第三章 色を変える(5)

 輪の作り目、一段目は細編み。二段目は長編みと鎖編み。ここまではターコイズブルーだった。三段目から白に変わる。

「史郎君、ここで色変わるんだけど」

「ん?」

 ソファに座って黙々と自分の作業をしていた史郎は、ローテーブルに身を乗り出して遥の見ていたレシピ本を覗き込む。遥は向かいの史郎が見えるように、本の向きを変えた。遥の指差した編み図を見て、史郎は店から持ってきた初心者向けのレシピ本を開いて遥に渡した。

「これ見てわかる?」

 糸を変える方法が図で説明されている。

「えっと……、あ、最後の引き抜き編みのときに変えるんだ……」

 遥はかぎ針を外して、一目ほどく。

「それで……前の糸と新しい糸にかけて……ってこれでいいの?」

 遥が聞くと、史郎は「ちょっと待って」と言って立ち上がるとテーブルを迂回してくる。床に座っていた遥の後ろにあるソファに座るから、遥は編地を掲げた。

「ああ、合ってる」

「ホント? 良かった。そしたら、新しい糸だけ引き抜く……っと。……うん、できた、かな?」

「大丈夫。できてる」

 史郎の声が珍しく笑みを含んでいるようで、遥は気になって振り返った。思ったより近くに彼の顔があって、遥は驚く。史郎も驚いた様子で、ばっと身を引いた。

「いきなり振り返らないでよ」

「ごめん。って、謝るの私なの?」

「いや、悪い。……のか、俺が?」

 二人して首を傾げるから、遥はおかしくなった。くすくす笑う。

「どっちでもいいよ、もう」

「ああ、うん」

 遥は手元に向き直って、

「これ、最初の糸の端はどうするの?」

「本に載ってない?」

「えっと、あーあった。……編みこんでいくんだ……。ってことは、次は……」

 そこで、最初のレシピ本に戻って、遥は白い毛糸で三段目を編み始める。まずは鎖編みを三目だ。その中に、ターコイズブルーの毛糸の端を編み包んでいくのだ。

 斜め後ろから見ていた史郎は、遥が質問しないからか、元いたソファに戻っていった。

 彼が自分の作業を始めるのを見て、遥は手を休めないまま、質問してみる。

「史郎君さ、最近、里絵奈と会った?」

「逸見さん? なんで?」

「うーん、よくわかんないんだけど、私、避けられているのかもしれなくて……」

 先週の土日に山茶花女子大学の大学祭の手伝いをしたときは普通だった。月曜も普通だった。美咲と里絵奈と遥で、放課後ニカフェでお茶を飲んだ。火曜は、遥は地元で家庭教師のバイトがあって放課後すぐに帰宅した。水曜の昼は都歩研の集まりだった。そのときに里絵奈は用事があると言って来なかった。次の都歩研の活動は休むと言われた。なんとなく雰囲気がおかしく、心配になった遥は「やめないよね?」と聞いたけれど、里絵奈は曖昧に笑っただけだった。それからは、学科の授業で一緒のとき話しかけてもよそよそしい気がして、遥はどうしたらいいのかわからなくなった。

「原因に心当たりがあるの?」

 史郎がちらっとこちらを見て、また手元に目を落とした。遥の手はとっくに止まっている。

「ううん。ない。……何もしてないと思うんだけど……」

「浜崎さんは、どうしてる?」

「え、美咲? 美咲は別に普通だけど」

 遥が首を傾げて、美咲がどうかしたのか聞こうとしたら、史郎が先んじた。

「逸見さんに直接聞けば?」

「そうなんだけどー。それはわかってるんだけどさ!」

 遥が言うと史郎は「面倒くさいな」とつぶやいた。

「それで今日元気ないの?」

「そう? 元気ない、かなぁ……?」

 自覚していないことを指摘されて、遥は戸惑う。史郎は顔を上げて、自分の目元を指差した。

「クマできてる。寝てないの?」

「ええー、ホント? 目立つ?」

 確かに昨日は遅くまで眠れなかった。ここ数日の自分の態度と、里絵奈の様子をずっと思い出して考えていたのだ。

「別に。そうでもない」

 史郎は首を振ってから、

「逸見さんに電話してみたら?」

「う、ううー。うーん。えっと、月曜に会ったら聞いてみることにする」

 電話して繋がるならいいけれど、出なかった場合、無視されたんじゃないかと不安が膨らみそうで嫌だった。月曜の学科の授業なら絶対顔を合わせるから、そのときに聞くほうがましだ。

