第10話 白狼とこの町
案の定、校門での騒ぎが起きてから一時間もしない内に、守子が小学校に怒鳴り込んで来た。
「どういう事ですか!」
「どういう事も何も」
「どうしてうちの桃太郎が白狼に襲われなければならないんですか!」
「私が直に見た訳じゃないんですがね、そちらの桃太郎君が音川君を拳で殴打して右足で蹴飛ばして」
「誰がそんな事言ってるんですか」
「下校する所だった多くの児童が」
守子の火を噴くが如く抗議に修二が心底参ったなと言う表情で俯く中、城田はやや動揺した様子ながら滑らかに答え続けていた。安心しているというよりなめているという形容の方がふさわしい、修二がそう失望している事など城田は知る由もない。
「多くのってどれだけですか!」
「私が見た訳ではない以上正確な事は申せませんが」
「じゃあ全員ここに連れて来てくださいよ!」
「いやでも、十人以上いたんでしょう、ねえ副校長先生」
「ええ、はい、そうでした……」
桃太郎が音川を殴った所から見ていた人間と、倒れている音川を蹴飛ばした所から見始めた人間と、音川に馬乗りになって殴り掛かろうとした所から見始めた人間、そして白狼に桃太郎が襲われる所を目撃した人間の数はそれぞれ違う。修二が駆け付けたのは白狼が桃太郎を襲ってからであり、その時には既に三十人以上の人間がいた。もちろん守子が問うているのはその時の人数ではない事は修二も城田も知っているし、そしてその時の正確な数を答える事が出来ない事も知っていた。
「じゃあその全員を今すぐ!」
「児童はほとんどが帰宅してしまいまして……」
「でも先生方の中には」
「でもその時はもう授業は終わって、残っていた児童は掃除当番だけで教師たちも大半がクラスで掃除を見ていたか職員室にいたかのどちらかで、真っ先に駆け付けて来たのは確か私でした」
「副校長先生はどの辺りからご見聞なすったんですか」
「白狼が桃太郎君を襲い終わった直後でした、確か……」
「城田先生はどうなんです」
城田の目はまったく泳いでいない。正々堂々、自分たちが正しいのだから何を戸惑っているんだろうか。そんな驕り高ぶった自信が城田を包み、そしてその目線を極度に上からの物にしていた。
「副校長先生のおっしゃる通り、私はその時教室できちんと掃除ができているかどうか監督指導の最中で、白狼の唸り声を聞いて慌てて駆け付けて来たんですが副校長先生から二十秒ほど遅れまして、その時には既に白狼の姿は確認できなくて」
「要するに、結局うちの桃太郎が音川君に殴り掛かった所を見ている人間はもうこの学校にいないって事ですね」
「残念ながら」
「もういいです、わかりました!」
守子はこれ以上話しても時間の無駄だと言わんばかりに両手を強く机に叩き付けて去って行った。その面相に納得や了解と言った文字はなく、憎悪だけが溢れていた。
「…………参ったな」
「まあね、いずれわかっていただけますよ」
「あのですねえ、いくら真相があったとしてもねえ、人間ってのは筋が通っている話より都合のいい話の方を信じる物ですよ。いや、時には自分にとって都合がいいように話を作り変える事さえしますから、私だってそうなんですからね」
二十年前に、妻を亡くした修二はひどく泣き濡れた。ほんの二日前まであれほど元気だった妻がなぜこんな事に。何の前兆もなく倒れそして別れの言葉一つ遺さず妻はわずか三十四歳であの世に行ってしまった。どうしてこんな事に、何がいけないのだ。きっと妻には何かこうなるべき罪があったのだ。前世で何かこのような死に方をしなければならない罪を犯していた、いやあるいは自分の方が前世またはこれまでの人生でこれほどの罰を受ける様な罪を犯したのかもしれない。ママはパパの為に天国できちんと準備を整えて待ってるんだよ、そう娘に元気づけられるまで修二は必死になって自分の罪を探し続けていた。
「こんな事言いたくないですけど」
「何ですか城田先生」
「副校長先生って随分失礼な方ですね」
「失礼って何ですか」
「まるで守子さんを馬鹿扱いしてるみたいで」
事の真相はいずれ知れる、そうすれば自分がやった事の過ちに気付き反省し理解してくれる。それこそが最良の道であり分別をわきまえた大人と言う物であり、その大人の対応を期待できないと言う考えは相手を見下したそれではないか。筋が通っていない訳ではないが、正直おめでたい理屈である。
モンスターペアレントだの何だの言うが、昔から程度は違うにせよ不出来な親と言うのはいた。そしてそういう不出来な親が、いわゆる大人の対応をする可能性は薄い。不出来ならば教育すればいいのだが、小学生の子を持つ親となると大半が既に三十路越えであり人間が固まってしまっている。もちろん変える事ができないとは言わないが、多くの人間はこれまでに作り上げた方向で発展していく事しかできなくなっている。
「守子さんは私と違ってきちんと結婚できてますし、私よりしっかりしていると思いますけど。それで私も一応公務員ですし」
