間に小学校周辺の住民に避難要請を出したはずなんですがどうも誰も」

「そんな事は後でいい!」

 笛の音が鳴った、修二が生唾を飲み込む中、城田はこれまでずっと続けていた無表情に初めて悲しみと寂しさの色を浮かべた。
















 …………何の音もしなかった。どの盾にも、何かが直撃したと言う感触がない。ちゃんと距離を詰めたはずだった、逃げ場などなかったはずだ。慌てて視線を内に向けると、相変わらず守子が引きずり回されている、だが引きずり回しているはずの白狼の姿はない。一体どこでどうやって。警察官も守子も修二も白狼の存在しているであろう場所に気付かなかった、いや気付きたくなかった。

「先生、白狼がお巡りさんをすり抜けてるよ」

「すごいなー、どういう力なんだろうな」

 そんな中城田と桃太郎はなぜこんな事がわからないのかと言わんばかりの調子で一見ありえなさそうな、だがまごう事なく今そこで起きている現実を容赦なく口から吐き出した。確かに白狼は警察官たちなど別次元の存在と言わんばかりに、守子の服の袖を咥えながら回り続け、守子を引きずり続けている。

 修二はこの時、全身がたがた震えていた。乱暴などと言う次元ではない、これは完全な拷問だ。守子に反省させるまでは永遠にやめる気はない、そして絶対にやめさせない。白狼の凄まじいまでの意志が修二を襲っていた。

 そしてそれと同時に、先程の白狼の従順な態度がなお恐ろしかった。


(私に絶望や嘆息は許されていないのか…………)

 赤山修二と言う立派な人間、子どもたちを良く育て上げる力を持った人間をこんな一人のモンスターペアレントで駄目にするなど絶対に許さない。修二にはこれまで通り立派な教師として子どもたちを導いてもらう。この一件で修二が負い目を感じる必要など欠片もない、悪いのは自分だから。白狼の口からそんな叫び声が聞こえて来る気がした。

 正しき人間は輝かしい未来を掴むべき、それを阻む者は悪。そして間違った者は己が手で矯正させ、正しき人間にする。それは教育の究極の目標である事は間違いない。だが実際問題、全ての子どもに百パーセントの能力を出させ百パーセントの幸福を掴ませるなど不可能だ。もちろん修二がその究極の目標を忘れた訳ではない。だがとうの昔に夢物語と諦めていたし、そしてこんな強引極まるやり方でその目標に達する事などできないとも思っている。

「やめろ白狼!こんな事をしたって私は嬉しくない!」

「どうしてなの副校長先生」

「桃太郎君、君はこんなやり方でうまく行くと思うのか!」

「ダメなの?」

「力で従わされた人間は大きくなると同じ事をしてしまう、だから説いて聞かせなければいけないんだ!」

「どうして同じ事をするって言えるの?」

「力で従わせれば人は言う事を聞く、そう心の中に擦り込まれてしまう。後からどう上書きしようとしても駄目なんだ」

「先生、もしかして白狼が嫌いなの?」

「好きとか嫌いじゃない、間違っているって言いたいんだ!」

 桃太郎の純粋な目線が修二を射抜き続ける。昨日白狼に襲われそして今現在進行形で産みの母親を引きずられ続けているはずの桃太郎が彼女をまるで気にかけていないかのようになぜ白狼を嫌うのかと訴えかけ、一方で直接的には何もされていない修二が白狼に対して嫌悪の念を剥き出しにし続けている。そして城田はと言うと相変わらず警察官たちを見つめていただけであり、その視線には寂寥と憐憫の念ばかりが浮かんでいる。


(だから言わない事ですか、白狼を大人しくさせる事が出来るのは守子さんだけ、彼女が素直に謝意を示す事だけが白狼の手を止めさせる事が出来るのです。守子さんが素直に過ちを認めごめんなさいと言って下さればこんな事をする必要などなかったのに、皆さん本当に災難ですね)


 自分を含む他者がどう手を出しても無駄だ、ただ自分の罪を認めればいいだけなのにそれすらできない守子に振り回されている警察官たちが城田はただただ可哀想で仕方なかった。修二に言わせれば、その思考自体白狼に対する信仰心以外の何でもない。身の程知らず、蛮勇、蟷螂の斧、いや太平洋戦争末期に生還どころか勝つ見込みさえない戦いを強いられる特攻兵。警察官たちが特攻兵だとすれば守子は原爆を落とされるまで無駄に意地を張り続けていた軍部か何かだろうか。

