第三章 色を変える(9)

 落ち着かない気分で四限目まで乗り切った遥がニカフェに行くと、史郎がいた。遥が飲み物を買って、彼のいるテーブルに行くと、美咲がやってきた。そういえば、月曜は美咲と里絵奈と三人でニカフェに集まることが多かった。

「遥! どうしたの? 大丈夫?」

 美咲は遥に飛びつかんばかりに腕を取って、史郎を睨む。

「和田君。遥が緊急事態ってどういうこと?」

「え? 何それ」

「私も説明して欲しいんだけど」

 遥が史郎を見ると、後ろから里絵奈が現れた。彼女も史郎を睨んでいる。風邪をひいているようには見えない。

 史郎は、三人分の視線をものともせず、立ち上がる。

「緊急事態だったよね?」

 確認するように遥を見た。

「逸見さんがサークルに来なくて、態度がおかしくて、授業をさぼって。遥ちゃんは悩んでた。……だろ?」

「うん。そう! 確かに、緊急事態だった」

 遥がうなずくと、史郎は里絵奈を見た。

「逸見さん、俺、面倒なことに巻き込まれたくないんだ」

「和田君……」

「自分はやめるかもしれないけれど、サークルで遥ちゃんに気を配って欲しい。特に浜崎さんの動向に注意してくれって、俺は先週、逸見さんに頼まれた。しかも、遥ちゃんには言わないで、だ」

 史郎は遥に向けてそう説明した。

「逸見さんと浜崎さんの間に何があったのか俺は知らないし興味もない。でも、遥ちゃんも知らないみたいだった。そのせいで思い悩んでた」

 そこで史郎は再び里絵奈を見る。

「それは、逸見さんの気持ちに反することじゃないの?」

「っ……」

 言われた里絵奈は言葉に詰まった。

 史郎は椅子を引いて一歩下がる。

「三人で話し合ったら?」

「そうだね……。私も面倒なこと好きじゃないし」

 里絵奈はため息をつく。

「和田君もいてよ」

 そう言って彼女は椅子に座った。遥も倣う。ずっと黙っていた美咲が「和田君は関係ないじゃない!」と言った。

「いいんだよ、和田君は。――遥のお姉さんのこと知ってるから」

 里絵奈がそう言うと、美咲は絶句した。普段の彼女から考えられないくらいの強さで史郎を睨んだ。

「なんで、こいつが知ってるのよ!」

「遥が話したからだよ」

 里絵奈に言われた美咲は遥を見る。遥はわけがわからないながらもうなずいた。

「そう……」

 美咲は糸が切れたように、椅子に座る。話がついたと見たのか、史郎も再び席についた。

「お姉ちゃんに関係があることなの?」

 遥は誰にともなく聞いた。返事をしたのは里絵奈だった。美咲はふてくされたように、自分の膝を見つめている。

「五年前、柘植南さんを撥ねた車を運転していたのは私の父だった」

「えっ? ホントに?」

 遥は驚いて里絵奈を見る。史郎も知らなかったようで目を見開いていた。

「本当」

 確か、前方不注意の信号無視だった。加害者の車は南をひいたあと、ちょうど走って来た大型トラックにぶつかった。運転手は亡くなったのだ。

 社会的にどういう結論が出ているのか、遥は知らなかった。加害者の家族とのやりとりも知らない。

「でも、名字……」

「うん。逸見は母の旧姓。あのころは都内に住んでたんだけれど、さすがにいられなくなって引っ越したんだ」

「ごめん、私知らなくて……」

 里絵奈は首を振った。

「母と南さんのお葬式に行ったの。柘植さんのご家族は皆、魂が抜けたみたいで……殴られても仕方ないって思って行ったのに、ああそうですか、ってそれだけ。母が、何でもして償いますって言ったら、何もしなくていい、何をしてもらってもあの子は帰って来ないから、って」

「私、その場には……」

「遥はいなかった」

 遥は「ごめん」と謝った。どういう意味の謝罪なのか自分でもよくわからなかった。

「それで、保険の範囲での補償だけで柘植さんとの関わりは終わったんだ」

「そうだったんだ……。私、考えたこともなくて、加……相手の運転手さんのこと。その家族がどうしてるかなんて」

「いいんだよ、別に」

 里絵奈は、一度言葉を切ってから、遥を見た。

「南さんが新山大学の文学部に通ってたって知って、南さんが勉強したかったことって何だろうって考えた。お父さんが奪ってしまった人の未来は何だったのか。……私が代わりに、なんておこがましいことを考えてたつもりはなかったんだけれど、もしかしたら少しはあったかもしれない。自己満足だよね……。同じ大学、同じ学部を目指して、入学したら遥がいた」

 里絵奈は少し笑った。遥は、彼女の言いたいことがわかる。

「お姉ちゃんの顔、知ってたんだね」

「お葬式の遺影でね」

 ずっと黙っていた美咲が、「どういう意味?」とつっけんどんに聞く。

「遥と南さん、そっくりなんだ」

 里絵奈が答えるのに、「見た目だけね」と遥は付け加えた。

「迷った末に私は遥に話しかけて、仲良くなった。遥も南さんの足跡をなぞってるんだと思った。マイナーなサークルにいきなり加入してみたり、ね」

「うん。そう」

「遥が南さんのことを話してくれたときに、私も話していれば良かった」

「そうだよ。なんで言ってくれなかったの?」

 遥はそのときのことを思い出す。里絵奈は初めて知ったことのように聞いていた。

「遥が加害者の話をしなかったから。もしかして、忘れることで心の均衡を保っているんだったとしたら、私が加害者の娘だって言うのは良くないことなんじゃないかって思ったんだ」