論点の全く合っていない二つの事例を一緒にする城田に修二は嘆息した。そして公務員だからちゃんとしている物ではないと言う事は目の前の城田を見れば明白だし、結婚できるからと言って人間ができていると言う証明はない。
「それで、結局城田先生は私にどうしてもらいたいんですか」
「それはもちろん桃太郎君が音川君を殴ったと言う事と、その行為に対し白狼が制裁を加えたと言う事、その二つの事実を守子さんに認めていただく様にお願いしたいです」
修二の投げ槍な問い掛けに対し、城田は好対照を描くが如く明瞭に答えた。そしてそうやって城田が明瞭に答えた事が、修二の気持ちをますます暗澹たる物にした。
「コンコルド錯誤ってご存知ですか」
「えっ、ああ、一応知ってますけど……それが何か」
「人間の気持ちも似たような物ですよ」
「そんな物なんですかね」
とある対象に対し効果がない事は分かっているがこれまでの投資を惜しみ無駄な投資を続けてしまう現象の事をコンコルド錯誤と言うが、これは何も金銭的な話だけではなく精神的・時間的な事に関しても当てはまる。例えば城田の言う通り守子がすぐさま真相を知って改心した場合、それまでの一時間と言う時間と学校と白狼に対する怒りは完全な無駄と言う事になる。もちろんそれがいけなかった事だと反省できればそれに越した事はないのだが、あの様子ではそれを期待する事こそ困難であり、そしてその自分の失敗を受け入れたくないからこそ、自分にとって都合のいい話を作り上げるのである。
何を言っても届きそうにない二人の男女の事を思うと、修二は胃の痛みを覚えずにいられなくなった。本音を言えば二人とも救いたい、でもどうすればいいかわからない。白狼への憎悪と小学校に対する不信で凝り固まっていそうな守子と、白狼に完全に依存しきっている城田。傍目から見れば全く対照的な二人だが、思考停止状態なのは同じだと修二は思っている。そういう人間の気持ちを揺るがすのがいかに困難な事か、修二は自分の経験という最も身近な実例をもって思い知っている。妻の死後、同僚や児童その父兄たちからいくら心からの慰めの言葉を受けても妻がこんな死に方をしたのは自分が悪いと決めつけていた修二の耳には全く入らなかった。
「あー副校長先生……どこかお悪いんですの?」
「ああ柿沼君のお母さんですか……いや特段何も……」
「特段何もって言うご様子には見えませんけど、ねえお兄さん」
「そうですねえ、何か学校であったんですか」
修二が胃を押さえながら商店街を歩いていると、八百屋で買い物をしていた修二の受け持ちの児童の柿沼の母親に声をかけられた。白狼による綾野桃太郎襲撃があった時には一年生は既に帰宅していたが、あれほどの騒動となれば普通ならば伝わらないはずがない。
(ったく守子さんの怒る気持ちもお説ごもっともと言うべき物だ、しかし実際何をやっているんだ…………)
襲撃の後修二は校舎内に残っている人間に対し白狼が現れたゆえ気を付けるように保護者に連絡する旨言い付けていたが教職員の反応は予想外に鈍く、どうやら空返事だけで何もしていない人間が大半だったらしい。一瞬校長に言い付けてやろうかと思った修二だったが、第一にその行動自体が子供染みた物であったし、それ以上に校長の反応が彼らと同じ物であった可能性が高い事が容易く見えてしまった。今季白岩小学校に新たに入って来た教職員は修二一人であった、つまり修二以外の全員が白狼の存在も白狼が校内から出ない事も知っており、そして白狼が罪のない者には害を加えない存在である事もまた知っていた。彼らからしてみれば修二の慌てふためきぶりの方がかえって滑稽に映っていたかもしれない。そしてここに来て守子への対応にかまけて自ら連絡しなかった事を悔いた修二であったが、ここまで来ると保護者も教職員と同じように白狼に飼い慣らされているような予感がして仕方なくなり、腹が立つ以上に無力感を覚えた。
「あーもしかして白狼が出ちゃったのかしら」
「そう、そうなんです……全くもう」
「それで……何か他にあったんですか」
「今さらと言っちゃなんですが白狼ぐらいで大騒ぎするような」
「副校長先生もなんて言うか……大変っすねえ」
「君はもしや白岩小の出身かい」
「白岩、あーそう白岩小学校だったっすね、あそこの名前。卒業してもう十年なんですけどずっと白狼小学校って呼んでるもんで」
そしてその予感が的中していた事をすぐさま八百屋の店員から知らされ、修二はますます暗澹たる気持ちになった。あんな大きな獣が自分の子どもの通う小学校に住み着いていると言うのに全く危機感がない。柿沼の母親が挟んだ間の中にどんな言葉が内包されているのか、知りたくもなかった修二だが容易に察しがついてしまった。
真面目、繊細、いや神経質、騒ぎ過ぎ。たかが白狼程度の事で何をそんなに心を痛めているのか。確か目の前で一度見ているはずなのにまだ慣れてないのか。その修二の想像を否定するには柿沼の母親も白岩小学校の卒業生とか言う八百屋の店員の男性の目も澄み過ぎていた。二人とも今日二時間ほど前に白狼が児童を襲った事件が起こり、そしてその母親が怒鳴り込んで来た事を知らないのだろうか。
