第9話 白狼と転校生

 四月二十八日、水曜日。一人の転校生の初登校日だ。

「またよりにもよってこんな日に……まあ向こうの意向ならば仕方ないが」

 その転校生の名前は綾野桃太郎。どういうセンスかと疑いたくなったが今日日珍しい名前でもないのだろう、と言うか修二が以前同窓会で会った同級生の甥っ子も桃太郎と言う名前だったので言うほど珍しくもないのかもしれない。とは言っても否応なしに目立つ名前であり、そして転校生と言う事もあってどうなるか正直不安が多い。ましてや転校して来た日が正直良くない。次の日が昭和の日と言う祝日、三日後が土曜日で五日後からがゴールデンウィーク、つまり五連休である。九日間で二回しか学校に来ないのでは学校に馴染むのは難しい。




 そしてそれ以上に親が問題であった。

「その白狼とか言う物は本当にうちの桃太郎を守ってくれるんでしょうね」

 綾野桃太郎の母親、綾野守子は随分と高級そうな和服を見に纏いながら吊り上がった眼鏡越しにそう問うて来た。やはり白狼目当てでの転校であったのだ。修二が私もこの小学校に赴任してひと月なので詳しい事はとお茶を濁そうとすると守子はわかりました校長先生に話を聞きますと言い捨てて去って行った。担任として転校生を迎えた経験は幾度かあった修二だが、管理職と言う立場としては初めてである。これほど厄介そうな存在はまれとしても、幾多の転校生を迎えるに当たって相当な苦労をして来たのだと思うと修二は今までの三十幾年自分は楽をしていたのだなと思わずにいられなかった。そして同時に、管理職ならではの危惧を眼前に突き付けられる事になった。







「まあね、その内慣れるでしょ」

 綾野桃太郎のクラスの担任は城田一郎である。彼の甲斐性のなさを知っているだけに、修二は不安になって来た。一年三組で問題が起きたのならば自分が責任をかぶればいいが、四年二組となるとそうは行かない。もちろん担任である城田が責任の大半を負うべきではあるが、自分や校長の様な上層部にも監督不行届と言う名の責任が降りかかって来る。自分の尻ぐらいは自分で拭けるつもりであるが、三十七になるいい大人のはずの男の尻を拭きたくはなかった。それが上層部に立つ物の責務とはわかっていてもだ。

「白狼を出させないで下さいよ、頼みますから、絶対に!」

「そんな事言われましてもねえ、私が出す訳じゃないんですから。副校長先生も無茶な事仰いますね」

 守子は白狼をか弱い自分の子どもを守ってくれる守り神だと信じ切っていた様だ。これまでのひと月弱の間で白狼と言う代物が良く言えば己が正義に忠実で中立的、悪く言えば自分勝手で掌をすぐに返す物だと言う事を修二は大体把握しているつもりであった。自分が強者だと判定した者に対しては徹底的に噛み付きその結果弱者に落ちれば今度は守る、そして逆もまたしかりであると。

 綾野桃太郎が弱者として守られる分には歓迎すべきではない事象にせよまだ何とかならないでもない、だが強者として白狼に襲われたとなると問題である。どうしてうちの子は守ってくれないのか、いや襲われなければならないのか、うちの子が悪い子だって言うんですかと喚いて来るであろう。

「昔は何事だと怒鳴って来た人はいましたよ、でもその内納得して引き下がって行きましたよ。ここ数年ほどそういう人はいないんですけど、かえって新鮮かも知れませんね」

 気が抜けているなどと言う次元を通り越している、自分が子どもたちの人生の一部を預かっていると言う事をまるでわかっていない。腹が立った修二は冗談も休み休み仰って下さいと声を荒げたものの、城田はああどうも失礼しましたと全く意に介さない。修二は嫌味ったらしく胃薬を取り出して飲もうとしたが、城田はお水を汲んで来ましょうかとしか言わなかった。そして、その城田の天然か嫌味返しかわからない行動にツッコミを入れる人間は一人もいなかった。







「転校生の綾野桃太郎君です、どうぞ」

「綾野桃太郎です、よろしくお願いします」

 城田は定型句その物の言葉と共に綾野桃太郎を教室へ招いた。身長も体重も平均よりかなり大きく顔も体型相応に膨れていた。桃太郎の表情は随分無愛想で、そして教室に入って来ての第一声もまたその無愛想な表情にふさわしい切り口上であった。

