第8話 白狼に魂を喰われた男

 強盗事件があった次の日曜日、修二は深野新太郎と言う三年前まで白岩小学校の副校長を務めていた人物に会う約束を取り付けていた。自分と同じように他の小学校からやって来て七年間白岩小学校の副校長を務め、つまり七年間白狼と対峙して来た経験を持つ深野であれば白狼の制し方を知っているのではないかと考えたからである。


(小学校、と言うより町全体が白狼に支配されている…?)

 あのコンビニ強盗の青年も、ふた月前にこの町で一人暮らしを始めたそうだ。白狼の存在を認識していたとは到底思えない。修二はと言うとこの町で寝起きするようになってからまだひと月も経っていない、詰まる所この町においては彼以上の新参者でありよそ者だ。そのよそ者である自分を白狼は見定めようとしているのか。

 期せずしてと言うべきか、深野は青年と同じアパートに居を構えていた。三十幾年教師一筋で真面目に務め上げて来たはずの六十三歳の男性が一体どうしてそのような所に独りでいるのか、修二は違和感と不安を覚えずにいられなかった。








「君が赤山修二君か、まあ狭い所だが入ってくれたまえ」

 アパートのドアが開くや修二は心の中で思わずうっと呻いてしまった。六畳一間のアパートの部屋はひどく散らかっており、そして深野本人もまた髪が乱れ服装もかなり適当だった。仮にも五十半ばで小学校の副校長と言う社会的地位のある人間が来るのだからそれ相応の身なりをしていてしかるべきだろうに、適当な英語を並べたTシャツとだぼだぼのジーパンで出て来るとは何事かと怒鳴りたくなった。

「ああ早く来過ぎましたか、これは失礼しました」

「いや何、この方が楽なんでね」

 やんわりと服装について問うた修二に対し深野は平然とそれが何かと言わんばかりに言葉を返しそして臆面もなく修二を部屋へと招いた。自分が青春時代を送った頃を思わせるような古めかしい畳敷きの部屋には、この部屋の主がかつて小学校の副校長であった事を思わせる物はひとつも見当たらない。ゴミ以外に目立つ物と言えば六畳一間の部屋には分不相応に大きいテレビだけである。

 白狼について聞こうとしていたはずだったのに、いろいろ言いたい事が浮かんで来てどうにもならない。何か話があったんじゃないのかと深野に言われてもどうにも本題であるはずの白狼の話をする気になって来ない。

「なるべく手短に頼むよ、あと二十分ほどで始まるんだから」

 何から言おうか修二が戸惑っていると深野にそう催促された。アポイントメントを取った時には聞いていなかったがこの後何か用件があるのか、ならば話を早く切り出さねばとようやく意を決して白狼について聞こうとしたその時、

「あの正直さ、ホワイトウルフは怖いと思うんだよね」

「ホワイトウルフって白狼の事ですか」

 深野の口からホワイトウルフと言う言葉が飛び出して来た。白狼の事を深野はそう呼んでいたのか、そうだここだばかりに修二は身を乗り出した。

「ああー、そうだな。ホワイトウルフは白い狼、すなわち白狼だな」

「そうです、今日は深野先生に対して白狼についておうかがいをと」

「あーねえ、修二君もよく見てるんだねえ」

「私も一度この目ではっきりと見ましたから」

「そうかいそうかい、君とはいい酒が飲めそうだ」

「同病相哀れむって奴ですか」

「まあね、そういう事だ。何だおい、堅物だって評判を聞いてたけどでたらめだったんだな」

「私は白岩小学校に現れるホワイトウルフについてうかがいたいと思って来たんですが」

「あれ?小学校の話をしてた訳?」

 だが、どうも話がかみ合わない。いけるとか、堅物だとか、一体何の話だと言うのだろうか。修二がじゃあ先生は何の話をしてたんですかと言うと、深野はリモコンを手に取りテレビのスイッチを点けた。


「4番 ホワイトウルフ 448キロ マイナス6キロです」


 テレビの中では、ホワイトウルフと言う名前の葦毛の馬が歩いている。

「そうだよこれこれ、このホワイトウルフ。前走も最後方から追い込んで惜しかったんだけどさ、今度は展開も向きそうだし届くと思うんだけどなあ。まあ一番人気だし配当は安いけどまあ勝つに越した事はなしと。でも隣の奴の逃げ足も怖いんだよな」

 そして深野は修二を置き去りにしてテレビに見入ってしまった。これはすごいレースなんですかと言う修二の問いに、深野はいや普通の三歳未勝利戦だけどと答えたきりまるでこちらを顧みようとしない。