「この子はこの家とこの町が大好きでしてねえ、高校生の時から既に実家を継ぐって決めてたんですって、親孝行ですよねえ」
「私立中学校入れてくれた親には申し訳ないなとは思ってるんすけど」
「いろいろ大変だったんでしょ、中学校生活。白狼小学校の子たちって中学校生活でうまく行かない事多いんですよね、特にこの子みたいに他に同じ小学校の仲間がいないと」
「それで結局高校は白狼の先輩や同級生がたくさん行ってた学校に進みまして、それで今後もそういう連中たちと一緒に人生を過ごしたいと思いまして家業を継ごうと」
「阿波建設ももう少し頑張れてればそういう人たちを取り込めていたのに残念ですよね」
「そう言えば阿波建設を吸収合併したとこ何て言いましたっけ…ああそうだ渡辺グループの渡辺興産でしたっけ。渡辺興産も正直、もう少し地元に門戸を開いてくれればありがたいんすけどね、僕みたいに家業がある所ばかりじゃないんで」
この八百屋の青年や十日前に見たコンビニでバイトする青年のように、この町の若者たちは余所で打ちのめされ心地のいい仲間を求めて戻って来るらしい。彼らはこの心地よいユートピアを必死になって守ろうとし、また彼らの親たちも彼らを地元に貼り付け地域を盛り上げさせようと図るようだ。
「まあねえ、詰まる所僕たちみたいな小市民はおとなしく法律を守りながら真面目に生きるしかないんすよね」
「そうそう、副校長先生も真面目に頑張りましょう、まあ辛い時には羽目を外して楽しんでもいいじゃないですかねえ」
八百屋の青年と柿沼の母親が言葉を交わす間、一秒たりとも胃に当てていた手を動かさず、そして渋面を崩す様子もなかった修二をあくまでも純粋に元気づけるために二人は陽気に声をかけた。修二は二人の言葉に答えるように胃から手を離し、無理矢理に笑顔を作りながら歩を進めた。
白狼と言う強大な力を持ち己が正義の為に迷いなく動く存在を、教職と言う人を正しく導く事を目的としている職業にも拘らず修二は嫌悪していた。やり方が悪いと言えばそれまでなのだろうが、そのやり方を知りながら修二と同じように嫌悪している人間はほとんどいない。いるとすれば被害者の側に立った守子ぐらいの物だろう。
(余りにも虫が良すぎる……そして余りにも甘やかされ過ぎている)
醒めているとでも言うのか。全ての人間を正しく導く事が教師にとって最上の喜びであり究極の目標のはずなのだが、そんな理想など修二はとうの昔に忘れていた。いや正確に言えば最初から達成し得ない白昼夢として片付けていた。それを軽々と達成している白狼と言う存在に対し自分は嫉妬しているのか。いや違う、白狼によって支えられる都合のいい世界の中で生きて来た人間たちがどうなるか、城田や白岩小学校の卒業生を見るまでもなく外気に触れるとたちまち挫けてしまう様な弱々しい温室育ちの連中になるだけではないか。そういう人間を世に送り出すために学校がある訳ではないし、自分は教師をやっている訳ではない。だから自分は白狼を疎んじているのだ。修二がそう思えば思うほど、どうしてこの程度の理屈を誰も理解しないのかと不安になって来る。
この年まで一般教員をやって来ていて管理職としては新米ではあるが、三十年のキャリアは確実に修二の地位を高めていた。そうやって昇進し高みに登って行くと、どうしても組織の、と言うより社会の全容が見えてしまう。上から社会を見下ろせば、そこには単純明快な正義で片付かない種々の問題が溢れかえっている事に嫌でも気付かされる。
「サウンドレンジャーか……」
商店街のおもちゃ屋のショーウインドウには今回の一件の火種になってしまった戦隊ヒーローのおもちゃが並んでいる。確固たる正義と、揺るぐ事のない秩序と、それを通すだけの力を持つ正義の味方たち。物理法則を無視した様な技や演出についてうんぬん言う気はないにせよ、そのような理想の存在が実在しない事はこの年になれば既に分かっている。修二だって子どもの頃には今やっているような戦隊物やヒーロー物の特撮やアニメはなかったにせよ、正義の刃を振りかざし悪代官を斬り倒す時代劇を好んで見ていた。親となって娘と一緒に見た戦隊物が妙に面白く感じたのは、そこに自分が子供の時に見ていた時代劇と変わらない様式美があったからである。そこには世の中の平安と弱者を守る正義のヒーローと、そして同時にその両者を脅かす悪役の存在が必要不可欠である。現実に正義のヒーローがいない理由を極めて大まかに言えば、ヒーローに退治される悪役がいないからである。この世に絶対の正義がないように、絶対の悪もない。三角柱を上から見れば三角形であり、正面から見れば長方形であるのと同じ理屈である。自分の子どもを傷付けられた守子が、傷付けた白狼とそれを放置した小学校を悪とみなして怒り狂うのもお説ごもっともである。
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