「で、桃太郎君の席は」

「僕あそこやだ」

「桃太郎君って身長何センチあるの?」

「159センチ」

「うっそーオレより4センチもでかいじゃん、そんで目はどうなの?」

「両目とも裸眼で1.2だそうだ」

「でもあんな取って付けたみたいなとこはやです」

 横五列縦六段に机が並んでいた教室がその日から真ん中の列だけ机が七段になっており、そして一番後ろの席だけが空いていた。いかにも自分が座るために用意されたような、そして後付けその物の机の配置に桃太郎がそういう反応を示したのは道理であろう。だがクラスの中で最も背が大きかった児童よりも更に背が高く、そして目もいいと来れば最後列になるのも仕方がない事でもある。

「私だってやだ」

 じゃあ一段ずつ下げようかと言う城田の言葉に対し今度は教卓の目の前の席に座るクラスでもっとも背の低い女子児童が反発した。そしてそれに同調する声が上がり始め、教室はいきなり紛糾する格好になった。

「誰かあそこでもいいって子はいないかな、もちろん黒板が見える事が重要だけど」

 結局城田は児童たちに丸投げする格好で話を進め、結果これまで一番背が高かった児童が新たに置かれた机に移る事になり桃太郎がそこの席に座る事になった。


「さて早速昨日の続き、15ページから授業を始めますよ。それで桃太郎君、前の学校では一体どこまでやっていたのかな、あっもしかして教科書が違った?」

「いいえ同じです」

「じゃあどこまでやってたんだい」

「40ページまでやってました」

 とにかく授業が始まった訳であるが、いきなり転校生は爆弾を落とした。遅れているならばともかくここまで早く進んでいるとは予想外である。教室内は桃太郎が前の学校でいったいどんな授業を受けて来たんだと一瞬感嘆の声に包まれたが、すぐに不信の声が上がった。

「へぇ……って本当に?」

「本当だよ、森先生がちゃんと」

「森先生って前の学校の先生?」

「そ、そうだよ……信じてないの?」

「いいえ全然そんな事はないけど」

「そこ、そこ静かに。桃太郎君には少し退屈かもしれないけど、前やったのを見直すのも大事な事だからしっかり聞いてね」

「はーい」

 実際桃太郎は、随分と授業中退屈そうな様子で周りの児童たちばかり見ていた、その癖これわかるかなと城田が質問する段になるとここぞとばかりに声と手を上げ答えようとしていた。存在感を出すために自分の得意な所を見せようとしているのはわかるが、教師としては様々な児童に当てたい。だから城田は最初に一回当てたきり桃太郎に当てる事はしなかった。


「いや、普通の学校だよ」

 休み時間、桃太郎がその疑問にさらされたのは当然の話だろう。二百ページ相当の教科書を一年かけてやるのが学校の授業だと言うのにひと月足らずで五分の一を消化していては八月いっぱいで、学校の授業がある時期にだけ勉強をしていたとしても十月上旬には教科書が終わってしまう計算になる。普通の小学校の授業のペースではない。実際、桃太郎がここに来るまでに通っていた小学校は普通の市立小学校であった。

「じゃあなんでそんな所までやってるの?あっもしかして塾」

「…………うん、て言うかそれ、給食の袋に描かれてる奴何?」

「えっ?もしかしてマジカルキャッツを知らないの?」

 女子児童がえっと声を上げたのは桃太郎が塾に通っていたと言う事ではない、マジカルキャッツを知らなかったと言う事にあった。

「おいおい落ち着けよ男はあんなもん知らなくてもいいんだぜ、気にするなよ桃太郎、必殺ナチュラルビーム、なーんてな!」

「サウンドレンジャーだなんて、あんなおこちゃまな物」

「マジカルキャッツの方がよっぽど少女趣味全開じゃんか、ってかお前よく今のでサウンドレンジャーってわかったな」

「弟と一緒に仕方なく見てるだけよ、まだ幼稚園の年長の弟がいるから」

 日曜日の朝に流れるサウンドレンジャー、そして直後に流れるマジカルキャッツ。小学生たちにとってその両者が流れる1時間、正確に言えば30分×2は神聖な時間であり親たちもまたその事を知っている。先に述べたようにサウンドレンジャーは男の子の、マジカルキャッツは女の子の舞台であり両者を連続して見ると言う家はあまり多くないが、片方は欠かさず見ていると言う家は多い。

