第四章 モチーフを繋げて、縁取る(2)

 カフェ二号館、通称「ニカフェ」を出たところで、逸見里絵奈が浜崎美咲の腕を引いた。

「遥、先に帰ってて。私、美咲に話がある」

「うーん、えっと、そこで待ってるよ」

 和解したばかりの二人を残すことに少し不安を覚え、遥はすぐ先のベンチを指す。

「大丈夫だって」

「いいじゃん。待っててもらえば。私、ここから榎並駅まで遥と一緒に帰りたいもん」

 美咲がそう言って、里絵奈もうなずいた。

 遥はほっとして、ベンチに近寄る。今は降っていないけれど、朝は雨が降っていたせいでベンチは少し濡れていた。遥は座るのは諦めて、脇に立って待つことにした。ここなら声は聞こえない。なるべく見ないようにしようと思って、鞄からスマホを取り出したときだった。

 目の前に誰かが立った。

 遥が顔を上げるのと、その誰かが遥の両腕を掴むのが同時だった。ぎゅっと痛いほどに強く握られ、遥は小さく悲鳴を上げた。

「ああ、やっぱり生きてたんだね!」

 遥の腕を掴んだ男は、そう言った。

 知らない顔だ。三十歳前後だろうか。スーツのせいもあって学生には見えない。

 これはもしかして、また南と間違えられているのではないか。

「嫌だ! 放して!」

 満面の笑みで抱きしめられそうになって、遥は大声を上げる。

「遥!」

 そう叫んだのが誰だったのかよくわからない。

 一瞬、強く風が吹いたあと。

 男を遥から引きはがして、殴りつけたのは隼人だった。

 倒れそうになった遥を支えたのが和田史郎で、抱きついてきたのが美咲。倒れた男をさらに殴ろうとした隼人を慌てて止めたのが里絵奈だった。

「大丈夫?」

 美咲が遥の顔を覗き込んで聞く。

「ありがとう。大丈夫」

 遥はうなずいてから、水たまりのある地面に仰向けに倒れている男を見た。

「誰?」

 そういえば、ニカフェがあるのは理工学部だ。

「もしかして、先週の土曜日に私のこと追いかけて来た人?」

「え? そんなことあったの? うちの帰り?」

 史郎が驚いた様子で遥に聞いた。

「うん、そう」

「何で黙ってたの?」

「言わなきゃいけなかったの?」

 聞き返すと史郎は眉間に皺を寄せた。なんだか傷つけてしまったように思えて、遥は謝る。

「ごめんね」

「次から榎並まで送るから」

 史郎が言うと、隼人が男から視線を逸らさないまま、「和田君。君、役に立ちませんね」と言った。聞いたこともないくらい冷たい声音だった。

「遥さんは南さんの大事な妹なんだから、何かあったら僕は許しませんよ」

「すみません」

 史郎は何のためらいもなく謝った。

「先輩、史郎君は何も悪くないですよ」

 遥がフォローしようとすると、横から美咲が「遥は黙って」と口を押えた。

「それより、隼人先輩と南さんってどういう関係?」

 小声で美咲が聞いたから、遥ははっとして、里絵奈にも聞こえるように言う。

「隼人先輩はお姉ちゃんの恋人だったの! だから」

 里絵奈のことは言わないで、と暗に伝えたのは、里絵奈も美咲も史郎も理解したようだった。四人が顔を見合わせた一瞬の沈黙を破ったのは、倒れていた男だった。がばっと起き上がると、隼人に掴み掛る。

「お前! 南に近づくなと警告したはずだ!」

「何のことですか?」

 隼人は、さらっと手を動かしただけで男を振りほどくと、足を払って倒す。小笠原で鍛えたんだろうか。バンド活動の賜物だろうか。普段の物腰からは想像がつかない強さに、遥は目を丸くする。

