第11話 白狼が静まった訳
四月二十九日、昭和の日。だが修二に休む暇はなかった。守子に校長の青木・四年二組担任の城田共々白岩小学校に呼び出されていたからである。
「したくないけど、理解はしましたよ……でも」
あの後、守子は何かに憑りつかれた様に小学校の児童に電話をかけまくり、その結果息子が音川に暴力を振るった事を認めざるを得なくなったようだ。だがその事実を知ってなお、守子の頭は冷えていなかった。
「罪にはそれ相応の罰と言う物があるでしょう、どうしてあそこまでされなければいけないんですか!」
「あそこまでと言われても……桃太郎君の怪我は」
「足の裏の皮が少しめくれていて今は絆創膏を貼り付けている状態です!」
「ひっかき傷ですか?」
「いえ違います!」
「では我々に言われましても」
「関係あります、白狼に襲われた結果あの子は素足で家まで走って来る破目になったんですよ、おそらくその時に足の皮がめくれたんです!」
靴はあの後上級生が履かせてくれたらしいが、それでもショックでヨタヨタ歩きになった桃太郎は靴が脱げてしまい結局持って帰る事になった、その結果のようだ。
「逆におうかがいしますけど、桃太郎君は音川君に謝る気があるんですか」
「今はそんな話をしているんじゃありません!」
「桃太郎君が音川君を殴った事が始まりなんです、その事に対しての謝罪の言葉を私は聞いていません。昨日夜音川君の家に電話しましたけどそのような言葉がお母さんから届いたと言う報告はありませんでした」
「何を言っているんですか、こっちとしては音川君に謝ってもらいたいぐらいです!」
「確かに何かをしつこく聞こうとしていたと桃太郎君は言っていますが、一体何について聞いていたのか私は知りません。音川君は桃太郎君に対して何を聞こうとしていたんですか」
「知りません!」
「知らないでは困ります、するとなんですか桃太郎君がなぜこんな行為に及んだのか正確に把握する事なく怒鳴り込んで来たんですか」
守子の恫喝めいた物言いに対し城田は一歩も引く事なく淡々と応じ、青木が泰然とした様子で腕を組んでいるのに対し修二は顔を落としながら沈み込んでいた。そんな中修二はわずかに顔を上げて守子の怒り心頭の面相を目の当たりにして心臓の鼓動が早くなり、そして城田の方に目線をやり顔が真っ青になった。
口からはじき出される言葉に相応しい、全く焦りや翳りの感じられない面相。そして目の輝き。これと同じ表情をしていた人間を修二は一人知っていた。
深野元副校長だ。
白狼を守り神様と崇める人間と同じ目付き。そして深野もまたそれまでの気の抜けた言動をしていたのに白狼の事となると急に真剣味を帯びるようになった。まるで宣教師、いや狂信者。暴力的ではないにせよ何が何でも修二に白狼の素晴らしさを信じ込ませようとする柔らかながら凄まじい力がその両目に宿されていた。その時の深野と同じ面相をした人間が今隣にいる。城田が自信満々なのは白狼様が守ってくれると信じて疑わないからであり、同時に白狼の素晴らしさを教授してやれる絶好の機会だと見ているからであった。
「論点をすり替えないで下さい!こっちは白狼になぜあそこまでされる必要があったのかって聞いてるんです」
「白狼については私たちの管理の及ぶ所ではありません、ねえ校長先生」
「白狼なんていう物騒な物をよくもまあ放置している物ですね、一体いつ何時からいるんですか」
「確か十五年前からですが」
「全く、この小学校は延々十五年も動物園をやってるんですか?こんな所に通わせられるかって怒鳴り込んで来た人が他にいるんでしょ!絶対そうですよ」
「十年前に……いや十一年前だかに一件ありましたっけ……」
「その時何もしなかったんですか」
「捜索はしましたが見つからず」
「その事に対して何か文句はなかったんですか」
「何もありませんでした」
城田と青木はまるでのほほんとした調子で適当に答え、目の前の存在をあしらおうとしている。自信満々を通り越した態度であり、とても同じ教育者の、同じ状況の中にいると修二には思えなかった。
「副校長先生!この件に関して何か」
「申し訳ありませんでしたとしか申し上げられません」
「ほら見なさい、副校長先生はこうして真摯に反省していらっしゃるのに何ですかあなた方は」
「結局の所、守子さんは我々にどうして欲しいんですか。その答がない事には話は進められる物ではありません」
「監督不行届きの責任を取り謝罪、及び桃太郎のトラウマ及び肉体的な治療費と服の弁償、そして白狼を捕縛し二度とこの様な事件が起きないようにしていただかねば困ります」
「白狼の捕縛?できませんよそんな事は」
「できません?冗談も休み休み仰って下さい!」
城田は肩を震わせていた。はたから見れば恐怖に駆られているように見えなくもないが、そんな物でない事は修二にはすぐわかっていた。