「避けられているなんて気のせいで、月曜になったら前と変わらないかもしれないし」

 問題の先送りだろうか。

 史郎は何か言いたそうに口を開いて、でも結局何も言わなかった。編み物を再開する。

 遥も彼に倣って編み図に目を向けた。見たことがあるのとは少し違った記号がある。

「これも玉編み? 三目まとめて?」

 Tの縦棒に点を付けたような記号が長編み目だ。その縦棒を二つにして、どちらも下の段の同じ目を拾うのが「長編み二目の玉編み目」だった。――二目ということは三目があっても不思議ではないのか。遥が自分で気づいたところで、史郎が編み図記号の一覧ページを開いてくれる。

「四目も五目もあるから」

「えー、ものすごいふっくらしそう」

 長編みを引き抜く手前まで、二目なら二目、三目なら三目編んで、最後に全てまとめて引く抜く。玉編み目の名前の通りに大きな目になる。

 遥は編み図記号のページを確認しながら、編んでいく。三目まとめて引き抜くと、微妙にゆがんだ目ができた。長編みのそれぞれの目が同じテンションでできていないからか、一つだけ緩く浮いている。

「うーん、なんだか……まぁいいか……」

 遥が出来映えに苦笑していると、史郎が自分の道具を持って遥の後ろのソファに回ってきた。

「見てていい?」

「うん」

 玉編みの次に鎖編みが三目。それからもう一度玉編み。

 遥が三つ目の長編みを作ったとき、史郎が、

「段々、長くなってるよ。ほんのちょっとだけ最後きつくしてみたら?」

「ほんのちょっとだけって難しいことを……」

「いや、そうしようって思うだけで違う」

「そうなの?」

「ま、結局は経験だと思うんだけど」

「それ言ったらさー」

 遥は口を尖らせながら、ちょっとだけきつく、と心がけてみる。三目まとめて引き抜くと、先ほどよりはゆがみがなくなったような気がした。

「おー、さっきよりましかも」

 遥は少し笑って、次を編み進める。史郎もそこで自分の作業を始めたようだった。

 黙々と、ひたすら手を動かしていると、気が紛れた。昼までには出来上がるかもしれない。

 しばらく経って、LDKのドアが開いた。顔を覗かせたのは、史郎の従姉の安藤瑠依だった。

「珍しっ。史郎、手が止まってるじゃない? 何、ぼーっとしてるのよ」

「別に」

 不機嫌に短く答える史郎に、瑠依はふふふと笑って、遥を見た。

「遥ちゃん、久しぶりー」

「こんにちはー。お久しぶりです」

 瑠依は軽く手を振ると、史郎に「お昼食べた?」と聞いた。

「まだ」

「じゃあ、外行かない? 車出すから」

 瑠依の後ろから、背の高い青年が現れた。

「史郎君、久しぶり」

「野中さん、来てたんですか」

「君が遥ちゃん? はじめまして。野中雪哉です」

 瑠依よりいくつか年上だろう。短い髪も相まって、爽やかな印象の彼は、明るく笑った。遥が自己紹介すると、瑠依が雪哉を見上げて笑う。

「私の婚約者なの。七月に結婚式するのよ」

「そうなんですか? わー、おめでとうございます!」

「そうだ、遥ちゃんも披露宴に出席してよ」

「え、でも、私、関係ないし」

「大丈夫、大丈夫。舞依だって彼氏連れてくるんだから」

 舞依は瑠依の妹だ。遥は会ったことがないけれど、名前だけは聞いて知っていた。

 史郎を見てウィンクする瑠依に、遥は首を振る。

「私、別に、史郎君とはそういうんじゃないです」

「あらあ……」

 瑠依に目を向けられた史郎はうんざりした顔でため息をつく。

「食べに行くなら早く行こうよ」

「遥ちゃん、食べられないものはある?」

 さらに何か言いたそうにした瑠依をなだめるように肩に手を置いて、雪哉が遥に聞く。遥は首を振った。

「瑠依が前に話してたイタリアンは?」

「そうねぇ」

 二人は話しながら、先に出て行く。

 それを見送って、遥はふと思い出す。史郎は瑠依のことが好きなのではなかっただろうか。

「あの、史郎君。瑠依さん、結婚するんだね……えっと」

 残念だったね、と言うのもおかしいだろうか。

 言葉を探す遥に、史郎は顔をしかめて、立ち上がる。

「俺が瑠依ちゃんのこと好きだってのは勘違いだから。本当に! 地味に削られるからやめて欲しい」

 心底疲れたような声だったから、遥は素直に謝った。

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