第三章 色を変える(7)
遥は乗り換えのため、新山駅から榎並駅の間の道を歩いていた。六時を少しすぎたくらいでは、土曜と言っても、学生中心の街は人通りが絶えない。居酒屋が開店し始め、これから夜の部といった雰囲気だった。都内はとっくに梅雨入りしていて、今週は雨が続いていたけれど、今日はどうにか一日降らずに曇天で踏みとどまっていた。
ポットホルダーはなんとか編み上がった。帰ってスチームアイロンをかけたらできあがる。母におみやげにするつもりだ。
そこで、史郎に話すのを忘れたことがあるのを思い出した。夏子の手紙が見つからないのだ。
夏子から届いた手紙がなかったか母に聞いたけれど、母は知らないようだった。夏子の手紙どころか、郵便物は何一つ届いていなかったらしい。遥は知らなかったのだけれど、南の住民票は実家から移していないままで、だから携帯の請求書のような書類は全て実家に届いていたそうだ。ルミエール南に届くのは南の私信だけだろうということだ。母は「今どきは皆メールでやりとりするから、手紙なんてこなくても不思議に思ってなかったわ」と言った。
母が嘘をついているとは思えなかったけれど、事故直後で動転していた可能性もある。遥は念のため、ルミエール南の部屋を探してみたけれど、それらしき手紙はなかった。
夏子の手紙は郵便事故か何かで行方不明になってしまったのだろうか。
新山駅から榎並駅への道は、途中まで新山大学の敷地に沿っている。四車線の広い車道の片側に古書店や居酒屋、スーパーやドラッグストアが並ぶ。その一本奥の道に入ると学生向けのマンションやアパート、銭湯なんかもある。もう片側が大学の敷地に面していた。駅から一ブロック歩けば、両側ともに商店と住宅になるのだけれど。
その大学の敷地に面した歩道を遥は歩いていた。腰高のブロック塀の上に高い金属の柵が建っている。柵の内側に種類は知らないけれど、ごつごつした木肌の落葉樹が植えられていて、その向こうが理工学部の研究棟だった。いくつかの窓に明かりが灯っている。
がさがさと音がするのに気づいたのは、敷地の端に近づいたころだった。遥と平行して、誰かが柵の中を歩いている気がする。遥は少し速度を落とす。すると、音も遅くなる。偶然にしては違和感があった。
確かこの先に裏口があって、大学の敷地に出入りできる。隣を歩いている誰かが出てきたら、鉢合わせする可能性があった。
信号のないところで渡るにしては車道は広く、車も多かった。走って突っ切るか。戻って信号を渡るか。
そもそも本当にこの音は遥のあとをつけてきているんだろうか。――確信はなかった。
戻るのも面倒だし、辺りは十分明るかったし、少し先に歩いている人が見えたし、遥は思い切ってそのまま進むことにした。
遥が歩き出すと、待っていたように音も聞こえ出す。柵と木を透かして、横目で見てみた。確かに人影がある。暗い色の服を着ている。顔は見えない。
いっそ話しかけてみたらどうかと考えたところで、いきなり人影が速度を上げた。遥を追い越すと、裏口に回り込んだのが見えた。先回りされたと気づく。思わず足が止まった。
遥が一歩後ずさった、そのとき。
「遥さん!」
後ろから声がかけられた。よく響く低音。この声は知っている。隼人だ。
もう少しで裏口から出ようとしていた人影は慌てたように駆け戻り、そのまま走って敷地の奥に行ってしまった。体形に目立った特徴がないことはわかったけれど、どんな人物かそれ以上はわからなかった。
遥の髪を風が揺らす。遥は、隼人にもう一度呼ばれて振り返った。いつもの白衣が明るくて、遥はほっと息をつく。
「遥さん。上から見かけたので走って来てしまいました」
肩で息をしている隼人は、隣に見えている建物を指差す。
「あの中に僕の研究室があるんです」
呆然としていた遥は、無言のままうなずいた。土曜なのに大変ですね、くらい言えばいいのに。そう頭のどこかでは考えていた。
「先日のことを謝りたいんですが、話をしてもいいですか?」
隼人は遥の顔色を窺うように見下ろした。
「先日……」
「山茶花女子の大学祭で。……南さんの心残りと言ってしまったことです」
「あ……」
遥は思い出して、一気に覚醒した。
「あれは、私もすみません。ちょっと動揺してしまって」
隼人の前で泣いてしまった。恥ずかしさに顔が熱くなる。
「いえ、僕が悪いんです。すみません」
隼人は頭を下げてから、「榎並駅まで?」と聞いた。遥がうなずくと、「歩きながら話しましょう」と促した。一人で帰らなくて済んで、遥は密かに胸を撫で下ろした。
「僕が南さんと出会ったのは、都歩研です。一目惚れって言えばいいかな。けっこう必死にアプローチしたんです」