「城田先生、副校長先生は白狼が嫌いなんだって、どうしたら白狼の事が好きになってくれるかな?」

「うーん、先生たちが白狼の良さを教えてあげなきゃね」

「嫌いなんて一言も言ってない、やり方が間違ってるって言ってるんだ!」

「城田先生、白狼は副校長先生の事が大好きって本当なの?」

「そうだねそのようだね、どうしてその気持ちが伝わらないのかって白狼も戸惑ってるんじゃないのかなー」

 修二は別世界の住人の会話を聞いている気分になって来た。人間の形をした別の生き物が自分には理解できない決まりで動いているような気がして来る。頭と胃が痛み、目が据わり出して来る。

 そんな異空間に、また一人の人間が割り込んで来た。

「全くあの校長は理解に苦しむと言うか何と言うかうわああ!」

「ちょっと副校長先生どうしたんですか……あれ?」

「これはどういう事ですか!あれが白狼だと言うんですか!」

「うん」

「あそこまで守子さんを蔑ろにしている獣を放っておくなんて全く管理体制がなってませんね!他の児童の為にも」

 今の今まで青木に迫っていた弁護士であったが、まるで手応えのない青木に半分失望しながら一旦学校を後にしようとしたちょうどその時、初めて白狼の姿となし様を目の当たりにした。弁護士は当然の如く声を上げ学校の怠惰を責めようとしたが、その中途で突如うずくまりながら崩れ落ちた。股間を押さえながらうずくまる弁護士に向かって桃太郎は十円玉を落としながら唾を吐いた。

「桃太郎君!」

「他のみんなの為とか言って、全然悪くない校長先生たちを脅してお金をもらおうとしてるんでしょ!僕があげるよ、これで満足でしょ!いくら欲しいの!」

「そんなっ……桃太郎君、君はっ……!」

「白狼がいなかったら僕は自分が馬鹿をやっちゃったって気が付かなかったんだ!その事を気付かせてくれた白狼に感謝しちゃいけないの!あっいけないんだね、そうするとおじさんがお金取れなくなっちゃうから」

 桃太郎の顔も、城田と同じそれになっていた。なぜ白狼の事が分からないんだろう。どうして白狼のことを悪く言うんだろう。そのせいでこんな事になってるのに、たったそれだけの事がなぜわからないんだろう。その絶対的な信仰心があるからこそ、母親が呼んで来た弁護士を金の亡者呼ばわりして股間を蹴り飛ばす事も出来たのだ。

「だからと言って人を蹴っていい理由にはならない!謝れ!」

「副校長先生ってもしかして人間じゃないの?」

「私は人間だ!」

「だってこのおじさんのせいで副校長先生まで危ないんでしょ?そんな事をする人間を守るだなんて、副校長先生は神様なんじゃない?」

「な、な、な……!」

「だったら白狼と仲良くしてよ!お願いだから!」

 桃太郎の目に涙が浮かび出した。お願いと言うより嘆願だ、僕は白狼も副校長先生も好きなのにどうして二人がこんなつまらない人間の為に争うのか理解できない、そんなの見たくないから仲良くしようよ。その桃太郎の必死の訴えかけが修二に突き刺さった。その訴えかけが突き刺さったままふらふらしながら修二が目線を明後日の方角に動かそうとすると、その先には警察官たちの青い制服があった。

「あのー隊長、もしかして白狼が我々をすり抜けているとか……」

「馬鹿野郎、そんな訳があるか!」

「でもその……」

「そういや言ってたよなあの子……」

「お巡りさんを……すり抜けてるって……」

 気付きたくなかった、白狼が自分たちをすり抜けて走り回っていると言う現実。警察官の一人がおずおずとその事実を口に出すと全員がキョロキョロし始め、そして数十秒続けていた包囲の輪を一旦広げ、すぐ縮めた。だが今度も手応えは何もなく、引き続き白狼が守子を引きずりながら走り回っているだけだった。

「落ち着け!守子さんを押さえてしまえばいい!」

 それでも隊長は意を決するかのように守子に向けて倒れ込んだが、守子もまた白狼と同じように隊長をすり抜けてしまった。

「CG……!?」

「嘘を吐くな!我々がこうやって取り囲んでいる中どこからこんな物を映し出した!まさか空からとは言わないだろう!」

「じゃあ何なんですかこれはっ!」

「本庁に連絡を」

「どうしろって言うんだ!」

 触れる事が出来ない以上、どうしようもない。そして、包囲していた警察官の内一人がついにパニックを起こしもうだめだと叫びながら逃走を始めた。それがきっかけとなり他の包囲していた警察官たちも一斉にパトカーに向けて走り出した。

「何をやっている!お前たちはそれでも警官か!」

「じゃどうしろって言うんです隊長!」

 隊長と呼ばれている年かさと思しき警察官でさえ腰が抜けそうになっているのを何とかこらえている状態であり、手足はがくがく震え顔からは汗が滝のように流れていた。

「申し訳ありません……どうすればいいのやら……!」

「僕の妹に言ってよ、迷惑をかけてごめんなさいって言いなさいって」

「だから妹って何なんですか」

「ママだったらこんなに駄々をこねないでごめんなさいって謝ってるよ、だから妹なの!僕は音川君に対して悪い事をしたからちゃんと謝ったんだよ、それができないのは大人じゃないんでしょ、ねえ副校長先生!」