 再び地面に倒された男は、やっと体を起こすと座り込んだ。水たまりの泥水を掬うと隼人にかける。隼人の白衣に染みができた。

「お前が俺の南と二人きりで出かけたこと、知ってるんだぞ」

「俺の南?」

 隼人の周りの空気がまた温度を下げる。

「あいつ、南さんのストーカー?」

 美咲が遥に聞いた。遥は「お姉ちゃんからは聞いてない」と首を振る。しかし、遥は当時まだ中学生だ。もしかしたら両親は相談されていたかもしれなかった。

「あ! 待って! 手紙!」

 遥は史郎を振り返る。

「山根夏子さんが送った手紙、お姉ちゃんの部屋に届いていなかったみたいなの。もしかして、この人が郵便受けから盗んだとか?」

 皆の視線が男に向く。彼は、ふっふっふ、と自慢げに笑った。

「もちろん、南の交友関係は全て把握している!」

 隼人は無言で足元の泥水を蹴り上げた。それを顔面で受け止めた男は、全くダメージを受けていない様子で、遥を見た。

「南! 俺の南! 事故で死んだなんて嘘だったんだね?」

「私は南じゃありません!」

「そんなわけないだろう。南だよ。その髪。その顔。俺の南だ」

 陶酔した表情で遥を見上げ、手を伸ばした男は、突然金縛りに遭ったように固まった。

 隼人が、くっと喉の奥で笑った。

 遥は美咲を押しのけて、落ちていた鞄からペンケースを取り出す。カッターを握って、自分の髪に押し当てた。

「あ」

「待って」

 静止する声も聞かず、遥は長い髪をざくざくと切った。

「あ、ああ……南……なんてことを」

 片手で掴めるほどの一房を切り落とすと、遥はそれを男の顔めがけて投げつけた。そのつもりだったけれど、距離があったせいで、髪束は途中でばらけて辺りにはらはらと散らばった。なんだか余計に腹が立つ。

「私は南じゃない!」

 大声で叫ぶ。カッターを投げそうになって、それはまずいと思い直し、靴を脱いで力いっぱい投げつけた。

 今度は気持ちいいくらいに、男の顔に命中した。

「私は遥です!」

「靴を投げるだなんて……それに髪も無残に……こんなの俺の南じゃない……」

 泥だらけのローヒールを顔で受け止めた男は、がっくりと地面に両手をついた。

「だから言ってるじゃないですか。私は南じゃないって」

 遥は力なく繰り返した。

 隼人が男の腕を引いて顔を上げさせると、両目を覗き込んで強く言った。

「南さんは亡くなりました」

 一段と低い声が辺りを震わせる。

「ああ……」

 崩れ落ちる寸前の男のスーツのポケットから、隼人は何か抜き取った。あっさり手を離して、彼が地面にぐしゃっと落ちるのを見もせずに、隼人は手に持ったそれを読み上げる。

「理工学部研究棟事務、畠野芳正」

 身分証だったらしい。

「どうするんですか? 通報しますか?」

 そう尋ねた里絵奈に、隼人はそこで初めて遥を振り返った。左側の一部が短くなった髪を見て、眉をひそめる。

「すみません、遥さん」

「いえ、自分でやったことなので。……どうせ切ろうと思ってたし」

 遥は首を振る。中途半端な髪が頬に当たった。

「それより、その人、できれば通報しないでもらえますか? 両親の反応が心配なので」

「遥さんがそう言うなら」

 遥の頼みを聞き入れてくれた隼人は、畠野の前に身分証を落とした。

「南さんはもういないってわかりましたか?」

「ああ……ああ……やっぱり本当に死んでしまったのか……」

 畠野は泣いているようだった。

「畠野芳正さん」

 隼人に呼ばれ顔を上げた畠野は、ひぃっと息を飲んだ。蒼白になって、中途半端な姿勢のまま固まる。隼人はそんな彼を見下ろし、

「いいですか? 僕はあなたのこと、覚えましたからね。二度と忘れませんよ」

 畠野は、呪縛が解けたようにぶるりと身体を震わすと、何度もうなずいた。両手で身分証を拾うと、半ば転げながら立ち去った。

「先輩、何したんですか?」

 美咲が恐る恐る聞く。振り返った隼人はいつものように微笑んだ。

「僕は、何もしてませんよ。ただ、あの人のことを覚えただけです」

「えーっと、そうですか。あはは」

 美咲はごまかすように笑った。遥もひきつった笑顔を浮かべる。こちらからは隼人の背中しか見えていなかったけれど、どんな表情をしていたのだろうか。畠野の様子からして、あまり考えない方がいい気がした。

 遥が投げつけた靴を拾った隼人はそれを史郎に持たせた。史郎は無言で受け取って、それから遥の鞄も持った。

「逸見さんと浜崎さんは、遥さんの靴下、新しいもの買ってきてもらえますか? 僕の研究室にいるんで」

「は、はい」

「わかりました」

 隼人はそれから遥を見て、短くなった髪を撫でる。痛みを堪えるような視線に、遥は動けなかった。

「きちんと直してもらった方がいいでしょう? そのまま帰ったらご両親が心配しますよ」

「あーはい。そうですよね」

 隼人は泥水の染みができた白衣を脱いで、それも史郎に押し付けた。史郎は少し憮然とした表情で、でも何も言わずに受け取った。

「ちょっとだけ我慢していてくださいね」

「え?」

 隼人は遥の返事を待たずに、遥を両腕で抱え上げる。いきなり視界が高くなった遥は、悲鳴を上げた。

「きゃっ!」

「怖かったらどこかつかまっていてくださいね」

 隼人が歩き出すと揺れるのが怖くて、遥は彼の肩を掴んだ。

 史郎が「先輩、研究室どこですか?」と聞き、隼人が部屋番号を言う。

「だって。わからなかったら俺に電話して」

 遥の靴と鞄と隼人の白衣を持った史郎を見て、美咲と里絵奈がうなずきながら、

「和田君、分が悪すぎない?」

「さすがにちょっとかわいそうで、応援してあげたくなってきたかも」

 ひそひそ言い合っていたのを、遥は知らない。

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