隼人は小声で笑った。隼人は整った顔立ちで、恋愛関係で苦労しそうには思えない。実際、美咲と一緒に都歩研に参加していた子が隼人狙いだったはずだ。
「南さんは少しミステリアスでしたね」
「秘密主義です」
「ははは。確かに」
隼人は顔を上げて、まっすぐ前を見つめた。
「好きだったんですよ。本当に」
そこに実際に南がいるように言う。熱のこもったセリフに、遥は赤面しそうになる。漫画やドラマではなく、こんな風に真摯に誰かが誰かを好きだと言うのを目にするのは初めてだった。
「秋までには、休日に二人で出かけるまでになりました」
「おー」
遥は思わず歓声を上げてしまう。
「十二月の頭に僕の誕生日があって、南さんに祝って欲しいってお願いしたんです。そうしたら、彼女、僕の部屋に来て料理してくれて」
「きゃー」
まるで女子同士の話を聞いているように盛り上がってしまう遥に、隼人は苦笑した。
「僕はずっと好きだと伝えていて、南さんは何とも言わなかったけれど、受け入れられていると僕は思ってたんです。周りも僕らが付き合っていると思っていて、そういう扱いをしていた。それも南さんは否定しなかった。……好きだとは言ったけれど、付き合って欲しいとは言わなかった僕がいけなかったのかもしれないのですが……」
隼人は一度言葉を切ってから、
「誕生日、部屋に来てくれたら期待してしまうのは仕方のないことでしょう? あのときは、僕もまだ若かったんです」
「えっと、それは……」
「ちょっと言いにくいんですが……端的に言えば、押し倒そうとしたら逃げられました」
「あー……」
遥は返答に困る。しかも、目の前の先輩と自分の姉の話なのだ。
「そのときの忘れ物があの編み図のファイルでした」
隼人は話を続けた。
「僕は頭を冷やそうと思って、早めの冬休みを自主的に取って旅に出ました」
「北海道とか沖縄とかですか? それとも海外ですか?」
「いえ、北関東です」
「北関東」
意外と近くですね、とは言わずにおいた。
「バイクを持っていたので。夏だったらキャンプ場なんですが、冬だったので安い民宿などを辿ってですね……クリスマスに帰ってきました。悪いのは僕なので、南さんに謝ろうと思ったんです」
「もしかして、クリスマスまでご存じなかったんですか?」
「はい、途中で携帯の電池が切れて、ずっとそのままだったんです」
クリスマスならもう葬儀も終わっていた。
「あまりのショックに僕はもう一度旅に出ました」
「え? 北関東ですか?」
「いえ、小笠原です」
「小笠原」
遠いけれど東京都ですね、とは言わずにおいた。
「民宿で働かせてもらって、そのまま四月まですごしました」
「えっ? 四月? 留年した理由ってそれですか?」
「一度目はそうですね。休学届を出して行けば良かったんですが失念していて」
「ちょっとした失踪じゃないですか」
「実家には連絡していましたよ」
隼人は笑う。姉はミステリアスだったかもしれないけれど、隼人も十分そうだ。
「二度目の留年は、その翌年ですね。ちょっと理解しがたい事態に遭遇して、もう少し現実逃避していたくなって、インディーズバンドに精を出してしまいました。だから、僕は一年の授業を三回受けています」
目を瞬かせる遥に微笑んでから、隼人は顔を上げる。
「南さんのせいにするつもりはありませんよ」
それから、口調を変えて明るく言う。
「彼女の気持ちが知りたいんです。もし僕のことを南さんが何か言っていたら、教えてくださいね」
ちょうど榎並駅の前だった。地下鉄の階段に遥を押し出すように、隼人は微笑んだ。
遥は、姉の部屋で見た編みかけのマフラーを思い出す。
「先輩は何色が好きですか?」
「突然どうしました? 好きな色ですか。……黒ですかね」
「黒……やっぱり。姉からも聞かれたことないですか?」
「南さんから? ああ、ありますね。いつだろう。秋ごろですか」
隼人は横を向いて首を傾げた。
「姉の部屋に編みかけのマフラーがあったんです。黒と濃いグレーの。たぶんあれは先輩のためのものだと思うんです」
「そうなんですか?」
「今度持って来ますね。たぶん母も許可してくれると思うので。……ここまで送っていただいて、ありがとうございます」
遥はそう言って、挨拶をして踵を返す。
あの編みかけのマフラーは、明らかに南がやり残したことだ。南に心残りがあるのではと隼人が考えているなら、彼にマフラーを渡すのは、隼人にとっても悪くないことのように思えた。
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