「そんな……私、本当に全然……」

 誰がどう南の命を奪ったかよりも、南がもういないことの方が、遥にとっては重要だった。加害者のことまで気が回らなかったせいで、憎む気持ちはなかった。

「里絵奈のことを知った今でも、別に、何も……」

 里絵奈が直接何かしたわけでもないし、彼女に対して思うところはない。

 しかし、里絵奈はどうだったのだろう。

 どんな気持ちで遥に接していたのだろうか。南の話をしたときどう思ったのだろう。知らないうちに傷つけていたのではないだろうか。それがとても気になった。

 うかがうように見つめた遥に、里絵奈は苦笑した。

「わかってる。……正直ね、ここまで気にされていないと思ってなくて、だから、今、逆にちょっとショックを受けてる」

「あ……ごめん……」

「とか言っても、憎んで欲しいわけじゃないから」

 里絵奈は冗談めかして言う。遥も少し笑った。

「それで、なんで私を急に避けるようになったの?」

「あー、それは、美咲が父のことを調べてきて、遥に知られたくなかったらサークルをやめろって言うから」

「美咲? なんでそんなことしたの?」

 遥が問い詰めると、美咲は下を向いたまま、

「こないだの大学祭のとき、隼人先輩と話してたのを聞いちゃったの。それで、ネットで検索したら、簡単に出てきて……名字違ったけれど、里絵奈ってそんなに多くないでしょ。カマかけてみたら当たっちゃった」

「それで、どうして脅すようなこと言うの?」

「里絵奈は遥に仕返しするつもりなんじゃないかって思ったの!」

 美咲が大きな声を出す。

「ネット、ちょっとひどかったから」

「美咲。言わなくていい」

 里絵奈が口早に遮って、遥に「あんたは絶対に調べたりしないで」と念を押した。

「今はもう何もないから、大丈夫」

「うん……」

 遥は里絵奈の強い視線に押されるようにうなずいた。

 知らなくていいと言われたことで、遥は内心ほっとした。そして、すぐに自己嫌悪した。

 顔に出てしまったのだろう、里絵奈が繰り返した。

「大丈夫だから。南さんのせいじゃない」

「うん。でも……」

「私の父が悪いんだから」

「……それは……」

 違うとは言えず、けれども、その通りだとも思えなくて、遥は口ごもり、曖昧に首を振った。

「でも、里絵奈が悪いわけじゃないでしょ。それなのに、あんなの」

 遥の代わりにそう言ったのは、意外にも美咲だった。

「美咲、あんた、私のこと嫌いなんじゃなかったの?」

「別に」

 美咲はそっぽを向く。

「里絵奈より遥の方が好きなだけだもん」

「ああ、そう」

 里絵奈は困った顔で笑った。

 二人を見比べて、遥は、南の事故の加害者について考えないことに決めた。今までも意識していなかったのだから、これからもそれで構わないだろう。

 遥は美咲に聞く。

「里絵奈がここにいる理由が分かったんだから、もう美咲の心配はなくなったよね?」

「……そうだね」

「じゃあ、今まで通りってことでいい?」

 遥がそう言うと、美咲も里絵奈も戸惑ったように遥を見た。だから、遥も戸惑う。

「え、だめなの?」

「遥はいいの?」

 美咲が聞く。

「お姉さんの命を奪った人の娘と、友だちを脅すような女と、今まで通りでいいの?」

「うん、いいけど?」

「何なの! もう!」

 美咲はそう言って遥に抱きついた。

「でも、もし二人が嫌なら……」

「嫌なわけないじゃない! 仕方ないから今まで通りにしてあげるよ」

「あはは、ありがとう」

 遥は里絵奈を見る。

「里絵奈は?」

「遥がいいなら。……ただ、今まで通りは難しいかもしれないけれど」

 真顔で答える里絵奈に、遥も神妙にうなずく。

「うん。だから、お互い分かった上で、新しい付き合い方を探さない?」

 遥はちらっと史郎に目をやった。母との関係を悩んでいたときに、彼から言われたことだ。

 史郎は遥の視線の意味に気付いた様子もなく、ただ黙って見守ってくれていた。

「新しい付き合い方か……」

 里絵奈はそう繰り返して、一度目を閉じた。そして、遥をまっすぐに見つめる。

「そうだね。そうしよう」

「ありがとう」

 遥は抱きついたままの美咲ごと、里絵奈を抱きしめた。

「ちょっ、遥! 離してよ」

「あはは、だめー」

「えいっ!」

「美咲、重いってば!」

「あ、待って、倒れる」

 美咲が笑いながら体重をかけてきて、バランスを崩して倒れそうになって、三人で大声をあげる。

「周りに迷惑だからやめなよ」

 ずっと黙っていた史郎が呆れたように言い、遥たちは席に座り直した。

「ほらぁ、遥ー」

「え、私? 美咲でしょ?」

「どっちもだよ」

「三人全員だろ」

 責任転嫁しあう遥たちにそう言って、史郎は立ち上がった。

「解決したなら、俺、帰るけど」

 遥は慌てて、

「ありがとう、史郎君。また今度何かおごるね」

「あ、私もー」

「私もありがとう」

 美咲と里絵奈が追いかけるように言うと、史郎は「ホテルのケーキバイキング」と言って去って行った。

 残された三人は、「何それ、おいしそう」とひとしきり盛り上がり、さっそくスマホで検索して計画を立てたのだった。

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