「だとしてもこんなやり方は」

「ごめんなさい」



















 ついに、守子の心は挫けた。あれほど片意地を張り続けていた守子の口からその六文字が出た事により小学校全体の空気が一気に停止した。

「守子さんっ……!」

「ごめんなさい、私は桃太郎の事しか、いや桃太郎の事さえ見えてなかった。悪い親でした。その事を今の今まで全く気付かない独り善がりな人間でした。白狼がいなければその事に一生気付けないで終わっていたと思います。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」

 既に白狼は守子を口から離し、黙って座っていた。全身砂まみれの身体で涙を流しながら反省の弁を述べる守子の姿は何ともしおらしく、そして痛々しい。

「折角の休日なの皆さんをこんな我が儘に付き合わせて……貴重な時間を私などの為に無為にして本当に……!」

「ママ」

「桃太郎、ママと呼んでくれるの……?」

「うん、ちゃんと反省したからね。さっきはひどい事言っちゃったけど……ごめんね」

「いいの、ママの方が駄々っ子で桃太郎に手間を掛けさせたから……桃太郎をこの学校に転校させて本当に良かったわ…」

「ごめんなさい城田先生、赤山副校長先生、あと校長先生……皆さんの方がずっと真摯に息子の事を考えてくれていたのに気付かないで」

「私はまだ二十四時間しか桃太郎君に触れていないんですよ!たかがそれだけで」

「量より質ですよ……」

「お巡りさん……」

「あの、いやどうも周辺の住民の皆さんがまるで反応していなかったようで……正直大した事ではないのかも……では我々は失礼いたします………」

 すごすごと帰って行く警察官の背中を、修二は無言で見送るより他なかった。地元から来たわけではなさそうな人間たち、彼らもまた白狼の毒気にあてられてしまったのだろうか。もしかしたらその顔は城田や須藤と同じ物になっていたのかもしれない。

「弁護士さん!」

「奥様がそうなのであれば私の仕事はありませんよ、すみませんがお暇してよろしいでしょうか」

「はい……ごめんなさいお手を掛けさせた挙句こんな事に…………桃太郎、蹴った事とひどい事を言った事については今ここで謝りなさい」

「はい、ごめんなさいどうしてもママに先生たちと仲良くして欲しかったから……」

「そうかそれならばいいんだ」

「それでいいんですかっ!」

「副校長先生、何か問題でも?」

「いやその……別に……何も…………」

 この時、守子以外にも目を潤ませていた人間が一人いた、修二である。守子と違って本人以外誰一人その事には気付かなかったが、確かに修二の瞳は濡れていた。


(こんなやり方が……こんなやり方で……事が丸く治まると言うのかっ…!!)


 白狼は守子を引きずり続けると言う極めて物理的なやり方で守子に反省を促させた。

 端的に言えば、体罰である。


 そのやり方に対しやられた本人以下、誰一人疑問を抱いていない。自分たちには許されない、だが白狼ならば許される。公正で無私な白狼だと言う白狼だからこそ、どんな事をしても良いと言うのか。それは断じて公平で民主的な世の中ではない、白狼と言う絶対権力の支配する封建社会である。警察の警告に対し住民が耳を貸さなかったのは、白狼が自分たちを傷付ける訳がないのになんでそんなに騒いでいるんだと言う事なのだろう。十五年と言う歳月の間にすっかり根付いていた一匹の狼の力は、今や人間が作り出した公権力をも凌いでいたのだ。そしてその狼の力を利用して狡猾にも己が子の幸せのみを願った母親は、たった今その狼から罰を受けたのである。私利私欲をもって動けばこうなる物だと言う、余りにも分かり易い例が目の前に記されたのだ。














「何も問題はありませんでしたよ。まあ宿題をたくさん出したので少しブーイングを受けましたけどね」

 四月三十日金曜日の授業は四年二組を含め全てつつがなく終了した。あれほどの大騒動が昨日起きたはずなのに桃太郎や音川を含め誰もまるで気にしていなかったらしい。

 それは一年三組だって同じである。連休に宿題を出すのは全く珍しい事ではないし、その結果児童たちから不評を買うのもいつもの事である。そう、「いつもの」事しか起きなかったのだ。

「で副校長先生、連休はどちらへ?」

「単身赴任中なんで、たまには今娘が暮らしてる家にでも戻ろうかと……」

 修二はこの異常な空間から離れたかった。離れたらまた戻って来たくなくなるかもしれないと言う恐怖はあったが、それでもこのままでは精神が持たない気がしていた。

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