「…………ねえ、サウンドレンジャーって何?」

 そしてその事をきっかけに男の子と女の子のケンカが始まろうとする中、桃太郎は大きな水爆弾を落としてケンカの火を消し止めた。


「何お前サウンドレンジャーも知らないの!?日曜の朝とか何を見てるんだ!?」

「いろんな子がいるんでしょ、いろんな親がいるんでしょ。サウンドレンジャーが嫌いなお父さんお母さんだっているんでしょ」

「あーそうか気の毒だよなー、サウンドレンジャーの面白さを知らないなんて」

「…………ウソついて御免、本当は……」

「ああほんとは知ってるんだろサウンドレンジャーの事、」

「塾じゃなくて家庭教師に教えてもらってるんだ、森先生ってのは前の学校の先生じゃなくて家庭教師の先生なんだ、ごめんねウソついちゃって……」

 桃太郎がごめんと呟いて顔を伏せて涙目になると児童たちは慌てた。しかし桃太郎がひとしきり喋り終わると児童たちの哀れみの視線は再び困惑の視線に戻り、そして児童たちは桃太郎が本当にサウンドレンジャーを知らない事を了解して内心動揺し、その動揺を覆い隠すかのように話を家庭教師の方へ向けた。

「今度、その森先生って人見せてくれよ、その代わりにサウンドレンジャーについてゆっくりと教えてやるからさ。グッズ少しあるからそれもやるからさ」

「恥ずかしいからやだ」

「やだって、サウンドレンジャーグッズなんてみんな持ってるもんだろ」

「いや、森先生……」

「あーそうか悪い悪い、でもさ、折角だからサウンドレンジャーのキーホルダーやるよ。放課後お前んちに行くからさ、楽しみに待ってろよ」

「いや本当に……いいから…………」

「……じゃあ仕方がねえな」

 桃太郎を白岩小学校四年二組の一員として馴染ませようと、サウンドレンジャーの魅力を伝えそこから引き込もうとした音川なる男子児童の必死のアプローチを桃太郎は全力で払い除け、そして涙目のまま無言で教科書に視線を落とした。そうして桃太郎は新たなるクラスメイトの間に壁を作っておきながら、そのくせ授業が始まると別人のように活発になった。




 放課後。桃太郎は逃げるように校門へと走り去った。だが、校門には既に音川がいた。桃太郎にしてみれば全力疾走のつもりだったが、音川の足はより速かったのだ。

「綾野、何をそんなに急いでるんだよ、森先生の授業って奴がもう始まるのか」

「ちっ違うよ」

「さっきは仕方ねえっつったけどさ、どうしてそんなにサウンドレンジャーを嫌がるんだ?」

 音川はどうしても、桃太郎が頑なになっている理由が分からなかった。先程仕方ないと言って妥協したのは自分が彼を追い詰める構図になるのを嫌ったからである。

「い、嫌がってなんか……いないよ」

「先生が言ってたぜ、世の中にはいろんな奴がいるって。俺はサウンドレンジャー大好きでクラスじゃドクターサウレンなんてあだ名を付けられてる位だけどさ、中には嫌いな奴だっているもんなんだろ?お前が嫌いでも俺は一向に構わねえよ、でもどうして嫌いなのかぐらいは教えてくれてもいいんじゃねえのかな。何せこれから一緒に過ごすわけなんだからクラスメイトの気持ちとか知りたいじゃん、」

 頼むからさと言う言葉は音川の口から出て来なかった。音川がその六文字を口にする前に桃太郎の右手が音川の頬を捕らえ音川をなぎ倒していたからである。

「いい加減にしてよ!君は僕をいじめに来た訳?」

「ちょっと待てよ、こっちはお前が何ってーかさ、必要以上に肩肘張っちゃってなんか大変そうだからちょっと馴染めるようにほぐしてやるべきかなーって思って」

「完全に大きなお世話だよ!」

 桃太郎は顔を真っ赤に染めながら、校庭に倒れ込んで砂まみれになっている音川の左足を蹴飛ばした。これではどっちがいじめだかわからない。

「お、おい、落ち着け、落ち着けよ」

「落ち着かなくさせたのは誰だよ!君が悪いんじゃないか」

 完全に頭に血が上った桃太郎は音川の胸倉を掴んだ。ちょうどその頃になると帰宅しようとしていた他の児童たちが校門に集まって来ていた、だが上級生や同じクラスの児童たちがいくら注意しても桃太郎の怒りは収まらなかった。

「僕に恥をかかせて楽しいのかい君は!」

「やめろ、こんな所であっ!」

 だが、ここで突如太い唸り声が鳴り響いた。校門の周りに集まっていた児童、児童に連れられてやってきた教師を含め、綾野桃太郎を除く全ての人間がその唸り声の正体を一瞬で察した。


 白狼だ。




 白狼は文字通り目にも止まらぬ速さで音川に馬乗りになっていた桃太郎の背中に飛び乗り、前足で桃太郎の服に爪を立てながら後ろ足で桃太郎の靴を蹴飛ばした。白狼の爪は桃太郎の服に傷を付け、蹴飛ばされた靴は校庭へ向けて転がって行った。