「大体さ、こんな時間から大きなレースはないよ。確かに今日は皐月賞の日だけどそれは第十一レースで発走は午後三時四十分からなんだよ」

 修二は嘆息した。競馬が好きなのは個人の勝手だが訪問客を無視してまでのめり込むのは大人としていかがな物かと言わざるを得ない。ですから白岩小学校に現れる白狼についておうかがいしたいんですけどと修二が言っても深野はこのレースが終わるまではと耳を貸す気配がない。







「それで白狼小学校の守り神様の話だって?七年間、守り神様のおかげでゆっくり過ごせたよ。よその小学校で手を焼いているような問題がほとんど起きなかったからね」

 結局ホワイトウルフと言う馬が一着でゴールして深野はひとしきり喜び終わり、そしてようやく修二の話に耳を傾けるようになった。

 昔の児童や親がやり易くて今の親や児童がやりにくいと言う物かどうか、正直な所わからない。わしの若い頃は、昔は良かった、最近の若い奴はなどと言う繰り言を唱えて世の中が望む方向に変わるのならばいくらでも言う。少なくとも今の小学生が昔の小学生と違う事だけはわかる、だから違うなりにこっちも変化すればいい。年を取るとそれこそが困難なのはわかっているが、それでも何とかするのが人を教える人間の役目と言う物であろう事も修二はわかっていた。

「守り神と言うのは」

「守り神様じゃなきゃなんだって言うんだ?あんな有り難い存在はいないよ」

 修二は白狼をどうやって制すべきかを聞くべく深野の元を訪ねたと言うのに、深野は白狼を守り神様などと呼んでいた。明らかに対象に対し敬意と畏怖の心を抱いている呼び方である。

「阿波建設に替わってやって来たあの渡辺興産ってとこもお社は守ってるしね、最近暇なんでしょっちゅう通って手合わせてるよ」

「最近暇って、今何やってるんですか」

「何も」

「何もって」

「それで最近はやりの熟年離婚って奴?それで一昨年一人になってさ、ふた月前に文字通りの爺さんになったけど孫の顔なんて見てないんだよね」




 要するに無職の六十三歳男性が競馬にはまり込んでいると言う事か。深野が妻と今年二十九になると言う一人息子にそっぽを向かれたのもお説ごもっともである。いつからそんなにはまり込むようになったんですと言う修二に対し深野は五年ぐらい前からかなと答えた。競馬好きの先輩に誘われダービーだけは買うようになってから二十幾年、自分の方がずっと競馬歴は長い。二十年以上競馬を続けてきた自分が手前味噌ながら今まで身を持たせて来ているのにたかが数年間でここまで堕落してしまったと言うのか、ギャンブルは身を滅ぼすとは聞き飽きた言葉だがそれにしてもどうして妻子に去られるまでになってしまったのか、修二は心の中で深く溜め息を吐いた。

「白狼小学校って大変なとこだって聞いて肩肘張って臨んでみたんだけどね、大変だったのは一年目だけだったね」

「だから白岩小学校ですって」

「ああそうだったね、それが正式名称だったよね」

「覚えてないんですか」

「だって七年間、大抵の場合白狼小学校で通って来たからね」

「いや朝礼とか公式の会合とか」

「そういう場合はさすがに白岩小学校って言ってたけど、普段はほとんどね。よその学校からも白狼小学校白狼小学校ってしょっちゅうだったけど。訂正するの面倒くさくなっちゃって、ああさすがに公式の文書とかに白狼小学校って載ってた場合は直させたけどさ」

 他校までそんな認識なのか。確かに前の小学校の校長も修二に白岩小学校への異動を告げるに当たり白狼小学校と言っていたが、公式の文書まで書き間違えてしまうような事が起こるほどに白岩小学校と言う名前が侵食されている有様なのか。白岩小学校と言う名前は百三十年前の明治時代に付けられた伝統ある名前であり、十五年前に俄かに出て来た白狼如きに名前を奪われたくはないはずだ。向こうからすれば人間が勝手に付けた名前など知った事ではないのだろうが、それはこっちも同じである。