笑おうとしているのだ。白狼に逆らう事が出来るなどと思っている守子の態度がおかしくて仕方がないのだ。その事に気づき心底から絶望しようとしていた修二は、自分が全てを引っかぶるべく守子にボールを投げた。
「あの……」
「何ですか副校長先生」
「私この学校に赴任してひと月ですが、白狼はどうも我が校の人間が緊急事態に陥った場合に現れるようでして……」
「わかりました!では白狼を見せて下さい!」
「ここに入って来るかどうかは……」
「だから外でです!あっ校長先生は付いて来ないで下さい、別の人間を招いていますので」
自分がその存在を当てにしていたくせに全く自分勝手な守子は修二と城田を引きつれて校庭へと向かった。守子の顔は怒りに滾って真っ赤であり、修二の顔はこんな日だと言うのに嫌になるぐらい澄み切った空よりもはるかに青く、そして城田は相変わらずの無表情である。要するに、三者の顔色は最初と全く変わっていなかった。
「副校長先生は先ほど、この小学校の人間が危機に陥った場合に現れると言ってましたね」
「はい……」
「じゃあ早速試してみましょうか!」
守子は校庭の真ん中でいきなり修二の首根っこを掴んだ。力は細腕に似合わないほど強く、修二を掴み上げそうなほどの力が腕に込められていた。
「本当に来るんでしょうね、これで本当に!」
「今までの経験から言うと……」
修二が苦しそうに答えてまもなく、城田が面相を崩さないまま「あ」と言う声を口から漏らした。そしてそれとほぼ同時に、白狼が姿を現した。白狼は守子に飛びかかりなぎ倒そうとした。だが守子は手を離す事はなく、結果守子と修二は諸共に倒れ込んだ。
「これが白狼ですかっ!」
「ええ、そうです……」
守子は白狼の存在を認めるとようやく両手を修二から離し、そして白狼の方へと向き直った。その瞳は獣でも竦みそうなほどの輝きを放っていた、だが白狼は一向に怯む様子がなかった。
「うちの息子を何だと思ってるの……獣の分際で一体何人の子どもたちを恐怖のどん底におとしめた訳……?今日こそ私が代表して成敗してあげるから……」
「どうやってですか」
「どうやって………………!?」
何も武器を持たない四十代の人間の女性に自分の背丈とそう変わらない狼をどうにかできる物ではない。確かにそれは真理だが、城田が平板極まる口調でその身も蓋もない正論を並べた事が、守子の怒りをさらに増幅させた事は言うまでもない。しかし守子がついに実力行使に及ぶべく白狼に歩み寄ろうとしたその時、白狼は守子の気配を感じ取ったかのように守子の洋服の袖に噛み付き、守子をなぎ倒した。そして白狼は守子を引きずりながら校庭をぐるぐると、文字通り回り始めた。
「守子さん!……城田先生!」
「私も白狼がこんなに激しく暴れ回るのは初めて見ましたよ」
「だったら止めましょうよ、このままだと守子さんが危ないですよ!」
「でも見た所白狼は肉を噛んでいるようには見えませんよ、服の袖を噛んでいるだけのようですよ、服なんてまた仕立てればいいじゃないですか」
「白狼は一体何をしたいんですか」
「まあ怒り心頭に達しているのでしょうね、いい加減にしなさいと」
「怒り心頭に発するですよ!と言うかどうにかならないんですか!」
「まあ一応電話はしてみますけどね」
修二が言葉の間違いを正しながら大声で必死に危機を訴えかけたが、城田は嫌になるぐらい他人事であった。これ以上城田と話していても時間の無駄だと思った修二は校舎内に入りこの前も使った刺又を取りに走った。
「ちょっと城田先生!この化け物を何とかしてください!」
「できればしてますよ、ああもしもし」
守子の呼び方が獣から化け物に変わっている。守子の憎悪が煮えたぎりそして全く冷めていない証拠だが、城田は平然とした表情で携帯電話を耳に当てつつ守子から離れた。その間も白狼は守子を引きずりながら校庭を駆け回っていた。
「守子さん」
「城田先生!ちゃんと警察に電話してくれたんでしょうね、いつ来るんですか!って何ですかその目はっ…………!」
携帯電話を片手に戻って来た城田の目は冷淡や冷静を通り越して無表情、と言うより上から目線のそれになっていた。
「諦めませんか」
「諦めろ!?このままこの化け物の餌になれとでも言うんですか!」
「違いますよこれ以上意地を張らないで」
「こんな化け物に屈してたまる物ですかっ…あっ副校長先生!副校長先生、この化け物を止めて下さい!」
「わかりました、今行きます」
「やめましょう副校長先生」
そこに刺又を持った修二がやって来たが、白狼の方へ前進しようとして城田に右手で制されてしまった。
「城田先生!」
「無駄な抵抗をやめた方が副校長のためにもよろしいと思いますよ」
「無駄な抵抗とは何ですかっ!」
「無駄な抵抗を無駄な抵抗と言って何が悪いんですか」
「すると何ですかっ、白狼にほしいままにさせておけと言うんですか!」
「ええ」
「もういいですっ!」