「は、白狼だ!お前手を離せよ」

「白狼とか何とかでたらめな事言って、逃げようったってそうは行かないぞ!」

 白狼に背中に乗られ服に傷を付けられ靴を蹴飛ばされているはずの桃太郎は、その存在を全く認識できていなかった。それほどまでに怒りで目が曇っていた桃太郎に己が存在を認識させてやると言わんばかりに白狼は桃太郎の耳元で先程以上の音量の唸り声を上げた。それによりようやく白狼の存在を認識した桃太郎は音川の胸倉を掴んでいた手を放しながら白狼に負けず劣らずの声量の叫び声を上げながら音川の上に倒れ込んだ。

「何事ですかっ!」

 その時になり自分のクラスの授業を終えていた修二が校門の方にたどりついたが、既に白狼は自分の役目は済んだと言わんばかりに裏山へと走り去って行っていた。

「これは一体、どうなっているんですか、誰か説明を」

「白狼です、先生」

 綾野桃太郎の背中に付けられた爪痕、脱げた靴。そして何より恐怖に歪んだ面相。そのどれもが、彼が白狼の犠牲になった事を雄弁に物語っていた。桃太郎は走ろうとするが腰が抜けて動けず、力を振り絞って両手ではいはいをしながら進もうとするがすぐに倒れてしまった。修二一人が慌てふためく中、児童の一人が運動場に転がっていた桃太郎の靴を持ちながら歩み寄っていた、他の児童たちと同じように平凡な顔をして。







「桃太郎君がいきなり音川君に殴り掛かって来て」

「いや確か蹴飛ばしたんじゃなかったっけ」

「違う、殴り掛かってなぎ倒した後に蹴飛ばしたんだ」

 修二は信じたくなかった。転校生が慣れない環境に戸惑い初日に問題を起こしてしまう事はない訳ではない。だがそれに白狼が絡むとなると話は別だ。修二が全身に焦燥を抱え込む一方、桃太郎と音川の担任である城田がようやくのろのろとしたスピードで歩み寄って来た。

「一体何をしたんだ」

「何をって、人が嫌がる事をすれば怒るのは当たり前でしょう先生」

「俺はさ、桃太郎にサウンドレンジャーの魅力って奴を伝えようとしてさ」

「別にいいって言ったんですけど」

「それは聞いたよ、でもどうしてそんなに嫌がるのかぐらいは知りたいなって」

「嫌がってないってのに!」

「じゃあどうして白狼に襲われたりしたんだ」

 確かに話はもつれていたようだが、殴り掛かるまでする必要があった話ではない。だがこの程度の衝突や喧嘩は不可避とまでは行かないにせよ、未経験のまま人生を過ごすのは困難である。その程度の、自力で解決せねばならない問題に対して白狼と言う絶対的権力が出て来るようでは甚だ困るのだ。

「白狼は関係ないでしょう!」

「副校長先生?」 

 それに対象者その物の問題もあった。確かに音川の物言いは強引ではあったが、彼には一かけらの悪意もなかった。それを悪意と思い込んで桃太郎は殴り掛かったのだ、どう見ても桃太郎の方が罪が重い。だから白狼は桃太郎に対して制裁を喰らわせたのだろうが、桃太郎や守子がこの事実を納得するだろうか。全く何という事をしてくれたのだ、なぜお前の責任を私が取らなければいけないのだ。そう考えるだけで修二は胃が痛くなって来た。

 そしてこの小学校全体の空気である。城田と言う白狼のいる小学校でしか教鞭を取った事のない教師、つまり白狼のいない学校の空気をほとんど体験した事がない教師。同じように白狼のいる小学校でしか授業を受けた事がない児童。彼らは多かれ少なかれ白狼の影響を受け、そして染まっている。白狼が守った者は善、害した者は悪。その理屈が彼らにとり絶対の真理になっている。いや、綾野守子のような外部の者でさえも、その理屈に身を委ねてこの小学校に息子を預けに来た。そんな多数の事象がない交ぜになって修二をひどく苛々させ声を上げさせた。

「……とにかくだ、ちゃんとごめんなさいって言う事だな。綾野、ちゃんと音川に謝るんだ」

「やだ」

「やだじゃない!悪い事をしたらちゃんと謝る物だ!」

「やだーっ!」

「おい待て!」

 結局桃太郎は城田の言葉に従わず泣きながら走り去って行った。校門の周りに残されたのは桃太郎を蔑みの目線で見つめる児童たちとやるせない表情をした城田に支えられている音川、そして不安と白狼への怒りで心が一杯になっている修二だけだった。

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