「で、二年目以降は楽だったんですか」

「楽って言うか何事も円滑に進んでてね。一年目はいろいろあたふたしてたんだけど今から思うと何やってるんだって感じで我ながらもうねえ」

「独り相撲を取っていたとでも言うんですか」

「白狼が現れるって噂は前の学校にいた時から聞いてたよ、この目で見るまでは信じられなかったけどね。でも実際に現れて活躍されるとねえ」

「活躍って」

「その時三年生のクラスに遠くの地方から転校して来た子がいたんだけどね、方言がきついとか何とかで」

「いじめられていたんですか」

「その通りだよ。ところが転校して来て確か二週間後だったかな、体育の後に図画の授業があったんだけど、その間にランドセルがいくつか荒らされててねえ」

「白狼がやったって言うんですか」

 まったくもって、白狼の代弁者そのもの物言いである。活躍と言う二文字に込められた力が、須藤の思いをよく表していた。

「全くその通りだよ。その時は白狼って言うか赤狼だが青狼だかになってたらしいけど」

「要するに、白狼が体育の授業の隙に教室に入り込んで転校生をいじめていた連中の絵の具をぶちまけ荒らして去って行ったと言う事ですか」

「まあそうだね。白狼の姿かい?慌てて追いかけて行った結果わずかにお尻を拝む事は出来たよ」

「他の児童に何か損害とかなかったんですか」

「それがものの見事に皆無だったんだよね。強いて言えば白狼が現れた騒ぎで授業が乱れた事ぐらいかね」

 白狼のが、修二にはたまらなく不愉快だった。白狼のやる事は全て是であり、それにより処刑されたのはすべて因果応報であると言わんばかりの深野の盲信ぶりもまた、修二の気持ちを逆撫でした。

「十分な問題だと思いますけど」

「君も案外子供っぽいんだね。君も物事ってのが何事も予定通りに行かないって事はよくわかっているだろ」

「それはまあそうですが…」

「大体さ、長い人生のたかが授業の一コマ二コマがそんなに重要かね?花粉症患者をなくす方が大事な気がするけどねえ」


 必死に喰ってかかってみたが、何を言っても深野は受け流すばかりだった。スギやヒノキの花粉は本来ならば人間に害を加える物質ではない。だが人間の免疫システムはそれらの花粉をウィルスや悪玉菌と間違えて防衛反応を起こし、鼻水やくしゃみ・目のかゆみなどの症状を引き起こさせる。言葉に多少訛りがあると言う程度で異物として排除してしまう様な人間になって欲しくないから花粉症と言う言葉を使ったのだろうが、それを教えるのは親や教師の役目であろう。

「花粉症……確かに排除すべき物と排除しなくていい物を分ける事は重要ですがねえ……。それでその花粉症は完治できたんですか」

「できたっぽいね。私は君と違ってクラスを持ってなかったから詳しくは知らないけど、その時の担任がそう言ってたから間違いないんだろうね」

「いい加減ですね」

「まあ少なくとも小学校にいた間は何の軋轢もなく過ごしてたようだし」

「いた間はですか。いた間だけじゃ困るんですが」

「しつこい男だね君は」

「そういう強引な形で矯正しようとしたってひずみは絶対出ますよ、白狼と言う重石で押さえ付けたって心の中で不満は燻り続けます。その子たちが白岩小学校を卒業しこれから先の人生を歩むに当たって白狼と言う存在からプラスの影響を受けていたようにはとても思えませんよ」

「君、白狼様が嫌いかい?」

 だが修二の執念深い物言いに対し、今までへらへらしていた深野がいきなり真剣な表情になり修二の目を直ぐに見つめ出した。負けずに見つめ返した修二だったが、深野の眼光は鋭いままだった。

「嫌いとは思いませんが、横暴で強引だとは思っていますよ」

「まだ白狼様を目の当たりにしてから十日ほどしか経ってないんだろ?十日で相手の印象を決めつけてしまうのは感心しないけどね」

「白狼の意志をもう少し慮れとおっしゃるんですか?」

「まあそれもあるけどね、一般論として一度しか会った事のない相手の印象を固定させるのは頂けないって思うんだけどね」

「それは………そうですけど」

「私なんぞが大っぴらに言えた事じゃないと思うけどね」

「深野先生の前で随分な物言いではありますが、白狼は本当に神かその使いかなんかですか?お社があると言う話ですが」

「そうじゃなければあんな慈悲深い行いはしないと思うけどな、違うと思うのかい?」

「神と言っても千差万別、玉石混交です」

 意地になっていたと言う自覚はある。どうしてここに来るまでそれなりに教師人生を送って来たはずだった人間がこうなってしまったのか。その秘密を探り自分だけでも逃げ切るという保身行為に走りたい気持ちも修二の舌を動かしていた。