修二もまた完全に他人事な城田の物言いに激昂するかのように怒鳴り声を上げながら白狼を睨みつけ、走り回る白狼のコースを見定め刺又を白狼の胴に押し付けた。だが白狼の胴を正確にとらえたはずだった刺又はまるで手ごたえがなく、外したのかと思いもう一度狙った結果、今度は金属製であったはずの刺又の先端が白狼の右前足の爪が軽く触れただけで耳を裂く様な音を立てて壊れた。
「だから言ったのに…………あーあもったいないなあ」
「ななっ…………」
「何ですかこれはっ!」
修二も守子も愕然とする中、城田だけはやれやれと言わんばかりの表情で二人を見つめていた。
「そんな欠陥品を持ってきてどうしようと言うんですか!」
「そんな、これは一回も使っていなかったんですよ!」
「ですから、もう諦めましょうよ。守子さんも副校長も」
「諦めてどうしろって言うんです!こんな化け物に頭を下げろって言うんですか!」
「ですから音川君にですよ、あっできれば校長先生と副校長先生にも」
「ふざけないで下さい、電源を切って下さい!と言うか何出てるんですか!」
「もしもし」
緊急事態ありと言って鳴らす発信音ならばわからないではないが、相手がこの状況を把握しているとは思えないにせよ、こんな状況で鳴り響く携帯電話の着信音ほど滑稽な音はそうそうない。そしてそれに平然と出る城田も城田である。
「えっ、はい、ちゃんと言ってくれたんだ。良かったな。でさ、だからすぐに来てくれるようにお願いできないかな?白狼小学校にさ。お前は…どっちでもいいぞ」
城田の電話の内容はどう聞いても救急隊や警察に対するそれではない。一体こんな時にどこの誰と話しているのだろうか。
「マタギでも知り合いにいるんですか」
「副校長先生?それ本気で言ってるんですか」
「やはり違いますか…………そんな訳ないですよね…………」
「副校長先生って本当になんていうか…………往生際の悪い方ですね」
白狼ほどの獣を正確に仕留めるのは素人では無理となると熟練した腕を持つ射撃手が必要だ、かと言って警察にスナイパーを派遣してくれと頼むのは相当に無理がある。だからマタギしかいないと思い城田はマタギを頼もうとしていたと言う、修二の苦し紛れその物の言葉はにべもなく拒否された。もっとも冷静に考えれば城田に電話一本で来てくれるようなマタギの知り合いがいたとは思えないし、そしていたとしても休日とは言えここまで出向いて来るような程暇がある訳がないし、仮に来る暇があったとして小学校に来るまで一体どれだけの時間がかかるのかわからない、そして万が一来たとして市街地で銃を撃つ事が出来るのか。何重の仮定をクリアすればいいのか計算するのも嫌になって来るほどであり、城田が修二の言葉を否定したのも当然である。
(往生際が悪いっておっしゃいましたけど、一体どうしろって言うんですか)
確かに修二の物言いは無茶振りその物であったが、正直な願望でもあった。女性が獣に襲われていると言う厳然たる事実を目の当たりにして、一方的な我意によって白岩小学校を乱している守子など白狼に襲われて当然と言う、正論に基づいているにせよ白狼に対しての妄信に捕らわれた判断を修二は城田にして欲しくなかった。あくまでも教師として、児童たちと同時にその保護者の安全と健全なる心身を守る事を心掛けて欲しかった。
「まさか私にいいぞもっとやれと応援しろとでも言うんですか」
「そんな事は言いませんよ、守子さんにごめんなさいって言うように説いてくれれば」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なも何も、そうでないときっと白狼は守子さんを離しませんよ」
「あそこまでひどい仕打ちを受けておいて、はいわかりました申し訳ありませんでしたなどと気持ちを切り替えられるとお思いですか」
「白狼の望みはおそらくそれだけでしょうから」
「やってみますよ、やればいいんでしょ!白狼よ、もうこれ以上やっても無駄だ。これ以上の行為は却って彼女の心を硬化させてしまう、私はそれが悲しい。だからその口を放しておくれ、頼むから」
完全に白狼の信徒と化していた城田に対し、修二は開き直ったかのように怒鳴ると白狼に向けて素手で歩み寄り、そして優しげに声をかけた。
すると白狼は、極めてあっけなく守子の服の袖を口から吐き出した、これには修二以上に城田が驚いたらしく、口をあんぐりと開けながら白狼を見下ろしていた。
「こんなに……あっけなく…………?」
「だから言ったんですよ、話せばわかるって。力に頼って解決しても一時しのぎにしか過ぎないんです」
「話せばわかるですか…………」
確かにこの時、城田は白狼への信仰で目が見えていなかった。だが城田の事を目が見えていないと思っていた修二もまた、視界から大事な物が抜け落ちていた。
獣、いや化け物でさえ話せばわかる。ではいくら話しても聞き入れない人間は一体何なのか、その化け物未満の存在ではないか。
(もしかして最初から……)
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