「ちょっと待ってくれよ、君はあの白狼様が邪神だとでも言う気かい?」

「思っていませんよ。ただ面倒くさいなとは思っております」

「面倒くさい存在なんてこれまでの人生で何遍も出くわしているんじゃないのか?君も五十を越えてるんだろ?その都度いろいろ面倒な事にぶち当たっては乗り越えて来たんじゃないのか?君が白狼を面倒くさいと思っているのならば今までと同じように対処すればいいじゃないか、私は素直に受け入れる事にして対処したけどね」

 しかし言葉遣いこそ最初とさほど変わっていないが、深野の言葉の重みはぐっと増していた。修二も深野が真剣である事はわかったが、肝心の言葉の中身にはどうにも共感できない。




 深野の中では白狼と言う存在は全く正義の味方であり、そして修二はその正義の味方様の存在に疑問を抱いている。その修二の考えを変えてやらねばならない、修二は深野の言葉からそんな印象を受けずにいられなかった。深野の目が真剣なのは教育者としての言葉、同じ職場の先輩としての言葉ではなく、白狼を唯一神とする宗教の宣教師の言葉だったからである。

 かつてキリスト教と言う一神教の修道士たちはヨーロッパから遠く海を越え遠く日本へやって来た。それもまた唯一の神であるイエス・キリストに対しての信仰の成せる業である。一方で同じ時代の日本人が鎌倉時代に発展した新仏教、多神教である鎌倉仏教を海外にまで広めようとした話は聞いた事はない。教育者や職場の先輩などと言う物は所詮人間が作った理屈の上で成り立つ物であり、信仰とか言う物はその理屈の上にある物で、信仰を正当化する為に理屈の方がくっついて来るのだ。十日で相手の印象を決めつけるなとかこれまでの人生で幾度となく困難にぶち当たって来ただろ同じように対処すればいいじゃないかとか言うもっともらしい理屈は後付けの、更に極論すればこちらを説き伏せるための手段である。

 もちろん修二は、それが多分に自分の私見が混ざった見方である事は承知している。結局の所修二は白狼と言う存在を受け入れたくない、だから白狼の存在を守り神様とか言って肯定する人間の言う事に耳を貸したくない。それに正直、妻子に去られた六十三歳無職の競馬浸りの男の言う事を聞く気にはなって来ない。修二とて彼がかつての白岩小学校の副校長でなければそんな男に話を聞きに行かなかった、いや聞けと言われても真剣には聞かなかっただろう。

「…………わかりました。私は私なりに対処してみます」

「おおそうかそうしなさい。えーと今は大体第三レース位かな」

 深野の方もまたこれ以上修二に説いても無駄だと思ったのか修二が腰を浮かすや、リモコンを手に握りテレビを点け再び競馬中継にかじりつき始めた。

 



 魂を白狼に完全に支配されている。修二はそう思わずにいられなかった。深野にはそれまで三十年以上かけて積んで来た教育者としての経験から感じられるはずの誇りはどこにもなかった。わずか七年間の間にここまで堕落してしまったと言うのか。白狼が唯一の原因だと断ずるのは相当に無理があるにせよ、実際白狼が深野の心に与えた衝撃は相当に深い物があるだろう。自分はああなってはならない、白狼の毒牙に負ける訳にはいかない。修二は険しい顔をしながらアパートを後にした。その帰り際、修二の古めかしくなりつつある型の携帯が振動した。

「もしもし、お父さん大丈夫?」

「どうしたんだ信江。私は何も問題はないぞ、と言うかお前こそ大丈夫か?」

「……うん……あんまり……」

 信江と悟は同じ施設に務めている。二人の交際は施設内でも知られており、入所している老人たちの心の支えにもなっていた。

「最近、お互い仕事が忙しくてずっと同じ所にいるのに会話が少なくって」

「家に帰ってもか」

「なんかどうにもこうにも巡り合わせが悪くて、私が定時に帰れる時は悟が長引いて悟に予定がない時は私の仕事が夜までかかっちゃって」

「うーん……そうだな、この際だから有給休暇を使ってみるのはどうだ?二人してゆっくり楽しんでみるのもいいと思うぞ。お前たちの存在はご老人の皆様にも活力を与えているはずだ。元気で仲の良い姿を見せる事もまた介護の一端と言う物だとお父さんは思うぞ」

「そうね、そうしてみる。介護にGWなんてないけど、それでも休みたいしね」

 交際一年、結婚から死別まで七年。都合八年間の間に修二と妻の関係がこじれなかった事がない訳ではない。でも今となってみるとそんな時期があった気はして来ない。だからそういう事態において自分がどうして来たかと言う事に対しての明確な模範解答は修二にはなかった。

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